第81話 鹵獲
二人は、こちらへ来なかった。
四角い昼の明るみの下で足を止め、片方の男が点検口の鉄蓋の縁に腰をかけた。
もう片方の男は、暗い管の口へと顔だけを覗き込んできた。
腰に下げられた手斧の黒ずんだ刃先が、微かに光を反射している。
「……誰だ」
「南から来ました」
「南のどこだ」
「山です。送電線の死んだところです」
巨大な金属配管の中では、声が壁に跳ね返って二度戻ってくる。
私の発した言葉が、二重の残響となって自分自身の耳へと返ってきた。
顔を覗き込んでいた男が、梯子を踏んで静かに下りてきた。
私は、懐の胴巻きから一枚の紙を取り出した。
白い紙だ。
文字はひとつも書かれていない。
下端から細く裂いた紙紐で本体を括り、封じ目と紐を跨ぐようにして、消し炭で一本の黒い直線が引かれている。
男は、すぐには受け取ろうとはしなかった。
代わりに、私の掌の上に載せられたその紙を、じっと見つめ続けた。
「……巻きが細いな」
「私が巻き直しました」
「元は」
「指三本と半分の、巻きでした」
男は、そこで初めて私の顔を真っ直ぐに見据えた。
「……首に、白い碍子を提げていたか」
「はい」
「そうか」
鉄蓋の縁に腰かけていた男が、上から見下ろすように言った。
「そいつは、こっちの道の紙じゃねえぞ」
「道は繋がってる」
下に下りた男が、背中を向けたまま短く答えた。
「置く場所を間違えなけりゃな」
◆◆◆
通されたのは、そこまでだった。
二人の男たちは、地下幹線の出口から先へは案内しようとせず、鉄蓋を開け放ったままどこかへ去っていった。
明石さんが、鉄蓋の縁に左手をかけて上を見上げた。
「……置く場所を間違えなけりゃ、と言ったな」
「はい」
「置き場は、あいつらが指定したわけじゃない。決めるのは、こっちだ」
私たちは梯子を登り、四角い明るみから地上へと出た。
◆◆◆
出た場所は、完全に干上がった古い川の跡だった。
水は一滴も流れていない。
丸く削られた無数の川原石が敷き詰められ、石の隙間に枯れた草の根が頑固に張りついている。
両側の土手は、大人の背丈の二倍以上の高さがあった。
土手の上に、木製の給電柱が等間隔に並んでいた。
数えた。
視界の届く範囲で、十一本。
木製の腕木も、碍子も、昔の姿のまま残されている。
——線だけが、一本も架かっていなかった。
明石さんが、いちばん手前にある柱の根元を見つめた。
「切断されたんじゃない。金具を緩めて、綺麗に外してある」
「持ち去ったんですか」
「純度の高い銅だからな。闇市場へ持っていけば、確実に買い手がつく」
由良が道端に屈み込み、自生していた野生の蓬の葉を摘み取った。
両の手のひらで葉を強く揉みほぐし、青臭い汁を滲ませてから、明石さんの右腕の三角巾の隙間へとそっと当てた。
明石さんは、拒もうとはしなかった。
「……臭いな」
「よく効きます」
「効くのと臭いのは、別の話だ」
由良は、揉んだ葉をさらに丁寧に押し当て直した。
「同じでございます」
◆◆◆
私は、耳の奥の感覚を開いた。
昨夜、産霊の儀礼と妨害で一時的に麻痺していた片耳の感覚は、朝の光を浴びる頃には完全に回復していた。
近くの微細な音は、正確に拾える。
由良の履く草履が川原石を踏む規則正しい間隔も、明石さんの呼吸の微かな乱れも、いつもどおりに耳へ届いてくる。
その回復した耳で、私は北の山並みへと向き直った。
——何も、存在しなかった。
電磁波の波長が濃くもなければ、薄くもない。太くもなければ、細くもない。
山奥で人間が誰もいないときの、あの自然な静けさとは決定的に違っていた。
自然の静けさであれば、耳の奥底に届く静寂の「底」が存在する。
だが、この北の空間には、その底すら存在しなかった。
「……向こうからは見える。こっちからは聞こえん」
明石さんが呟いた。
三週間前、あの公営端末の液晶に送られてきた、Kからの短信の言葉だった。
「あれは、この土地のことですか」
「ここは境界の縁だ。散布されたのは、もっと北の奥深くの領域だろう。……縁でこの状態なら、奥に入ればさらに酷くなる」
「耳が、聞こえなくなっているだけですか。それとも……」
「鳴っていないんだ」
明石さんは、無事な左手で北の空を指した。指してから、ゆっくりと腕を下ろした。
「あっちに撒かれている知能回路は、俺たち生身の人間の体を避けて飛ぶようには作られていない。避けないものは、こっちの神経に応答を返してこないんだ」
私は、もう一度北の空を見つめた。
耳は、完全に治っている。
治った耳で、何も聞こえない。
港の街にいた頃、機械の通信が聞こえないということは、常に「私自身の側の不調や障害」を意味していた。
