第78話 残響
翌朝、荷継ぎ場の板張りの軒下で、三日間の残りの日当を受け取った。
三日ぶんで一万二千円。
紙幣の枚数を指先で数え、きっちり二つに分けた。そして半分を明石さんの掌へと手渡した。
「……金ではないなら、あいつら、一体何を出させる気だ」
明石さんは受け取った紙幣を、無事な左手で上着の袖の内側へとしまい込んだ。
「分かりません」
「分からんものの代償を、自分から先に決めるなよ」
明石さんは、土壁に背中を預けた。
「相手の出方を決めるのは、要求を聞いてからだ」
由良は、軒下の太い木柱の脇で、自らの麻の衣の袂から昨日の爪の包みを取り出していた。
指先で柱の根元の乾いた土を小さく掘り、そこへ爪を静かに埋めて、上から優しく土を均した。
均し終えると、胸の前で両手を一度だけ、静かに合わせた。
余計な祈りの言葉は口にせず、それだけで静かな儀礼を終えた。
◆◆◆
その日の午後、私たちは再び旧計算場の地下へと下りていった。
導師の三輪は、奥の当直室ではなく、暗いコンクリートの廊下の途中で私たちを待っていた。
その隣に、腰の曲がった老人が一人、静かに佇んでいた。
「……この方が、この地下でいちばん古いお方です」
老人の顔は、廊下の奥の闇を向いたまま動かなかった。
右耳のあたりに、自らの痩せた手のひらをそっとかざしている。かざしたまま、少しだけ首を傾げた。
「……耳の聞こえるほうを、あなた方へ向けております」
老人は、擦れた声でそう言った。
「湾岸の事変のとき、現地におられたのですか」
「あの晩は、向こうの埋め立て地におりましたよ」
◆◆◆
「……四十一時間だったと、世間では言われておりますな」
老人が、静かに呟いた。
「わたし自身は、時間を数えておりませんでした」
「数えられなかったのですか」
「あの地獄の中で、時計を見る用事などございませんでしたからな」
老人は、そこで一度言葉を区切った。
「……東の空が明るくなったのが、二度ございました」
あの動乱の惨劇のことは、私も学校の教科書で何度も教えられてきた。
だが——知能機械の通信が凍結され、二度夜が明けるまでのあいだ、あの埋め立て地に集まっていた三千人以上の生身の人間たちが何をして待っていたのかを、私はこれまでの人生で一度も聞いたことがなかった。
「その二日間、あなたは何をされていたのですか」
「水を運びました」
老人は、耳に手をかざした姿勢のまま答えた。
「折り重なって倒れた者たちのもとへ、バケツで水を運び続けました。まだ水を飲める者と、もう飲めない者とを指先で分けて……飲める者の口元へ、先に水を運びました」
「どうやって、その生死を分けたのですか」
「唇が、自力で動くかどうかです」
明石さんが、土壁から背中をスッと離した。
「二度目の朝に、何がやって来た」
「白い防護服を着た連中が来ました」
「……それだけか」
「海の上に浮かぶ船の火は、まだ消えておりませんでした」
老人は、耳にかざしていた手をゆっくりと下ろした。
下ろした手のひらが、微かに震えていた。
「あとの歴史のことは、みなさんが学校で習われたとおりでございますよ」
「……教科書に書いてあるとおりで、本当にいいのか」
明石さんが、低く問い詰めた。
老人は何も答えず、再び自らの右耳へと手をかざした。
問いに答えないという事実そのものを、隠そうともしなかった。
◆◆◆
老人は、廊下の壁に沿って通る太い配管へと手を伸ばした。
手を触れる前に、自らの衣服の袖で配管の表面に積もった埃をサッと拭き取った。
綺麗に拭いてから、その金属の管の上に、指先をそっと置いた。
「……これは、十九年前の当時の線そのものではございません。ここにあるのは、この地下の古い線です」
「ですが……同じ構造で作られています」
「同じ構造だと、一体何が起きるのですか」
「国家が消していないだけのものが、いまもまだ通ります」
明石さんが、怪訝そうに金属管を見つめた。
「電気が流れている、という意味か」
「いいえ」
「……なら、何が通っているんだ」
「形です」
明石さんは、反論の言葉を口にしかけ、そして黙り込んだ。
「……電気が流れていない場所に、情報通信の形なんて残るはずがない」
「そうですか」
老人は、それ以上は何も語ろうとはしなかった。
