↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
81/112

第81話 鹵獲

二人は、こちらへ来なかった。


四角い昼の明るみの下で足を止め、片方の男が点検口の鉄蓋の縁に腰をかけた。


もう片方の男は、暗い管の口へと顔だけを覗き込んできた。


腰に下げられた手斧の黒ずんだ刃先が、微かに光を反射している。


「……誰だ」


「南から来ました」


「南のどこだ」


「山です。送電線の死んだところです」


巨大な金属配管の中では、声が壁に跳ね返って二度戻ってくる。


私の発した言葉が、二重の残響となって自分自身の耳へと返ってきた。


顔を覗き込んでいた男が、梯子を踏んで静かに下りてきた。


私は、懐の胴巻きから一枚の紙を取り出した。


白い紙だ。


文字はひとつも書かれていない。


下端から細く裂いた紙紐で本体を括り、封じ目と紐を跨ぐようにして、消し炭で一本の黒い直線が引かれている。


男は、すぐには受け取ろうとはしなかった。


代わりに、私の掌の上に載せられたその紙を、じっと見つめ続けた。


「……巻きが細いな」


「私が巻き直しました」


「元は」


「指三本と半分の、巻きでした」


男は、そこで初めて私の顔を真っ直ぐに見据えた。


「……首に、白い碍子を提げていたか」


「はい」


「そうか」


鉄蓋の縁に腰かけていた男が、上から見下ろすように言った。


「そいつは、こっちの道の紙じゃねえぞ」


「道は繋がってる」


下に下りた男が、背中を向けたまま短く答えた。


「置く場所を間違えなけりゃな」



   ◆◆◆



通されたのは、そこまでだった。


二人の男たちは、地下幹線の出口から先へは案内しようとせず、鉄蓋を開け放ったままどこかへ去っていった。


明石さんが、鉄蓋の縁に左手をかけて上を見上げた。


「……置く場所を間違えなけりゃ、と言ったな」


「はい」


「置き場は、あいつらが指定したわけじゃない。決めるのは、こっちだ」


私たちは梯子を登り、四角い明るみから地上へと出た。



   ◆◆◆



出た場所は、完全に干上がった古い川の跡だった。


水は一滴も流れていない。


丸く削られた無数の川原石が敷き詰められ、石の隙間に枯れた草の根が頑固に張りついている。


両側の土手は、大人の背丈の二倍以上の高さがあった。


土手の上に、木製の給電柱が等間隔に並んでいた。


数えた。


視界の届く範囲で、十一本。


木製の腕木も、碍子も、昔の姿のまま残されている。


——線だけが、一本も架かっていなかった。


明石さんが、いちばん手前にある柱の根元を見つめた。


「切断されたんじゃない。金具を緩めて、綺麗に外してある」


「持ち去ったんですか」


「純度の高い銅だからな。闇市場へ持っていけば、確実に買い手がつく」


由良が道端に屈み込み、自生していた野生の蓬(よもぎ)の葉を摘み取った。


両の手のひらで葉を強く揉みほぐし、青臭い汁を滲ませてから、明石さんの右腕の三角巾の隙間へとそっと当てた。


明石さんは、拒もうとはしなかった。


「……臭いな」


「よく効きます」


「効くのと臭いのは、別の話だ」


由良は、揉んだ葉をさらに丁寧に押し当て直した。


「同じでございます」



   ◆◆◆



私は、耳の奥の感覚を開いた。


昨夜、産霊の儀礼と妨害で一時的に麻痺していた片耳の感覚は、朝の光を浴びる頃には完全に回復していた。


近くの微細な音は、正確に拾える。


由良の履く草履が川原石を踏む規則正しい間隔も、明石さんの呼吸の微かな乱れも、いつもどおりに耳へ届いてくる。


その回復した耳で、私は北の山並みへと向き直った。


——何も、存在しなかった。


電磁波の波長が濃くもなければ、薄くもない。太くもなければ、細くもない。


山奥で人間が誰もいないときの、あの自然な静けさとは決定的に違っていた。


自然の静けさであれば、耳の奥底に届く静寂の「底」が存在する。


だが、この北の空間には、その底すら存在しなかった。


「……向こうからは見える。こっちからは聞こえん」


明石さんが呟いた。


三週間前、あの公営端末の液晶に送られてきた、Kからの短信の言葉だった。


「あれは、この土地のことですか」


「ここは境界の縁だ。散布されたのは、もっと北の奥深くの領域だろう。……縁でこの状態なら、奥に入ればさらに酷くなる」


「耳が、聞こえなくなっているだけですか。それとも……」


「鳴っていないんだ」


明石さんは、無事な左手で北の空を指した。指してから、ゆっくりと腕を下ろした。


「あっちに撒かれている知能回路は、俺たち生身の人間の体を避けて飛ぶようには作られていない。避けないものは、こっちの神経に応答を返してこないんだ」


私は、もう一度北の空を見つめた。


耳は、完全に治っている。


治った耳で、何も聞こえない。


