第82話 武器庫
中は、広大なひとつの大部屋だった。
天井が異様に高い。
政変の前は巨大な送配電機械を据え付けていたのだろう、コンクリート床の中ほどに四角い重厚な台座が三つ残されており、ボルトの据え付け穴の周囲に赤錆が浮き出ていた。
その台座と台座のあいだの隙間に、何枚もの藁莚が敷き詰められていた。
人間が、ここで寝起きしていた。
煮炊き用の鉄鍋があり、壁際に丸められた古びた寝具が幾重にも積み上げられている。
数えた。
全部で十九人いた。そのうち、女が四人、幼い子供が二人。
窓は高い位置に二つあるだけで、西日は床の上に斜めの光の帯を作っていた。
その明るい帯の空間の中でだけ、無数の埃が静かに舞い上がっている。
壁際で、子供が二人、碍子を的にして川原の小石を投げて遊んでいた。
石が当たると、陶器の高さによって音の響きが違っていた。
上の陶器の部分に当たると高く澄んだ音が鳴り、下の接続金具に当たると低く鈍い音が鳴る。
子供たちは、高い澄んだ音のする上ばかりを夢中で狙い続けていた。
◆◆◆
部屋の最奥に、粗末な木製の作業台が据えられていた。
厚い足場板を三枚渡しただけの台だ。
板の上には、機械油の染み込んだぼろ布と、太い鉄の棒が何本か無造作に転がされていた。
その作業台の向こう側に、一人の男が腰を下ろしていた。
五十歳前後。
黒く煤けた作業着を着て、座ったまま、一本の鉄の棒の表面に目の細かいやすりをかけ続けていた。
私たちが部屋の中へ足を踏み入れても、男のやすりを動かす手は寸分も止まらなかった。
「……連れてまいりました」
案内してきた男が言った。
「そうか」
台の向こうの男は、視線を上げようとはしなかった。
「三人か」
「三人です」
「一人ずつだ。あとの二人は、奥の部屋へ通せ」
由良と明石さんが、右手の木製戸口のほうへと促された。
由良は敷居をまたぐ際、一度だけ振り返って私の顔を見つめた。
見つめただけで、何も言葉は発しなかった。
明石さんは、一度も振り返らずに奥へと歩いていった。
◆◆◆
「……弓削だ」
作業台の向こうから、鉄を削る規則正しい摩擦の音だけが響いていた。
「うちの、頭をやっている」
「田村と申します」
「そうか」
弓削は、私の偽名を口にして繰り返そうとはしなかった。
「……何ができる」
「字が書けます」
「それは聞いた」
やすりの先端が、鉄の棒の角度を滑らかに変えた。
「もう一つ言え」
「荷の数が読めます」
「数えるのか」
「数えることと、数が揃っていない異常な箇所を見つけ出すことが、私の仕事でした」
「何年やった」
「六年です」
「港か」
「港です」
弓削は、そこで初めてやすりを動かす手の速度を変えた。
わずかに速くなった。
「……それは、うちで使えるな」
私は次の言葉を待った。
だが、弓削はすぐに続けようとはしなかった。
一つの問いを投げかけ、相手の答えを最後まで静かに聞き届け、それから次の問いを置く。
その一定の間合いを崩さずに繰り返していた。
◆◆◆
「……南の尾根の話は、知っているか」
来た。
「耳にしました」
「誰から聞いた」
「山の中で会った人からです。首に白い碍子を提げた男の人でした」
「あいつか」
弓削は、やすりを別の手に持ち替えた。
「先月から、うちの縄張りの中で三回、その話を持ち込んできた者がいた。三回とも、話の細部が一言一句同じだった」
「同じですか」
「寸分違わぬ同じ話というのは、大抵は嘘だ。噂というものは人の口を経由するたびに、必ずどこかの数字や形が変わる。変わらないのは、誰かが一人で同じ嘘を言い続けているときだけだ」
「一人で」
「……もしくは、本当に起きた事実であるときだ」
削り落とされた鉄の微細な粉が、作業台の縁から床へと静かに落ちていく。
「軍が、運ぶのに三人か四人は要る大掛かりな兵器を、あの山奥へ三度も運び上げた。それでも一人を仕留めきれずに撤退した。……うちの若い連中は、その一人の人間を喉から手が出るほど欲しがっている」
「欲しがって、どうするのですか」
「自分の目で見て、安心したいのさ」
弓削は、そこで初めて作業台から顔を上げた。
顔を上げたが、手元のやすりは依然として止まっていなかった。
「おれは、そんなものを見たいとは思わん。問題は、実際にうちの道具として使えるかどうかだ」
「同じことではないのですか」
「まったく違う」
やすりの刃が、鉄の棒の角に一度だけ強く当たった。
