第76話 半分の人
地下へと続くコンクリートの階段は、全部で三十四段あった。
段数を数えてしまうのは、私の古い染みついた職業病だ。
港の帳場でも、船のタラップでも、私はいつも無意識に段の数を数え続けてきた。
階段を下りきると、天井の低いコンクリートの廊下に出た。
壁に沿って、太い金属の配管が二本、大人の腰の高さに並んで通っていた。
手を近づけてみると、上の配管一本だけが生ぬるく温かい。
灯りは、配管に針金で括り付けられた剥き出しの白熱電球が、十間ほどの間隔でひとつずつ吊るされているだけだった。
由良が、私の後ろでピタリと足を止めた。
「……ここは、外でございますか。中でございますか」
「建物の、中です」
「……戸が、ございませんね」
地上の入口には錆びた扉があったが、地下へ下りてからは、部屋を仕切る扉はひとつも存在しなかった。
明石さんが、頭上の電球のひとつを下から見上げた。
「配線が新しいな。この五年以内に誰かが引いたものだ」
「誰かが、ここで長く暮らしているということですか」
「引いた連中は、ここに何年も潜伏しているということだ」
◆◆◆
廊下の突き当たりに、頑丈な鉄の扉があった。
だが、その扉は開け放たれたまま固定されていた。
もとは、巨大な電算機械を何十台も並べていた広大な部屋らしかった。
コンクリートの床に、太い電線を通すための深い溝が縦に三本走っており、その上には粗末な足場板が渡されている。
天井が異様に高い。
私たちの足音が広い空間の闇へと吸い込まれ、二度と跳ね返ってこなかった。
その広大な部屋の壁に沿って、古いパイプ椅子がズラリと円を描くように並べられていた。
三十七脚。
その椅子に、静かに座っている者たちと、空席のままの椅子があった。
座っている人々のうなじの項から、一本ずつ細い灰色の通信コードが伸びており、足元の床板の隙間を通って地下の配線溝の中へと落ちていた。
誰も、私たちの侵入に視線を向けようとはしなかった。
重い鉄扉が低く軋み、三人分の足音が部屋に入っても、誰一人としてこちらへ顔を向ける者はいなかった。
◆◆◆
由良が、迷うことなく真っ先に動いた。
手前のパイプ椅子の脇にサッと膝をつき、座っている人物の額の上に、自らの柔らかな手の甲をそっと当てた。
「……お熱はございません」
それから、その人物の青ざめた顔を覗き込んだ。
「……お目が、開いております」
「寝てはいないんですね」
「寝ておられる方の目は、このように虚ろには開きません」
由良は、その人の頬に自らの人差し指の背を当て、下から上へと優しく撫で上げた。
「酷く乾いております。……瞬きを、まったくしておられません」
明石さんは、大部屋の入口に立ったまま微動だにしなかった。
「……機械に繋いでいるのが、二十一人。空いているのが、十六人」
明石さんは、静かに数え上げていた。
「合わせて、三十七脚だな」
明石さんは、剥き出しの天井の配線を見上げた。
「大元の主電源は、この部屋の区画の分だけを生き残らせているな。地上のフロアの電気は完全に死んでいる」
部屋の片隅の土間で、古い大鍋から白い湯気が立ち上っていた。
若い男が一人、木製の匙で鍋の中身を静かにかき混ぜている。
匙が鍋の底を擦る微かな音だけが、この広大な地下室の中で一番大きな音だった。
◆◆◆
部屋の奥の暗がりから、一人の男が足音もなく歩み出てきた。
痩せこけた体躯の男だった。
白髪の混じった長い髪を、後頭部で無造作にひとまとめに括っている。
「……いらっしゃい」
男は、半拍の沈黙をおいてから、穏やかな声で続けた。
「……ええ。三人ですね」
男は私たちの前に立つと、静かに頭を下げた。
「三輪と申します。下の名は、一です。数字の一と書きます」
私は本名を名乗らずに立ったままでいた。明石さんも黙って男を見据えている。
三輪は、私たちが名乗るのを待たずに言葉を続けた。
「……そちらのお嬢さんは」
三輪の視線が、白い麻の衣を着た由良へと向けられた。
「兄の連れでございます」
由良が、即座に答えた。
「妹でございます」
三輪は、ゆっくりと頷いた。
頷いてから、また半拍の不思議な沈黙をおいた。
「……ええ」
◆◆◆
「……この椅子に座っている人たちは、いつからこうしているんですか」
