第80話 打ち壊し
階段の途中で、慌てて駆け下りてくる者とすれ違った。
地上へ上がっていた産霊派の見張りの男だった。片手に、太い針金を握り締めている。
「……外に、七人」
見張りは、三輪に向かってそれだけ告げた。
「敷地へ入りましたか」
「もう、建物の地上階に入ってる」
三輪は私のほうを見ようとはしなかった。廊下の奥の暗がりへと、静かに手を向けただけだった。
「……抜け道図面を、先にお渡しいたしましょう」
「地上の状況を確認したあとで結構です」
「その『あと』が存在するかどうかは、私どもの側では決められませんよ」
◆◆◆
上の階の木造の床板が、ミシミシと激しく鳴り響いた。
一度や二度ではない。何人もの重い革靴が板を踏み荒らす足音が、頭上の天井を右から左へと乱暴に渡っていく。
七人ぶんの足音の正確な数を、私の耳は数え上げることができなかった。
私の耳の奥底が、片方だけ完全に死んでいたからだ。
さっき同席の儀で通信結節点を無理やりに遮断した瞬間からだった。電磁波の詰まりが抜けたのではなく、抜けたまま二度と戻ってこない。
人の多い場所で何重もの重なりを聞き分けるあの鋭い感覚が、頭上の階からは何ひとつ伝わってこなかった。
「……何人いる」
明石さんが、低い声で尋ねてきた。
「分かりません」
「聞こえないのか」
「いまは……片方の耳が、まったく機能していません」
明石さんは、そこで唇を固く閉ざした。
閉ざしてから、階段の吹き抜けの暗がりを見上げた。
「……重油の匂いだ。明かり用の灯油じゃない。火を放つ気だぞ」
◆◆◆
大部屋の重い鉄扉が、乱暴に蹴り開けられた。
地下室へ踏み込んできたのは、三人の男たちだった。
頑丈な作業着に、厚い革の前掛け。先頭の男は、片手に長い柄のついた金属工具を提げていた。
先頭の男が、部屋全体を鋭く見渡した。
円環を描く三十七脚の椅子の並びを見て、床の太い配線溝を見て、そして最後に天井の電線を見上げた。
その順序で設備を品定めする人間の視線を、私はよく知っていた。港の保守技師たちとまったく同じ、電気設備の構造を見抜く目だった。
「……線が、生きてるな」
男が、吐き捨てるように言った。
「ここはとっくに死んだ白地だと聞いてたんだがな」
三輪は、その場から一歩も動かなかった。
「生きておりますよ」
「そうか」
男は、部屋の隅の煮炊き用の大鍋のほうへ顎をしゃくった。
「火を消せ」
鍋番の若い男が、大鍋を囲炉裏の火から素早く下ろした。下ろしてから、木の蓋をした。蓋をしてから、奥へと脱兎のごとく走った。
「あんたらは……機械のネットワークに入りたがる人種だな」
先頭の男は、手前の椅子の一つへツカツカと歩み寄った。
座っている信者の項から伸びる細い通信線へと、太い指先をかけた。
「入り口は、ここか」
「……お触りにならないでくださいませ!」
由良が、叫んだ。
私の背後から、風のように前へ飛び出していた。
「いまその線を抜きますと、このお方は二度と意識がお戻りになれません!」
「戻らなくて結構だ」
「戻ります!」
由良は、そこで生まれて初めて声を張り上げた。
「意識の戻る道が、極めて細うございます! そんな細いところで急に線を抜いてしまえば、二度と……!」
男は、由良の必死な顔をじっと見つめた。見つめてから、通信線から指を静かに離した。
離してから——由良の右肩を荒々しく掴み、力任せに横へと払い除けた。
由良は、足元の足場板の上へと激しく倒れ込んだ。
