第79話 産霊
夕暮れ時から、大鍋の若い男が床の上に椀を一列に並べていた。
足場板の上に、一列に静かに置いていく。
数えた。三十七あった。
男は木製の柄杓で椀へ白湯を注いで回った。
どの椀も、半分ほどの深さでピタリと止める。注ぎ終えても、すぐには配ろうとしなかった。
「……先に、飲ませます」
三輪が、静かに言った。
「頭を繋ぎ合わせる前に、一口ずつ口に含ませます」
「冷たい水ではないのですか」
「温かい湯です。こちらでは、胃の中と口の中を完全に空っぽにしてから席に着きます」
由良が、並べられた椀の列をじっと見つめていた。
「……儀礼の途中で、正気にお戻りになる方はおられますか」
三輪は、半拍の沈黙をおいた。
「おられません」
「なぜでございますか」
「戻るための意識の道が、その接続のあいだだけ極端に細くなりますので」
由良は、それ以上は何も尋ねようとはしなかった。
尋ねないまま、自らの麻の衣の袂の上を、右手でそっと押さえた。
「……儀礼の終わりは、一体誰が決めるんだ」
明石さんが、戸口から低く問いかけた。
「意識の巡行が一巡すれば、自然と終わります」
「その一巡には、何分かかる」
「……時間を計ったことはございません」
明石さんは、それきり問いただすのをやめた。
「俺は、そこの戸口の柱の前に立っている。昊、お前の名を呼ぶ。もし返事がなかったら、無理やりにでも腕を引っ張って引きずり出すからな」
「どうぞ、お好きになさってください」
◆◆◆
三十七脚の椅子は、すべて人間で埋め尽くされていた。
昨日まで空席だった十六脚の椅子にも、全員が座っていた。
地上の町からこの日のために潜り込んできた信者たちだった。背負子に荷物を括り付けてやって来た者もいたが、荷物はすべて鉄扉の外の廊下に置かされていた。
信者たちの首の後ろの項へ通信コードを差し込んでいくのは、あの鍋番の男の役目だった。
一人ずつ椅子の後ろへ回り込み、髪を左右に掻き分け、指先で皮膚の端子の位置を確かめ、無言で差し込んでいく。
差し込む瞬間に、電子音は一切鳴らなかった。
私は、円を描く椅子の列の真ん中、配線溝の上に渡された足場板の上に静かに正座した。
板の下は、太い電線が走る暗い空洞だ。腰を下ろすと、古い板が一度だけ軋んだ。
由良が、私の斜め後ろの床にスッと膝をついた。
身体は触れ合っていない。だが、布地越しにその温かい体温が伝わってくるような距離だった。
明石さんは、部屋の戸口の鉄柱に背中を預けて腕組みをした。
導師の三輪が、壁に吊るされていた白熱電球をひとつずつ手で外して回った。
部屋全体の明かりが次々と消え去り、最後に残されたのは——私の頭の真上にぶら下がる、たったひとつの裸電球だけだった。
◆◆◆
「……始めます」
三輪は、自分用の椅子も机も使わなかった。
壁際の暗がりに直立し、自らの右手の指先を、壁の太い金属配管の上にそっと押し当てていた。
最初の数分間は、何も変わらなかった。
だが——不意に、私の耳の奥底が重く詰まった。
昨日、地下へ降りたときとまったく同じ詰まり方だった。
太い。だが、まだ濃くはない。
その電磁波の波長が、急速に【濃く】なり始めたのは、その直後だった。
ひとつ。ふたつ。よっつ。
ななつ。
信者たちの重なりが増えるにつれて、私の後頭部の奥底の詰まりが、底からせり上がってくる。
港の荷揚げ場でも、山奥の囲炉裏端でも、私はいつもこの神経の痺れの深さによって、暗闇の中に何人の人間が息を潜めているかを正確に数え当ててきたのだ。
じゅうろく。にじゅう。
にじゅうきゅう。
数を数えるのは、私の身体に染みついた天職だ。
荷の数も、階段の段数も、私は生まれてからずっと正確に数え続けてきた。
重なりは三十五に達し、そして三十七でピタリと止まった。
三十七の意識がすべて結合した瞬間——濃密だった電磁波の波長が、ひとつの巨大で極太な【一本の流れ】へと一気に変質した。
三十七人分の個々の意識の境界が、完全に溶け合ってひとつになっていく。
——これが、産霊。
私は、息を殺してその数をまだ数え続けていた。
◆◆◆
——三十八、あった。
私は息を呑み、心の中で数え直した。
間違いなく、三十八だった。
ひとつ、多い。
私は首筋に通信コードを繋いでいない。頭の後ろに端子など開いていない。ただ部屋の真ん中の板の上に座っているだけだ。
それにもかかわらず、意識の波長は三十八本存在し、三十七人分の太い奔流の端っこに、細い一本の意識が吸い寄せられるようにして巻き込まれていた。
その細い意識が一体誰のものなのかを確かめようとして、私は自分の身体の感覚を確かめるために【手】が必要であることに気がついた。
膝の上で、自らの右手を握りしめ、そして開いた。
右の親指の腹で、人差し指の付け根にあるはずの、二十四年間ペンを握り続けて硬くなったペンだこの位置を探した。
