第77話 大河
導師の三輪は、私たちを地下の奥にある小さな個室へと通した。
かつて巨大計算場だった時代、技師たちが夜間の当直に使っていた当直室らしかった。
簡素なパイプの寝台がひとつと、事務机がひとつ置かれている。コンクリートの壁には、昔の当番表をセロハンテープで留めていた四角い糊の跡が残っていた。
湯呑みが三つ、机の上に静かに並べられた。
明石さんは無事な左手でそれを持った。
由良は自らの膝の前に湯呑みを置いたまま、手をつけようとはしなかった。
私は両手で湯呑みを取り上げた。中身は、素朴な温かい白湯だった。
「……南の方角から、歩いて来られましたね」
三輪が、静かに切り出した。
「はい」
「聞こえておりましたよ。あなた方が、この街の荷継ぎ場へ入られる前から」
「何が、聞こえていたのですか」
「音です」
三輪は、自らの湯呑みには手を伸ばさなかった。両手の指先を、事務机の縁に揃えて置いている。
「私どもは、他人の脳内の律動を、ひとつの【音】として聞き取ります。……このように申しますと、単なる比喩のお話に聞こえますでしょうか」
「聞こえるな」
明石さんが、即座に低く言い放った。
「ええ」
三輪は、明石さんの冷淡な言葉を否定も肯定もしなかった。
「ですが……この地下の感覚では、音と表現する以外に言いようがないのです」
◆◆◆
「……三輪さんは、昔は何をされていた方なんですか」
私が尋ねると、三輪は穏やかな視線のまま答えた。
「人間の首の後ろを開け、通信端子を埋め込む仕事をしておりました」
「外科の、お医者様だったのですか」
「端子を取り付ける専門の技術者です。……政変の前は、公立病院にもそうした専門の科がございました」
「いまは、どうなっているんですか」
「いまは、知能機械のレーザーが全自動で開けます」
三輪の指先は、机の縁から動かなかった。
「機械のほうが、私の生身の手先よりも狂いがないのだそうです」
「それで、この地下へ潜られたのですか」
「私のほうが、先にここへやって来たのですよ」
三輪は、少しだけ首を傾けた。
「最初の頃は、信者たちの首の後ろを開けてやる側の立場でした。ですが……いまは、既に開いている者たちを静かに見守る側の役目です」
◆◆◆
「この地下に集まってくる人間は、みな、それぞれに孤立した小さな【水溜まり】なのです」
三輪は、事務机の天板を指先でコンと一度叩いた。
「水溜まりは、水を汲み出せばすぐに干上がって減ってしまいます。減ってしまえば、また雨水が溜まるまで一人でじっと待たねばならない。その待っているあいだ、人間は耐えがたい孤独の中に置かれます」
「それで……全員で頭を繋ぐのですか」
「繋ぎ合わされば、決して水は減りません。みなの意識がひとつに合わさっているあいだだけは」
三輪は、私の顔をじっと見つめた。
「……ですが、あなたは小さな水溜まりではありません」
「……僕は、何なのですか」
「激しく、流れています」
三輪の指先が、机から静かに離れた。
「巨大な大河の音が聞こえます。遥か上の高嶺の、激しい水源の音です」
「水源、ですか」
「清らかな水が、尽きることなく湧き出し続ける源流です」
三輪は、そこで初めて慎重に言葉を選んだ。
「私どもが聞き取っているのは、その水量の大きさと、流れる方角だけです。それが一体どこの何であるかまでは、私どもには分かりません」
◆◆◆
「……あなたは、文字を書くお方ですね」
「なぜ、それが分かるのですか」
「指先の、胼胝です」
三輪は、自らの右手の中指を持ち上げて見せた。第一関節の皮膚には、何の変形もない。
「その場所に固いペンだこをお持ちの方は、みな文字を書くお方です。この十年間で、そうした方に四人お会いいたしました」
「そうですか……」
「ですが……この地下では、あなたが書かれた紙の文字は一切必要ございません」
三輪の声は、先ほどとまったく同じ静かなトーンを保っていた。決して信者を勧誘するような、熱狂的な響きにはならなかった。
「あなたの書いたものを、誰かが【読む必要がない】からです。あなたがただそこに在るという事実そのものが、何ひとつ言葉を介さずに、みなの意識へとそのまま伝わるからです」
私は息を呑み、手元の白湯の湯呑みを数えた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
次に、部屋の隅の鉄製寝台の四本の脚を数えた。
一、二、三、四。
そして壁に残された四角いシールの跡の、四つの直角の角を数えた。
