第08話 名指し
妙な仕事が舞い込んできたのは、Kの謎の短信を受け取ってから四日後のことだった。
朝番の検数作業を終えて口入れ屋の帳場へ戻ると、土間の空気は外の春風より一段低く冷え切っていた。
関口さんは、私の提出した勤務票の上に、小さな依頼票を一枚重ねて差し出した。
紙の質がまるで違っていた。
普段私たちが手にする日雇いの札は藁の繊維が混じった灰色だが、その一枚は上等な純白で、指の腹を滑らせるとすべすべとした滑らかさがあった。
名指しの依頼だった。
名指し、という事態は、この吹きさらしの界隈では極めて珍しい。
珍しいというより、本来あり得ないことだった。
日雇いの検数作業員に、「特定のこの人間を寄越してくれ」とわざわざ指名してくる依頼主など一人もいない。
私たちは規格の揃った互換性のある部品であり、誰とでも取り替えがきくことこそが最大の売りなのだ。
誰が現場に行っても同じように数を数え、同じように紙に署名する。
個人の名前で呼ぶ必要など、どこにもない。
その必要のないはずの私の本名を、何者かが正確に把握していた。
依頼票の細いマス目には、こう万年筆で几帳面に書かれていた。
〈個人宅、書類整理、一日〉
住所は、港の駅から私鉄の電車で四十分ほど揺られた先にある、丘の上の古い住宅街。
依頼主の欄には、姓だけが記されていた。
明石。
そして日当の欄に書かれた数字を見て、私は思わず依頼票を裏返した。
裏面には何も書かれていない。
表に戻して、もう一度その数字を指でなぞった。
一万六千八百円。
埠頭の通常の日払いの、きっかり四倍だった。
四日ぶんの労働の対価が、たった一日で手に入る。
アパートの家賃が月に一万八千円だから、この紙切れ一枚で、来月一ヶ月の住処がほぼ完全に確保できる計算だ。
「……どう思いますか、これ」と私は訊いた。
関口さんは金庫の真鍮の鍵を布で磨く手を休め、老眼鏡の奥から依頼票をもう一度見つめた。
「名指し。四倍。書類整理。——おまえさん、どっかに借金でもあるのか」
「ないです」
「誰かに命を狙われるほど、恨まれる覚えは?」
「恨まれるほど、普段から人間と深く関わっていません」
「だろうな」
老人は鍵を帳場の上に置いた。
鍵は置かれた板の上をかすかに滑り、分厚い台帳の縁に当たって止まった。
「相場の四倍をポンと出す奴はな、四倍ぶんの厄介な毒を抱えているか、それとも四倍出さなきゃ断られると怯えてるか、そのどっちかだ」
老人は静かに台帳を閉じた。
「どっちに転んだところで、ただの書類整理なわけがねえ。行くなら行け。だがな、おれは紹介したんじゃねえ、書類を取り次いだだけだ。現場で何が起きようと、こっちの帳場に責任の棚は作れんぞ」
関口さんは、四十年この帳場に座り続けている。
この吹きさらしの港で起きた無数の悲喜劇を見届けてきた老人が、取り次ぎと紹介のあいだに明確な境界線を引いた。
保証はできない。だが、飢えた若者が行くのを止めもしない。
私は依頼票を自分の勤務票のあいだに深く挟み込み、無言で帰り支度をした。
◆◆◆
着替えのロッカーを兼ねた薄暗い休憩室で、永田さんが弁当箱の残りを片づけていた。
「物部くん、今日は随分と早いな」
「名指しの仕事が入ったんです。個人宅で、書類整理」
永田さんはアルミの弁当箱の蓋を閉める手をぴたりと止めた。
元高校教師は、かつて教室で生徒の嘘を聞いたときとまったく同じ、独特の沈黙の間を取る。
「名指し……おまえさんを、名指しで?」
「ええ」
「日当の額は」
「普段の四倍です」
永田さんは弁当箱を鞄にしまい、それから鞄の口の革ベルトの金具を、指先で二度、確かめるように弄った。
深く考え込んでいるときの癖だ。
「おまえさんの本名を知っていて、この日雇いの帳場に直接指名依頼を出せて、相場の四倍の現金を積める人間か。——街じゅうを探しても、そう多くはないな」
「私は、ゼロだと思っていました」
「だろうな。おれだってそう思う」
永田さんはゆっくりと立ち上がり、くたびれた上着を羽織った。