だが、ここでは違った。
何も聞こえないということそのものが、この土地が持つ絶対的な物理的性質なのだ。
◆◆◆
紙の置き場として、三つの候補を考えた。
一つ目は、土手の上に並ぶ給電柱の腕木。
二つ目は、川の跡に架けられた古い板の橋。
三つ目は、土手の切れ目に据えられた小さな石の祠。
——柱には柱の、祠には祠の行き先がある。
水場のあの碍子の男は、そう教えてくれた。
だが、私にはその具体的な行き先の法則など分からない。
何も考えずに適当な場所へ置いてしまえば、この紙は変電所ではないまったく別の集落へと運ばれてしまう。
だからこそ、私は行き先を推理するのではなく、実際にこの場所を訪れている【人の手の痕跡】を探すことにした。
板の橋を観察した。
橋の板は、両端ともまったく同じ厚さで青い苔に覆われていた。最近ここを渡った人間は一人もいない。
石の祠を観察した。
屋根には鳥の糞が落ちていた。
正面の一段だけが手で拭き清められていたが、その拭き跡の上にもすでに薄い苔が戻り始めていた。ここを訪れるのは、年に一度か二度きりだ。
そして——給電柱を、一本ずつ検数の目で確かめていった。
十一本のうち、六本目の柱の腕木。
その根元から二番目に空いた円形の穴の周囲だけ、苔も鳥の糞も一切ついていなかった。
穴の下側の木肌だけが、他と違って鈍い艶を帯びていた。
人間の指先が、日常的に触れている場所だった。
私は背伸びをして、その穴の奥へと白い紙を静かに差し入れた。
差し入れてから、指の腹で上から一度だけ軽く押さえた。
「……決めたか」
明石さんが尋ねた。
「はい」
「なぜ、そこなんだ」
「触っている人がいます」
明石さんは腕木を見上げ、それから私の顔を見た。
「……それでいい」
日が沈むまで、私たちは土手の下の窪地で静かに待った。
由良は菅笠を自らの膝の上に置き、風に乱れる黒髪を優しく手で押さえながら、私の隣に寄り添うように座っていた。
明石さんは、足元の川原石を三つ並べては崩し、また並べる作業を繰り返していた。
翌朝、夜明けとともに確かめに行くと——腕木の穴の紙は、すでに影も形もなく消え去っていた。
◆◆◆
迎えの男たちがやって来たのは、その日の昼過ぎのことだった。
二人だった。
一人は昨日の配管の男で、もう一人は初めて見る、腰に太い革袋を下げた男だった。
目隠しはされなかった。
両手を縄で縛られることもなかった。
「……道は、隠さないのですか」
私が尋ねると、初めて見る男のほうが答えた。
「隠すような道じゃねえよ」
男は、歩調を緩めずに言った。
「どこの地図にも載ってねえ道だ。頭の中に憶えて帰ったところで、誰にも紙として渡せねえ」
歩きながら、その男は三度、私たちの荷物へと視線を向けた。
背負い籠の嵩を見つめ、由良の被る菅笠の墨文字を見つめ、そして明石さんの右腕を吊る藍染めの三角巾を見つめた。
見るだけで、何も訊こうとはしなかった。
「……何も、訊かないのですか」
「訊くのは、うちの頭の仕事だ」
男は前を向いたまま、淡々と答えた。
「おれは、拾ったものを運ぶだけの係だ」
「運ぶ……」
「山に落ちていたものは、すべてうちの所有物になる」
男はそこで足を止め、一度だけ首を巡らせて私たちを振り返った。
「あんたらは、拾われた側だ。それだけは憶えておけ」
◆◆◆
尾根を一つ越えた。
越えた先の窪地に、屋根の低い頑丈な建物がひっそりと佇んでいた。
石と分厚いコンクリートで築かれた壁。
窓は高い位置に、細長いスリット状のものが二つあるだけだった。
屋根の上には、太い高圧用碍子が六つ、等間隔に並んで立っていた。
その六つすべて、先端の接続金具が綺麗に外されている。
建物の裏手に、巨大な鉄製の変圧器用の枠が組まれていた。
枠だけで、中身の機器はすべて抜き取られて空洞になっている。
その鉄枠の真下に、雨水を受けるための大きな木桶が三つ、横一列に並べられていた。
この施設の中でいま生きているものは、その雨水の桶だけだった。
正面の出入口は、重厚な一枚の鉄扉だった。
片側の蝶番が歪んで下へと垂れ下がっており、開閉するたびに石の床を擦る構造になっている。
扉の下の石床には、何年分もの開閉によって刻まれた扇形の擦り跡が、深く白く磨り減っていた。
先頭の男が、右手をかけて重い鉄扉を押し開けた。
私たちは、その扇形の擦り跡を一歩ずつ踏み越えて、薄暗い建物の中へと足を踏み入れた。
背後で、重い鉄扉が閉ざされた。
金属が石床を擦る鈍い音が、外から入ってきたときよりも、遥かに長く重く響き渡った。