港の街にいた頃、機械の通信が聞こえないということは、常に「私自身の側の不調や障害」を意味していた。


だが、ここでは違った。


何も聞こえないということそのものが、この土地が持つ絶対的な物理的性質なのだ。



   ◆◆◆



紙の置き場として、三つの候補を考えた。


一つ目は、土手の上に並ぶ給電柱の腕木。


二つ目は、川の跡に架けられた古い板の橋。


三つ目は、土手の切れ目に据えられた小さな石の祠(ほこら)。


——柱には柱の、祠には祠の行き先がある。


水場のあの碍子の男は、そう教えてくれた。


だが、私にはその具体的な行き先の法則など分からない。


何も考えずに適当な場所へ置いてしまえば、この紙は変電所ではないまったく別の集落へと運ばれてしまう。


だからこそ、私は行き先を推理するのではなく、実際にこの場所を訪れている【人の手の痕跡】を探すことにした。


板の橋を観察した。


橋の板は、両端ともまったく同じ厚さで青い苔に覆われていた。最近ここを渡った人間は一人もいない。


石の祠を観察した。


屋根には鳥の糞が落ちていた。


正面の一段だけが手で拭き清められていたが、その拭き跡の上にもすでに薄い苔が戻り始めていた。ここを訪れるのは、年に一度か二度きりだ。


そして——給電柱を、一本ずつ検数の目で確かめていった。


十一本のうち、六本目の柱の腕木。


その根元から二番目に空いた円形の穴の周囲だけ、苔も鳥の糞も一切ついていなかった。


穴の下側の木肌だけが、他と違って鈍い艶を帯びていた。


人間の指先が、日常的に触れている場所だった。


私は背伸びをして、その穴の奥へと白い紙を静かに差し入れた。


差し入れてから、指の腹で上から一度だけ軽く押さえた。


「……決めたか」


明石さんが尋ねた。


「はい」


「なぜ、そこなんだ」


「触っている人がいます」


明石さんは腕木を見上げ、それから私の顔を見た。


「……それでいい」


日が沈むまで、私たちは土手の下の窪地で静かに待った。


由良は菅笠を自らの膝の上に置き、風に乱れる黒髪を優しく手で押さえながら、私の隣に寄り添うように座っていた。


明石さんは、足元の川原石を三つ並べては崩し、また並べる作業を繰り返していた。


翌朝、夜明けとともに確かめに行くと——腕木の穴の紙は、すでに影も形もなく消え去っていた。



   ◆◆◆



迎えの男たちがやって来たのは、その日の昼過ぎのことだった。


二人だった。


一人は昨日の配管の男で、もう一人は初めて見る、腰に太い革袋を下げた男だった。


目隠しはされなかった。


両手を縄で縛られることもなかった。


「……道は、隠さないのですか」


私が尋ねると、初めて見る男のほうが答えた。


「隠すような道じゃねえよ」


男は、歩調を緩めずに言った。


「どこの地図にも載ってねえ道だ。頭の中に憶えて帰ったところで、誰にも紙として渡せねえ」


歩きながら、その男は三度、私たちの荷物へと視線を向けた。


背負い籠の嵩を見つめ、由良の被る菅笠の墨文字を見つめ、そして明石さんの右腕を吊る藍染めの三角巾を見つめた。


見るだけで、何も訊こうとはしなかった。


「……何も、訊かないのですか」


「訊くのは、うちの頭の仕事だ」


男は前を向いたまま、淡々と答えた。


「おれは、拾ったものを運ぶだけの係だ」


「運ぶ……」


「山に落ちていたものは、すべてうちの所有物になる」


男はそこで足を止め、一度だけ首を巡らせて私たちを振り返った。


「あんたらは、拾われた側だ。それだけは憶えておけ」



   ◆◆◆



尾根を一つ越えた。


越えた先の窪地に、屋根の低い頑丈な建物がひっそりと佇んでいた。


石と分厚いコンクリートで築かれた壁。


窓は高い位置に、細長いスリット状のものが二つあるだけだった。


屋根の上には、太い高圧用碍子が六つ、等間隔に並んで立っていた。


その六つすべて、先端の接続金具が綺麗に外されている。


建物の裏手に、巨大な鉄製の変圧器用の枠が組まれていた。


枠だけで、中身の機器はすべて抜き取られて空洞になっている。


その鉄枠の真下に、雨水を受けるための大きな木桶が三つ、横一列に並べられていた。


この施設の中でいま生きているものは、その雨水の桶だけだった。


正面の出入口は、重厚な一枚の鉄扉だった。


片側の蝶番が歪んで下へと垂れ下がっており、開閉するたびに石の床を擦る構造になっている。


扉の下の石床には、何年分もの開閉によって刻まれた扇形の擦り跡が、深く白く磨り減っていた。


先頭の男が、右手をかけて重い鉄扉を押し開けた。


私たちは、その扇形の擦り跡を一歩ずつ踏み越えて、薄暗い建物の中へと足を踏み入れた。


背後で、重い鉄扉が閉ざされた。


金属が石床を擦る鈍い音が、外から入ってきたときよりも、遥かに長く重く響き渡った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。