耳の奥底が、一度重く詰まった。
私は右手を伸ばし、冷たい金属の表面に触れてみた。
だが——何も起きなかった。
手を離しても、耳の奥の重い詰まりは、ただそのまま残っているだけだった。
明石さんが、私の顔を鋭く見つめてきた。私は無言で首を振った。
嘘をついているわけではない。物理的には、本当に何ひとつ起きていなかったのだ。
◆◆◆
三輪が、私のほうへと向き直った。
「……抜け道図の、お値段を申します」
「はい」
「一度だけ、私どもの儀礼に同席していただきたい」
「同席、ですか」
「私どもの席の真ん中に、お座りいただくだけです。頭に端子を繋ぎ合わせる必要はございません。ただ、そこに座っていてくだされば結構です」
「機械に繋がないのなら、お前たちにとって何の意味もないだろう」
明石さんが横から口を挟んだ。
「意味は、私どもの側にございます」
三輪は、明石さんのほうは見ようとしなかった。
「あなたにすぐ近くにいていただければ……私どもには、その大河の音がはっきりと聞こえますので」
◆◆◆
「……先に、抜け道図を見せてください」
私が求めると、三輪は廊下の壁の窪みから、油紙の包みを取り出した。
包みを開くと、中から三枚の分厚い図面が現れた。
一枚目は、この街の地下深くに張り巡らされた巨大な配管網の全体図だった。
太い幹線が三本、そして細い支線が無数に描かれている。
二枚目は、北の険しい山あいの集落へと抜ける地下幹線の詳細図。
一本の太い線だけが、他の線よりも濃い墨で力強く引かれていた。
三枚目には、地上の点検口の位置と、重い鉄蓋の特殊な開け方が精密に図解されていた。
開け方の部分だけは、抽象的な線ではなく、人間の手のひらの絵で分かりやすく描かれていた。
「この配管の中を、生身の人間が歩いて通れるのですか」
「背筋を伸ばして歩けるのは、この北へ抜ける幹線だけです」
「この幹線の出口は、どこまで続いているんですか」
三輪は、二枚目の図面の上部を指差した。
太い墨の線は、用紙の端までは届かずに途中でプツンと切れていた。
切れた場所に、小さな四角い記号がひとつ打たれている。
「ここから先は、地上へ出ることになります」
「その先は、どうなっているんですか」
「ここから先は、私どもの縄張りではございません」
(——北の帯を抜ける用があるなら、変電所を訊け)
ひと月ほど前、山奥の六軒の集落で出会ったあの碍子の男の言葉が、私の脳裏に鮮やかに蘇った。
私はその合言葉を、これまで一度たりとも口にしてはいなかった。
◆◆◆
「……もしも、その同席の条件を断ったらどうなりますか」
「この図面をお渡しすることはできません」
「他に、北へ抜ける道図はありますか」
「表の街道の地図なら、町の市でいくらでも売っておりますよ」
三輪は、そこで言葉を区切った。
その先の過酷な現実は、こちらの側が痛いほど熟知していた。
宇津木の町の関所で、期日までに身元の申告をせよと命じられた。だが、私たちは申告しなかった。
由良の身分証明札は、とっくに有効期限が切れている。
明石さんは正規の身分等級を持っているが、検問でそれを提示すれば、即座に自分たちの居場所を国家に売り渡すことになる。
——私たち三人は、全員がこの国の公的な紙の上に存在していないのだ。
国家の公的書類の上に存在しない人間が北へ抜け出すための道は、国家の地図に載っていない地下の道、ただそれだけだった。
◆◆◆
「……一度だけです」
私は言った。
「一度だけで、結構でございますよ」
三輪は、深く頷いた。
「では、明日の晩に行いましょう」
「明日の晩は、みなで一斉に頭を繋ぐ日です」
由良が、私の真横で唇を開きかけ、そして固く引き結んだ。
引き結んでから、俯いて自らの足元を見つめた。
明石さんが、私の麻の上着の袖を左手でクイと軽く引いた。
引いただけで——それ以上は、何も言わなかった。
◆◆◆
地下階段を上がりながら、私は壁の太い金属配管の上に、そっと右手を置いた。
温くも、冷たくもなかった。
十九年間——国家の誰も、この配管の形を消去してはいなかった。
明日の晩、このコンクリートの床の下で、三十七人の信者たちが一斉に頭を繋ぐ。
そしてその円環の真ん中に——私が、座ることになるのだ。




