第07話 零点の価値
帰りの送迎車のなかは、古い機械油と埃の匂いが充満していた。
座席の安っぽい布地は擦り切れていて、腿の裏側でむき出しの緯糸がざらざらと指先に触れる。
外はすでに完全に暗くなっていた。
窓ガラスの内側が乗員の吐く息で白く曇り、そこだけ街路灯の光がぼんやりと滲んでいる。
宮下さんは帳場が手配している専属の運転手で、この現場の人間の中では唯一、国家の人格証明を保持している人間だった。
ただし持っているのは送迎業務の資格のためだけで、本人はいつも自嘲気味に言う。
「あんなもの、運転免許証と一緒だよ。検問で警察に見せるためだけに持ってるのさ」
車体が大きく揺れ、宮下さんがバックミラー越しに話しかけてきた。
「今日、白地のほうで、また山火事があったらしいな」
白地。
政変のあと、人口が太平洋側の巨大都市網へ吸い寄せられ、内陸に残されたのは無人の廃屋と、管理する自治体すら消滅した広大な山林だけだ。
「あそこじゃ環境センサもねえ、通信電波もねえ。火が出ても軌道衛星が煙を見つけるまで、国の誰も気づきやしねえんだ」
車体が坂の入口の段差で一度沈み込み、それから唸りを上げて前へ進んだ。
「地図にゃ境界が載ってるが、地図の上にしかねえ場所さ。ダイモンも繋がらねえ。生身の人間しかいねえ。……いや、人間だってもう住んじゃいねえか」
宮下さんは自分の吐いた冗談に低く笑った。
私は黙って曇った窓の外を見つめていた。
生身の人間しかいない場所。
その言葉の余韻が、冷たい硝子に映った自分の生気のない顔の上に、しばらく重なって消えなかった。
◆◆◆
夜、アパートへ戻る途中で、もう一台の公営端末に立ち寄った。
この街区には遺産回線の端末が二台だけ残されている。
一台は辻の公営端末の中にあり、もう一台は、古い集合住宅の一階、蛍光灯の完全に切れた薄暗い廊下の突き当たりにある。
その夜は、奥まった廊下のほうへ足を向けた。
辻の端末の前には順番待ちの列ができるが、こちらの端末は、存在を知っているごく一部の住民しか足を踏み入れない。
コンクリートの廊下は底冷えがしていた。
湿った壁に埋め込まれた金属筐体の、手のひらほどの小さな表示窓だけが、暗闇の中で黒地に緑の光を淡く放っている。
この旧規格の短信は、文字データしか運べない。
画像も、音声も、銘の透かしも一切乗らない。
前世紀の通信規格が奇跡的に化石のように取り残された、盲目の回線だ。
暗証番号を打ち込むと、受信箱に一件、未読の通知があった。
養母からではない。
発信元は完全な匿名で、識別符号も空白だった。
〈あなたの零点には、価値がある。
——K〉
迷惑短信だ。
この手の電子のゴミは、ときどき不定期に届く。
非公式の人格再認証を謳う怪しい代行業者、新興宗教の勧誘、あるいは配給計算の権利を買い叩く闇金融。
どれも、証明を持たない底辺層の個人名簿が、どこかの闇市場で違法に売買されていることの紛れもない証拠だった。
削除ボタンを押そうとして、擦り減ったテンキーの上で、私の人差し指がぴたりと凍りついた。
零点。
零点という言葉をわざわざ使う人間など、この世のどこにもいないはずだった。
陽性、非認証、不適格、棄却。
制度が人間を弾くための冷酷な公用語はいくらでもあるが、「零点」という私的な表現は、国家制度の側には絶対に存在しない。
あれは、私自身の内面の言葉だ。
不合格通知の赤い判が届くたびに、声には決して出さず、心の中で今日も零点だった、と一人で数え続けてきた。
養父母にすら言ったことはない。
誰の前でも一度たりとも声にしたことのない、私だけの孤独な数え方だ。
その言葉が、いま、手のひらほどの硝子窓の真ん中に、緑のドットで整然と浮かび上がっている。
指先がテンキーの窪みに深く沈み込んだまま、強張って動かない。
首の後ろの細い産毛が、廊下の物理的な冷気とはまったく別の、内側からの戦慄によって総毛立った。
この緑の画面のほうが、あらかじめ私の机の帳面をすべて覗き込んでいて、私の最も秘められた孤独の数え方をとうに知っている——その不気味な錯覚が、腕の内側の血管を這い上がってきた。
偶然の一致だ。
零点という比喩くらい、誰だって思いつく。
思いつくに決まっている。だが私は、息を殺して、もう一度その二行を凝視した。
黒地に浮かぶ、緑の短い文章。
上が本文の一行、下が謎めいた一文字の署名。
表示窓の残りの六行は、冷たい黒のまま静まり返っていた。
それが、十六年間で受け取ってきたどの不合格通知の文字よりも長く、深く、網膜の奥に焼きついた。
私は震える指で削除キーを押し、その文字を消去した。
◆◆◆
四畳半の部屋に戻り、電灯を消して、冷たい布団に潜り込んだ。
暗闇の中で、天井の雨漏りの染みを数える。
八つある。
この部屋に越してきたあの日からずっと八つで、増えもせず減りもしない。
この狭い部屋でいちばん嘘をつかないのは、あの天井の染みだけだ。
零点に、価値がある。
馬鹿げている。
零点は、どこまで行っても零点でしかない。
国家最高精度の検定機構が十六年間、一度の例外もなく「おまえは人間ではない」と判定し続けたものに、価値など生じるはずがない。
価値があるとすれば——いや、あり得ない。
あってはならないのだ。
瞼を強く閉じようとして、頭の奥にもうひとつの別の記憶が不意に浮かび上がった。
——あなたは、本当に字のきれいな人ね。
夕暮れの事務所で、伝票の束を繰りながら、詩文が囁いたあの声だ。
彼女は私の署名を確かに読んだ。
機械の判定としてではなく、人間が書いた文字として。
私の書いた文字を生身の人間が真正面から読んでくれたのは、養父を除けば、一体何年ぶりのことだっただろう。
天井の染みを九つまで数えたところで、私はゆっくりと息を吐いて目を閉じた。
九つ目の染みは、たぶん、ただの天井板の継ぎ目の影だった。
翌朝、吹きさらしの埠頭でコンテナの数を検めているあいだも、あの一行の残響が指先から離れなかった。
消去したはずの緑の文字と、字がきれいだと評してくれた詩文の声が、削りたての鉛筆の芯の匂いのように、私の感覚の底にいつまでもこびりついていた。
私の十六年間の零点に、初めて値をつけてみせた人間が、この世界のどこかに一人だけいる。
その値が一体いくらなのかを、当時の私はまだ、何も知らなかった。