……あった。
もう一度、親指を滑らせて探した。
二度目の探索は、一度目よりも遥かに長く時間がかかった。皮膚の感触が、急速に遠のいていく。
——これは、人間としての【境界線】の話だ。
境界線があるからこそ人間は孤独に苦しむのだと、昨夜あの導師は言った。
私は今、自分という個人の境界線を、消えゆく指先の感覚で必死に手繰り寄せているのだ。
足元の足場板の底から、地響きのような低い唸りが響いてきた。
溝の中の太い電線だ。
三十七人の脳から信号を呼び出す知能機械があり、それに無条件で応える人間の脳がある。
通信パケットの応答が返ってくるたびに、部屋全体を支配する電磁波の太さが一段、また一段と跳ね上がっていく。
——止められる。
あの丘の上の白い家の庭で、収容班の読取りドローンを墜落させたときと、まったく同じ物理だ。
知能機械からの呼び出し電波を聞き取り、それに対して脳が応答を返せないよう、通信結節点を生体意志で強制遮断してしまえばいい。
だが——今ここで通信を断ち切れば、接続中の三十七人の意識は、極度に細くなった道を通って途中で引き戻されることになる。
三十七人の首筋に電線が直結されている以上、遮断された強大な電磁エネルギーは誰かの脳の側へと過負荷となって跳ね返る。
その破壊の代償がどこへ余波として吹き飛ぶのかを、この部屋の誰も計算してはいなかった。
だからこそ、私はじっと耐えて待った。
一巡すれば終わると、三輪は言っていた。
私は、自らの右手のペンだこの位置を、もう一度だけ親指で手繰り寄せようとした。
……三度目は、いくら探しても、自分の指の硬い皮膚の感触が見つからなかった。
——止めた。
◆◆◆
地下の唸りが、完全に止んだ。
足元の足場板が、私の腰の下でフワリと一度浮き上がった。
私の耳の奥底で、三十八あった重なりが一瞬で三十七へと分裂し、その三十七の波長もバラバラに散らばって、濃さも太さも綺麗に消滅した。
円環を描くパイプ椅子の列から、擦れ合うような異様な衣擦れが湧き起こった。
三十七人の人間の首が、一斉に跳ね上がったのだ。
端から順番にではない。
私が座る足場板が軋んだその場所を中心にして、円環の全員の顔が、一斉に私のほうへと回ってきた。
全員の目が、見開かれていた。
三十七対の虚ろな瞳のすべてが——中央の私を凝視していた。
その瞬間、私の後頭部の古い手術痕が、頭蓋骨の内側から万力で絞り上げられるような激痛に襲われた。
私の鼻腔の奥から、温かい血が垂れ落ちてきた。
由良が、膝立ちのままスッと一歩前へ詰めた。
私の身体の正面へと割って入り、周囲の視線を遮るようにして立ちはだかった。
そして自らの白い麻の衣の袂の裏地で、私の鼻の下から顎にかけての血を、上から下へと素早く拭い去った。
二度、丁寧に拭いた。
拭き終えると、血のついた袂の裏地を、周囲に見えないよう内側へと静かに折り返した。
「……どうぞ、お顔をお伏せになっておいでくださいませ」
私は言われるがまま、床へと深く顔を伏せた。
◆◆◆
明石さんが、戸口から大股で二歩だけ部屋の中へと踏み込んできた。
二歩進んだところで、ピタリと止まった。
「……三度、お前の名を呼んだぞ」
「……すみません。まったく聞こえませんでした」
「そうだろうな」
明石さんは、それ以上は何も言わなかった。
三輪が、壁の金属配管から静かに指先を離した。
「……向きが、変わりました」
そう呟いて、放心したように座り込む三十七人の信者たちのほうを見つめた。
「切れたのではございません。大河の流れの向きが、自然と変わっただけです」
「何の流れですか」
「みなの、意識の奔流です」
三輪は、私の顔を見ようとはしなかった。私が座っていた足元の板敷きを見つめていた。
「こういう現象は、たまに起きるのですよ。……年に一度か、二度ほど」
三輪が、数字を口にした。
この導師が具体的な数字を口にするのを、私は初めて聞いた。
「……これで、おしまいですか」
「おしまいです」
三輪は、廊下の暗がりへと静かに手を向けた。
「お約束の、北への抜け道図をお渡しいたしましょう」
◆◆◆
地下階段を上がる直前、私は壁の太い金属配管の上にそっと手を触れてみた。
上の一本の管は、冷え切っていた。
だが——下の一本の管のほうが、生ぬるく温まっていた。
昨日の夕方とは、完全に温度が逆転していた。
◆◆◆
金属配管のパイプを伝って、規則正しい金属の打撃音が下りてくる。
続けざまに四つ。
間をおいて、さらに四つ。
三輪が、ハッと顔を上げた。
地下階段の吹き抜けの上から、地上からの風が吹き下ろしてきた。
生ぬるく、湿った風。
そしてその風の中に、鼻を強く突く、何かが激しく燃え盛る【焦げた匂い】が混じり合っていた。




