第83話 評決
閂の外れる鈍い音で、目が覚めた。
戸を開けたのは昨日の案内の男で、「頭が呼んでいる」とだけ短く告げた。
大部屋の光景は、昨日とは様変わりしていた。
壁際に敷かれていた莚が綺麗に片隅へ寄せられ、床の中央がぽっかりと円形に空けられている。
石上派の人間たちが、その空白を取り囲むようにして直立していた。
数えた。
大人が十七人。幼い子供の二人は外にいるらしく、壁の向こうから、碍子に小石の当たる音が規則正しく聞こえてくる。
高い位置の小窓からの朝の光は、まだ床までは届いていなかった。
立ち並ぶ人間たちの顔は、薄暗がりの中で、竈の赤い炭火の色に照らされていた。
大鍋は火に掛けられたまま、白い湯気を静かに立ち上らせている。
年配の女性がときどき列からそっと抜け出し、鍋の木蓋を少しずらして火加減を確かめ、また元の位置へと戻っていった。
この教団の生死を決する評決の朝であっても、日々の飯の支度だけは、寸分違わず進められていた。
◆◆◆
弓削は、作業台の前に腰を下ろしていた。
座ったまま、乾いた布で一本の鉄の棒を丁寧に拭い続けている。
「……南の尾根の話だ」
部屋全体へ向けて、弓削がそれだけを切り出した。
台座の脇に立っていた若い男が、即座に声を上げた。
「この場で、実際に実演して見せてもらえばいい!」
「見て、どうする」
弓削は拭く手を止めずに言った。
「安心したいんです! 仲間が減り続けているのは、拝むべきしるしがないからだ! 経典も、旗も、何もないからだ!」
別の年長の男が、それに強い口調で反論した。
「もし派手な旗なんか掲げてみろ、二十七人の損失どころじゃ済まなくなるぞ!」
「見世物の奇術を見たいんじゃない! 北の境界帯を抜けるときに、道具として本当に役立つのかどうか、それだけだ!」
言い争いは、昨夜からの議論の延長のようだった。
弓削は鉄の棒を裏へと返し、再び布を当てた。
「おまえたちの言い分は、昨夜すべて聞いた。二度は言わせるな」
拭く手の速度も、声の調子も、少しも乱れなかった。
「本人に訊く」
鉄の棒の先端が、私のほうを真っ直ぐに指した。
「……あんたなのか」
はい、と答えれば、教団の偶像として担ぎ上げられ、旗にされる。
いいえ、と答えれば、明石さんたちを守るための嘘になる。
答えを探しあぐねているその数秒のあいだ、十七人分の冷徹な視線が一斉に私へと突き刺さっていた。
立っている足の裏から、コンクリートの冷気がじわじわと這い上がってくる。
その沈黙の間へと、由良が静かに進み出た。
◆◆◆
取り囲んでいた人垣が、音もなく左右へと割れた。
誰も道を譲れと命じていないのに、由良が歩む幅の分だけ、自然と空間が空いていった。
由良は円形の空白の真ん中まで凛として歩みを進め、冷たい床に膝をつき、自らの膝の前に両の手のひらをそっとついた。
看取りの家で培われた、最も慎ましやかで尊い正座の所作だった。
この部屋の中でその所作の本当の意味を知っているのは、私と明石さんだけだった。
「……申し上げます」
決して声を張り上げてはいなかった。
だが、この広大な変電所のいちばん遠い壁の隅々にまで、染み渡るように届く声だった。
「機械が、あの方の前で静かになるのを、私はこの目で確かに見届けました」
由良は、右手の指を一本、静かに折った。
「二足で歩く国家の機械が、山道の途中で立ち止まり、そのまま一度も動かなくなりました」
二本目の指を折った。
「空から旋回して下りてきた金属の機械が、あの方の前で、地面へと墜落いたしました」
折った二本の指を、自らの白い麻の衣の膝の上へと静かに置いた。
「一度きりの偶然では、ございません」
「……どこで、それを見た」
台座の脇の若い男が、喉を詰まらせるように尋ねた。
「お傍で、ございます」
誰かが鼻で笑いかけて、そのあまりにも純粋で淀みのない横顔の前に、息を呑んで押し黙った。
私は、由良の折られた二本の指をじっと見つめていた。
生まれてからずっと、私は数を【数える側】の人間として生きてきた。
港の荷も、階段の段数も、すべて私が数えてきたのだ。
だが——いま、あの小さな二本の指の上で、数えられているのは私自身の存在だった。
弓削のやすりの手は、止まっていなかった。
「……尾根の話と、いまの娘の話は、出どころが完全に別だ」
弓削は鉄の棒を裏へと返した。
「別々の二つの話が、寸分違わず同じ一人の人間を指している」
◆◆◆
「なら、決まりだ!」
台座の脇の男が言った。
「あいつを北の帯へ連れて行けば、監視機械のほうが勝手に避けて通る!」
「……避けません」
私は、一歩前に出て言葉を挟んだ。
「北の境界帯の中では、私の耳の感覚は一切利きません。何も聞こえませんし、機械を止めることもできません。ここへ至る山道で、自分自身の体で確かめました」
部屋中の視線が、再び私へと集中した。
明石さんが、壁際で右腕を吊る藍染めの三角巾の位置を直した。直しただけで、何も言わなかった。
弓削は、少しも動揺しなかった。
「境界帯の奥深くで利く道具など、うちにも元から存在せんよ」
鉄の棒を、作業台の上へと静かに置いた。
拭いていた布だけを、手に握り締めたままだった。
「だからこそ、人の手で抜けるんだ。人間の目と、人間の足で抜ける。道具はそのあいだ、ただ背負われていればそれでいい」
弓削は、布をぎゅっと握り直した。
「使うのは、境界帯の【外】だ」
男は前を見据えた。
「入る前の検問と、抜けた後の検問。そこに立ちはだかるのは、国家の知能機械そのものだからな」
弓削は部屋の連中を見渡した。
「実物を見たい奴は、道中の道々で好きなだけ見ればいい」
しるしを欲しがっていた連中からは、もはや反論の声は一言も上がらなかった。
◆◆◆
「……決を採る」
弓削が、作業台からゆっくりと立ち上がった。
「この三人を、北の出口まで、うちの手で確実に通す。道中のすべての指図は、うちが預かる。——得心のいかん者は、手を上げろ」
私は習慣で、上がる手の数を無意識に数えようとした。
だが、数えるべき手は、ただの一つも上がらなかった。
「……決まりだ」
人垣が、静かに散っていった。
年配の女性が真っ先に大鍋の前へと戻り、木蓋を外した。
炊き立ての温かい粥の匂いが、部屋いっぱいに広がった。
竈の脇に、木製の椀が端から整然と並べられていく。
その列のいちばん端の三つが、私たちの分だった。
昨日の夕方には、どこにも用意されていなかった椀だった。
由良は、まだ床に膝をついたままでいた。
立ち上がる際、自らの麻の衣の袂の上を、両手で一度だけそっと押さえた。
明石さんが壁から静かに離れ、左手の指先で薬指の付け根を擦った。
擦っただけで、やはり一言も口を開かなかった。
◆◆◆
弓削が、こちらへと歩み寄ってきた。
布はすでに腰の帯にしっかりと挟まれており、空いた指先が、布の端を無意識に巻き直したり解いたりを繰り返していた。
「……昨夜、旗の話をしたな」
「はい」
「旗なら、立てた場所ごと敵から隠さにゃならん」
弓削は、北側の高い窓のスリットを見上げた。
「だが……兵器なら、使いようがある」