私が尋ねると、三輪は穏やかに答えた。
「その方は、三日前からです」
三輪は、手前の椅子を指差した。さっき由良が額に手を当てた人物だった。
「三日間、意識が戻っていないのですか」
「戻る、という言葉を、こちらでは使いません」
「では……何と呼ぶのですか」
「まだ、こちらにおられます」
三輪は、部屋の奥へと手のひらを向けた。
私たちが立っている入口の側ではなく、三十七脚の椅子が円を描いて並ぶ空間の側へと、優しく掌を向けた。
「食事はどうしている」
明石さんが低い声で尋ねた。
「スプーンで、口へ運びます」
「排泄は」
「こちらでお取りいたします」
「……二度と意識が戻らなかった人間はいるのか」
「いままでに、何人かおられました」
明石さんは、それきり重い沈黙を守った。
◆◆◆
由良が、二つ目の椅子の前へと歩み寄り、畳まれた衣服の裾を払って膝をついた。
座っている人物の手を取り、固く握りしめられていた五本の指を、一本ずつ優しく開いていった。
「……掌に、爪の痕が深く食い込んでおります」
三輪が、そちらへと静かに視線を向けた。
「……ええ」
「爪を、切ってもよろしゅうございますか」
「どうぞ」
由良は懐から小さな裁縫用の鋏を取り出し、伸びた爪を丁寧に切り始めた。
刃を入れる前に、人差し指の腹で爪の先をそっとなぞり、皮膚を傷つけないよう深さを確かめる。
手当てに慣れた、慈しむような手つきだった。
切り落とした爪の破片は、自らの左の掌で大切に受け止め、麻の衣の袂の中へと静かに収めた。
決して、冷たいコンクリートの床の上には落とさなかった。
「……なぜ、袂にしまうのですか」
「生身のお体から出た、尊い一部でございますので」
由良は、袂の口をそっと手で押さえた。
「地上へ出ましてから、清らかな土のある場所へ埋めて差し上げます」
◆◆◆
「……この人たちには、個人の名前はあるんですか」
私が尋ねると、三輪は迷いなく即答した。
「ございますよ」
三輪は、静かに答えた。
「その方は、笠原さんです」
私は息を呑み、その名前を口に出して呼んでみた。
「……笠原さん」
その瞬間——
椅子に座っていた人物の首が、鈍い軋みとともに、こちらへと回った。
三分の一ほど回ったところで、その動きがピタリと停止した。
止まったまま、その人物の顎が少しずつ、少しずつ下へと垂れ下がっていく。
両目は大きく開かれている。
だが——その虚ろな瞳は、私の顔を見てはいなかった。
「……半分は、こちらにおられます」
三輪が、静かに呟いた。
「もう半分は……」
「みなの、意識の海の中です」
由良は、その笠原という人物の膝の上へ、開かれた手をそっと戻した。
その指先は、もう二度と固く握りしめられることはなかった。
◆◆◆
私は、この地下室を満たしている電磁波の響きに、じっと耳を研ぎ澄ませていた。
港の帳場でも、山奥の六軒の集落でも、人間が多く集まる場所では、生身の声と足音と電子機器の通信が別々の周波数で無数に重なり合っていた。
その重なりが密集して【濃い】ほど、私の耳の奥底は激しく詰まり、痺れを帯びてきた。
だが——この地下室の律動は、決して【濃く】はなかった。
——大きい。
濃さと、大きさは、根本的に別物だった。
何十本もの通信パケットが複雑に交錯しているのではない。
たったひとつの巨大な電磁波の波長が、太く、重く、この部屋全体を支配していた。
私は足元の板の上を、静かに三歩だけ歩いてみた。
三歩歩いても、神経を貫くその太い律動の強さは、何ひとつ変わらなかった。
もし電磁波の発生源が一箇所にあるのなら、三歩も歩けば、その源に近づくか、あるいは遠のくかのどちらかの変化が生じるはずだった。
だが——近づくことも、遠のくこともしなかった。
この広大な地下室の空間そのものが、ひとつの巨大な発生源の形をしていたのだ。
◆◆◆
導師の三輪が、私たちの顔を順番に見つめた。
明石さんの青ざめた顔を見た。
由良の澄み切った瞳を見た。
そして——私の顔の前で、その視線がピタリと止まった。
止まったまま、男は長いあいだ何も言わなかった。
やがて三輪は、顎を少しだけ上へと持ち上げた。
自らの右耳を、私の身体の正面へと傾けるような所作だった。
「……大きい、水音がする」