受け身が取れていなかった。咄嗟に腕を前に出せず、肩から硬い木板の上へと叩きつけられていた。
私は即座に踏み込み、倒れた由良と男とのあいだに割って入った。
◆◆◆
「どけ」
「……通信線を力任せに引き抜けば、この人たちの脳神経が焼き切れて死にます」
「生身の人間が死ぬかどうかは、俺たちの知ったことじゃない」
男は私を力づくで押しのけようとはしなかった。押さずに、背後の仲間に向けて短く怒鳴った。
「……機械を据えろ」
二人目の男が、鉄扉の内側の床へと重い荷物をドサリと下ろした。
分厚い木製の箱だった。
四隅が真鍮の金具で補強されており、天板に手回し用の把手がついた金属の輪と、太い銅の巻線が剥き出しで見えていた。
箱の側面に、黒い油性塗料で識別番号がひとつ殴り書きされている。
明石さんが、その木箱を見て一歩だけ身構えた。
「……自分たちで手巻きしたな」
「手巻きだ」
先頭の男が、不敵に答えた。
「強力な電磁パルスだ。一発回せば、この部屋の電子回路と通信線が全部綺麗に焼き死ぬ」
「……繋がれている人間はどうなる」
「人間は生きたままだ」
男は、そこで初めて三十七人の信者たちのほうをじっと見渡した。
「線だけを殺す。あとの人間の介抱は、そっちの仕事だ」
木箱の天板のハンドルが、勢いよく回された。
一回。二回。
輪がギリギリと回るたびに、木箱の内部で高圧の電磁エネルギーが甲高く唸りを上げていく。
私は、生き残っている片方の耳を、極限まで研ぎ澄ませていた。
◆◆◆
——呼び合いだった。
あの丘の上の庭で墜落させた読取りドローンも、この木箱の電磁パルス発生器も、まったく同じ物理回路で駆動していた。
ひとつのコンデンサが電荷を呼び出し、次のコイルがそれに応答し、応答が完了した瞬間にさらなる増幅を呼びかける。
その規則正しい連鎖が最後まで揃った瞬間に、溜め込まれた強大な電磁波が一気に空間へと解き放たれる。
——だが、応答の連鎖が揃わなければ、電磁パルスは絶対に発生しない。
もし今この装置が発動すれば、三十七人の首の後ろの通信線は、脳に直結されたまま高圧電流で一瞬にして焼き切れてしまう。
私は、発生器内部の電磁応答のタイミングを——生体意志で【たったひとつだけ遅らせた】。
男の手によって、輪が三回目に回された。
甲高く跳ね上がりかけた高周波の唸りが、頂点に達する直前で失速して落ちた。
四回目の回転。
まったく同じタイミングで、再び電磁エネルギーが底へ落ちた。
「……湿気てやがる」
二人目の男が、舌打ちした。
「またかよ」
「巻き直したばっかりだぞ!」
「地下の湿気の中で巻き直したから湿気てんだろ!」
先頭の男が、苛立ち紛れに木箱の側面を乱暴に蹴り飛ばした。
蹴り飛ばしても、結果は同じだった。
その瞬間——私の後頭部の手術痕が、頭蓋骨の内側から万力で絞り上げられた。
さっきの儀礼のときよりも、遥かに深い脳の奥底が絞られた。
両膝の裏からスッと力が抜け落ち、私は足場板の上に両手をついた。
温かい鼻血が、床板の上に垂れ落ちる。
由良が、私の麻の上着の袖の上から、自らの両手をギュッと重ねてきた。
重ねたまま、私の腕をグッと下へと引き寄せた。
血の付着した袖の内側の布地が、周囲の男たちの目に触れないよう、自らの白い衣の陰へと素早く隠してくれたのだ。
◆◆◆
「……機械を持って上がれ」
先頭の男が、忌々しそうに命じた。
「地上の火で乾かしてから、もう一度やり直しだ」
二人目と三人目の男が、重い木箱を担ぎ上げた。
先頭の男は部屋を出ていく直前、天井に張り巡らされた古い電線を一度だけ見上げた。