……すべてを数え終わっても、三輪は穏やかな笑みを浮かべたまま、目の前に座り続けていた。
十六年間——私が書いた文字は、必ず一度は私の手を離れ、離れた先で人間ではない冷酷な知能機械に読み取られ、その判定の結果だけが冷たい通知の紙となって戻ってきた。
その順番が変わったことなど、私の人生で一度たりともなかったのだ。
——提出する。
——読まれ、判定される。
——結果が突き返される。
この導師は、十六年間私を縛り続けてきたその過酷な循環から、真ん中の【判定される】という苦痛を丸ごと抜き去ってやると言っているのだ。
◆◆◆
「……私は、送り手でございます」
由良が、凛とした澄んだ声で口を開いた。
三輪が、そちらへゆっくりと顔を向けた。半拍の沈黙をおいた。
「……ええ」
「送りというものは、お一人ずつのお命に向き合うものでございます。地上のお名前を正しくお呼びして、お一人ずつ、天へお送り申し上げるのです」
「そうですか」
「もしもみなのお心が溶けてひとつになってしまわれましたら……私は一体、どなたのお名前をお呼びすればよろしいのでしょうか」
「誰のお名前も、呼ぶ必要はございませんよ」
由良は、唇を固く引き結んで押し黙った。
膝の上で、自らの指をギュッと握りしめる。
「……それは、ひどく困ります」
「困る、というのは、とても良い言葉ですね」
三輪はそう言って、初めて机の上の湯呑みを取り上げた。
「困るというのは……あなたの中に、まだ他人との明確な境界線が存在している証拠ですからね」
「はい」
由良は、真っ直ぐに背筋を伸ばして頷いた。
「……境界は、しっかりとございます」
◆◆◆
「ひとつ、俺から訊く」
明石さんが、冷たい声で割って入った。
「どうぞ」
「その機械に繋いだ人間のうち、正気のまま意識が戻ってきた人間は何割だ」
「数えておりません」
「二度と戻らなかった人間は、何人だ」
「数えておりません」
「どちらの数も把握していないのなら……『水が減らない』というのは、一体何を根拠に言っているんだ」
「こちらの信仰の言葉では、最初から減っていないのです」
明石さんは、湯呑みを事務机の上へとトンと置いた。硬い陶器の音が響いた。
「……なら、話にならんな」
「ええ。そちらの側の論理の言葉では、そうお考えになるでしょうね」
三輪は、それだけ答えた。決して感情的になって言い返そうとはしなかった。
明石さんが、私の顔を一度だけ鋭く見つめた。何も言わずに、再び視線を三輪へと戻した。
◆◆◆
「……北へ抜ける、地下の抜け道図を譲っていただけないでしょうか」
私が切り出した。
「古い地下道の図面面ですね」
「表の街道は、軍の検問で通ることができません。どうしても、山を抜ける裏道が必要なんです」
三輪は、少しのあいだ静かに考え込んだ。
「……ええ。図面は確かにございます」
「おいくらで譲っていただけますか。代金はお支払いします」
「お金は、一銭もいただきませんよ」
「では……」
「そのお話は、明日の朝にいたしましょう」
三輪は、湯呑みを机に戻した。
「今夜は、みなの合流会の支度がございますので」
◆◆◆
個室を出て薄暗いコンクリートの廊下へ戻ると、途中の白熱電球がひとつ、球切れを起こして消えていた。
その十間ほどの区間だけ、足元の配線溝の板が完全な闇に包まれていた。
その瞬間——由良が、私の右腕の袖をそっと掴んできた。
「……暗うございますので」
位置としては、明石さんのほうが半歩ぶん近くを歩いていた。
私は何も言わずに歩いた。由良に袖を掴まれたまま、ゆっくりと暗闇の中を進んだ。
由良の柔らかな指先が、二度、私の袖の布地を握り直した。
二度目の握り方のほうが、私の皮膚の体温を確かめるように、少しだけ浅く、優しかった。
暗闇を抜け、再び電球の明かりの下へ出ても——由良の手は、私の袖から離れようとはしなかった。
その手が離れたのは、廊下の突き当たりの階段の前で、明石さんが立ち止まって振り返ったその瞬間だった。
私の麻の服の袖には、少女の指先に強く掴まれていた形の皺が、くっきりと残されていた。
◆◆◆
三輪は、地下階段の最下段まで私たちを見送りにやって来た。
階段の吹き抜けから地上へ向けて生ぬるい風が吹き上がり、吊るされた電球がユラリと揺れた。
電球が揺れるたびに、コンクリートの床に落ちた私たちの長い影が、一緒に大きく揺れ動いた。
「……ひとつだけ、お伝えしておきます」
三輪は、私の目を見なかった。
私の胸元の、心臓と肺のあたりを静かに見つめていた。
「……あなたは、たった一人で背負って生きるには、あまりにも大きすぎます」