「見たいというのは、そいつを掲げて【旗】にしたいということだ。だが……山の中で派手に旗を振れば、敵にこちらの居場所を教えるだけの結果になる」
◆◆◆
右手の戸口の向こう側から、男たちの激しい怒声が響いてきた。
一人が声を荒らげ、別の男が即座に言い返す。
口論の速度が、次第に熱を帯びていく。
弓削は、そちらの扉のほうへ視線を向けようとはしなかった。
「……割れているな」
「はい」
「あんたの耳にも届いているだろう。うちの連中は、いま真っ二つに割れている」
「二つ、ですか」
「一つは、拝むための【しるし】が欲しい連中だ。もう一つは、生き残るための【道具】が欲しい連中だ」
弓削は鉄の棒を目の高さまで持ち上げ、直線の歪みを確認した。
「しるしが欲しい側の言い分は、こうだ。うちには拝むべき教典がない。掲げるべき旗もない。だから人が減っていくのだと。……減った人数は、国家の掃討部隊に連れ去られた数だ」
「掃討……」
「手を叩いてから、撃ち殺す男がいる」
(——あの、柏手の男だ)
「去年から、うちは拠点を三箇所奪われた。仲間は、二十七人減っている」
弓削は、やすりを持つ手を自らの膝の上へと下ろした。
「道具が欲しい側の言い分は、もっと単純だ。北の境界帯を越えて逃げたい者がいる。越える途中で、必ず国家の知能機械に遭遇する。……その遭遇した瞬間に、機械のほうが勝手に迷って狂ってくれればいいと、そう望んでいる」
「機械が、迷う……」
「そう言っている」
弓削は、足元からまた別の鉄の棒を拾い上げた。
「おれは、どちらの言い分も鵜呑みにはせん。おれが選ぶのは、一番手のかからん現実的な道だけだ」
◆◆◆
「あんたは、北へ行きたいんだな」
「はい」
「なぜだ」
「確かめたい事実があります」
「確かめて、一体何が変わる」
「……分かりません」
弓削の手が、一瞬だけ間を落とした。
落としたが、すぐにまた同じ一定の速度へと戻った。
「正直な物言いだな」
「はい」
「うちの若い連中は、そういう曖昧な答えをひどく嫌うぞ」
「そうでしょうね」
「だが、おれは嫌いじゃない。自分の行く先を『分からん』と言い切る奴は、大抵、途中で弱音を吐いて引き返したりせんからな」
建物の外から、金属を金槌で打ち鳴らす硬い音が聞こえてきた。
規則正しく二度、間をおいて、さらに二度。
弓削は、外の方向を一度だけ静かに見やった。
「……あれは、重い蝶番を叩き直している音だ。三人でかかって、丸三日ぶんの労働になる」
「三日ですか」
「うちのような集団の中で、何かひとつの決定を下すのに必要な手間も、大体それくらいだ」
やすりの動きが止まりかけて、しかし止まらなかった。
「だが、三日も悠長には待っていられん。あの手を叩く男の部隊が、確実に北へと上がってきている」
◆◆◆
日が完全に沈み、外は深い闇に包まれた。
私は、奥の小部屋へと連れて行かれた。
かつては何かの受電盤を収めていた部屋らしく、四方の壁の一面だけが板張りになっていた。
板の木肌は新しかった。
窓はなく、分厚い木製扉の外側には、太い頑丈な閂が取り付けられていた。
部屋の中には、由良と明石さんが先に待っていた。
明石さんはコンクリート壁に背中を預けて座り込み、由良はその隣で静かに膝を揃えていた。
「……何を訊かれた」
明石さんが低く尋ねてきた。
「何ができるか、です」
「答えたのか」
「答えました」
明石さんは、左手の指先で薬指の付け根を静かに擦った。
由良が私の顔を見つめ、それからそっと伏し目になった。
「由良さん……何かありましたか」
「……いえ」
由良は、麻の衣の袂の上を両手でギュッと押さえた。
何かを言いかけ、そして口を静かに結んだ。
◆◆◆
外側で、重い木製の閂が下りる鈍い音が響いた。
閂が下りた直後、外で三つの足音が動いた。
一人の足音が扉の前に残り、あとの二つの足音が廊下の向こうへと遠ざかっていく。
板張りの壁の向こう側から、弓削の低い声が聞こえてきた。
低かったが、板壁を通して明瞭に伝わってきた。
「……連れの二人は、別々にしておけ」
「頭。今夜のうちに決めてしまいませんか」
「今夜はやらん」
「意見が割れたままだと、朝までに連中の意固地が固まってしまいますよ」
「固まってから、決を採るんだ」
鉄を削るやすりの音は、もうどこからも聞こえなくなっていた。
「……明日、決を採る」