「……上は、全部焼き払う」
三輪に対して言ったのではなかった。誰にともなく吐き捨てて、男たちは階段へと引き返していった。
重い鉄扉が閉ざされてから、導師の三輪が椅子の並びのほうへと静かに歩み寄った。
——通信線を無理やり引き抜かれた信者は、一人もいなかった。
三輪は一人ずつ、信者たちの項にそっと指先を当てて回った。
全員の無事を確かめ終えると、廊下の壁の窪みに手を入れ、あの油紙の包みを取り出した。
「……北への地下幹線の入口は、廊下の突き当たりにございます。鉄蓋は、三枚目の図面の通りにお開けなさい」
「三輪さん……あなたは、どうするのですか」
「私は、ここに残ります」
三輪は、油紙の包みを私の両手の上に静かに載せた。
載せてから、ゆっくりと手を離した。
「上を焼き払われますと、この地下室にはもはや電灯の明かりは要らなくなります」
「明かりが要らなくなったら……どうするのですか」
「完全な暗闇の中で、みなで頭を繋ぎます」
三輪は、そこで初めて微かに微笑んだ。
口元の形だけが、穏やかに変わった。
「……大河というものは、どこへでも流れていくものですよ。人間が地上でいくら堰き止めようとも、必ず地下深くを通って北へと抜けていきます」
「この三十七人の信者たちは……」
「私が連れて参ります」
「一体、どこまで連れていくのですか」
「行けるところまで、ですよ」
◆◆◆
薄暗い廊下の突き当たりに、頑丈な鉄のマンホールの蓋があった。
コンクリートの床に固く埋め込まれている。
周囲にある四つの金属の取っ手(耳)のうち、三つは真っ赤に錆び付いており、ひとつだけが擦れて鈍く光っていた。
明石さんが、油紙から取り出した三枚目の図面を自らの膝の上で広げた。
「……手の絵が描いてあるな」
「上から強く押し込みながら、右へ回すと描いてあります」
「言葉で書いてあるんじゃない。絵で描いてあるんだ」
明石さんは、無事な左手で鉄蓋の取っ手をグッと押し込んだ。
だが——片手だけの力では、重い鉄蓋はビクとも回らなかった。
私が両手で上から体重をかけて強く押し込み、明石さんが左手で横へと一気に回した。
重い金属音が鈍く響き、円形の鉄蓋が持ち上がった。
地下の配管の底から、冷たい風が吹き上がってきた。
地上の空気よりも冷たく、そしてカラリと乾燥していた。
由良が、菅笠の顎紐を固く結び直してから、真っ先にその暗い穴の中へと足を下ろした。
頭上の階段の吹き抜けのほうから、赤黒い炎の光が床を照らし始めていた。
◆◆◆
北へ抜ける地下幹線は、大人が背筋をしっかりと伸ばして歩けるだけの十分な高さがあった。
三輪の言っていた通りだった。
巨大な金属配管の中は、私たちの足音が驚くほど明瞭に反響した。
前を歩く由良の軽やかな足音と、後ろを歩く明石さんの重い足音が、それぞれ異なるリズムで金属壁に跳ね返ってくる。
私は配管の中を歩きながら、いつもの癖で無意識に自らの歩数を数え上げていた。
歩数が千歩を少し越えたあたりで——前を行く由良が、ピタリと足を止めた。
止まってから、静かに私の背後へと身を引いた。
私が前に出た。
配管の天井の先が、四角く明るくなっていた。
地上の点検口の鉄蓋が、最初から開け放たれているのだ。
その四角い昼のような明るみの中を——二つの人影が、無言で横切っていった。
二人の男たちの腰に下げられたものが、歩くたびに微かな金属音を立てていた。
木製の頑丈な柄と、黒ずんだ鉄の刃先。
——電工の、工具だった。