そして部屋を出る間際、鉄の扉の前で振り返り、低い声で言った。
「もし本当に行くなら、帰りの電車賃だけは靴底にでも別に隠し持っておけ。いざ逃げ出そうとしたときに足の金がないのが、人間いちばん惨めで詰むからな」
等級を奪われた元教師の助言としては、あまりにも実践的で生々しかった。
外へ出ると、春の冷たい潮風のなか、詩文が建物の入口の鉄柵にもたれかかって、紙パックのお茶を飲んでいた。
鉄の扉と柵のあいだには、きっかり三歩ぶんの物理的な距離がある。
詩文はいつも、私と話すときにその距離を保っている。
近づきすぎず、かといって離れもしない。
声の微かな震えは届くが、伸ばした指先は決して触れ合わない場所。
「……中の話、聞こえてたわよ」と彼女は言った。
休憩室のトタンの壁は薄い。
「どう思う」
詩文はストローから口を離し、紙パックを胸元に抱えたまま、私の目を真っ直ぐに見つめた。
「あなたは、行くわね」
「まだ、受けると決めたわけじゃない」
「決めてない顔をしてるけど、絶対に行く。あなたの目を見れば分かる」
私は何も言い返せなかった。
詩文はお茶を最後の一滴まで吸い終えると、細い指先で紙パックを丁寧に折り畳み始めた。
折り目は、きっちりと三つ。
畳み終えた平らな紙の塊を、掌の上に乗せ、もう片方の手のひらでぎゅっと一度、押し潰した。
「気をつけてね。知らない人間の家に上がるときは、脱いだ靴の爪先を、いつでもすぐ履いて飛び出せるように外へ向けて揃えておくこと」
「……」
「わたしの生まれた国では、路地を生きる人間ならみんな知っている当たり前の知恵よ」
香港の過酷なスラムで身につけた知恵なのか、それとも海を渡り歩く逃亡の過程で覚えた処世術なのか、私はあえて訊かなかった。
詩文は平たく畳んだパックを作業着のポケットにしまい、背を向けて埠頭の倉庫街のほうへ歩き出した。
私と彼女のあいだの三歩の距離は、最後まで縮まらないまま、春の夕闇の中に溶けていった。
◆◆◆
その夜、アパートの部屋に戻ってから、私は白い依頼票を机の上に置き、裸電球の光の下でしばらくじっと眺めていた。
ダイモンも、アイリスも、コクレアも持たない生身の人間が、素性の知れない他人の屋敷に一人で上がる。
もしそこで何かが起き、私が消えたとしても、帳場の名簿から「物部」という二文字が静かに抹消されるだけだ。
消えた日雇いの名前をわざわざ捜索する公的な仕組みなど、この超管理社会のどこにも存在しない。
それでも行くのか。
行くのだ。
詩文の予言したとおり、私の腹は最初から決まっていた。
理由は、提示された四倍の日当の金だけではなかった。
Kの短信を受け取ってからの四日間、私は毎晩、暗闇の中で天井の染みを数え直してきた。
苛立ちとも飢えとも違う、名状しがたい熱い澱のようなものが、喉の奥にずっと引っかかっていた。
私の十六年間の零点に価値があると言い放った人間がいる。
そしていま、名指しで私を呼び寄せる人間が現れた。
両者のあいだに、論理的な繋がりはおそらく何もない。
ただの不気味な偶然の一致にすぎないはずだ。
だが、依頼票を四つ折りに畳む私の指先は、驚くほど慎重で、丁寧だった。
四日前、公営端末でKの短信を即座に削除したときの、あの拒絶の動きとはまるで違っていた。
あのときは、逃げるように削除を選んだ。
だが今夜、この白い上等な紙は、私の机の上に確かに残されている。
◆◆◆
翌朝、口入れ屋の帳場で正式に依頼を受ける旨を伝えた。
関口さんは「……命だけは大事にしろよ」と短く呟き、本日の私の穴を埋める代わりの検数作業員の手配を始めた。
分厚い台帳の私の名前の上に、別の作業員の名前が鉛筆で上書きされるのを、私は横から見つめていた。
港の検数の仕事は、担当者の名前がすげ替わっても、昨日と寸分違わず同じように回っていく。
私たちは、誰とでも交換可能な部品だ。
だが、あの白い依頼票には、私だけの名前が明確に指定されていた。
そして、私を暗闇の底から呼び出した男の姓が、ひとつ。
明石。




