第06話 系譜の外の目
埠頭の朝は、機械より先に始まる。
午前四時半。
冷たい潮と、赤錆と、重油の混じり合った重い空気が、まだ濃い夜のまま岸壁のコンクリートに溜まっている。
守衛所の軒下に白熱灯がひとつだけ裸で点いていて、その黄色い光の輪の下に十人ほどの日雇いが並んでいた。
吐く息が白い。
列の誰も口を開かない。
窓口の受け渡し台は分厚い木製で、長年の作業員の肘が当たるところだけ塗料が剥げて、黒光りしていた。
紙の勤務票に自筆で名前を書く。
インクのペンではない、削られた鉛筆だ。
かじかんだ指先では、書き出しの一画目がいつも不格好に太くなる。
窓口の脇の壁には、色褪せた古い金属プレートが貼ってあった。
〈検数従事者の電子機器・補助器具の持ち込みを禁ず〉
持ち込むべき機器など、この列に並ぶ誰ひとりとして持っていない。
それでも掲示は、法律の条文のように律儀に貼られ続けている。
法が要求しているのは、機械の演算に一度も触れていない剥き出しの眼球と、肉体の手だ。
私たちは、その過酷な条件を生まれつき完璧に満たしている。
自分の手で書く、というのがこの現場の根幹だった。
端末に打つのではなく、ここでの出欠確認はすべて個人の筆跡で行われる。
人格証明を持たない人間たちを、紙の上の名前と筆跡の癖だけで厳密に管理する。
原始的だが、その原始性こそが、この仕事が世界に存在する唯一の理由だった。
◆◆◆
この港は、国家の動脈の最前線にあたる。
エネルギーこそ内陸の融合炉で完全に自給しているが、その炉を建造し、巨大な計算基盤を物理的に維持するための重要素材は、すべて海の向こうから船で届く。
最新の半導体基板になる高純度シリコンの結晶塊。
極低温の量子冷却に不可欠なヘリウム3。
それから、私たちのような底辺の作業員が一生名前を知ることのない何かが封入された、巨大な冷凍コンテナ。
私たちの仕事は、それらの荷の現物をひとつずつ数え、検めることだ。
正確に言えば、数える作業そのものは搬入クレーンの機械が行い、私たちはその機械が下した計算結果を肉眼で監査している。
コンテナが陸揚げされるごとに、読み取り機が物理的な照合レポートを紙に吐き出す。
品目、総重量、表面温度、放射線量、そして電子署名の履歴の鎖。
吐き出されたばかりの感熱紙は、まだ機械の熱でほんのりと温かい。
その紙を握りしめて吹きさらしの岸壁に立ち、封印シールの破れ、温度の僅かな食い違い、バーコードラベルの微細な滲みを、自分の目で確かめる。
今朝の三番目のコンテナは、重い鉄扉の封蝋に、爪の先ほどの小さな剥離があった。
指の腹で強く押し込むと、固まった蝋の冷たい縁が尖って、こちらの皮膚を押し返してくる。
手元の印字記録を確認した。
積み替えの経由港で一度だけ、内部温度が〇・四度上がり、すぐに規定値へ戻っている。
レポート用紙の余白に、〈封印にかすかな剥離あり再確認の上一致〉と鉛筆で書き添え、自筆の署名を走らせた。
一日に扱う数は、三十から五十個。
そのほとんどすべてが、何事もない「一致」で終わる。
なぜこの単純な確認作業を、もっと高精度な機械に任せないのか。
まったく同じ疑問を、去年新しく入ってきた若い作業員が帳場で口にしていたことがある。
帳場を仕切る老人は、関口さんといった。
金庫の重い真鍮の鍵を布で磨きながら、老人は静かにこう答えた。
「同じ種を蒔いた畑はな。病気がひとつ入ったら、端から端まで全部が一晩で枯れるんだよ」
それだけだった。
荷を搬入管理する機械も、履歴証書を発行する機械も、港湾の通関を自動処理する機械も、この国ではすべて〈思兼〉という単一の知性システムの系譜から生まれている。
同じ根から生えた無数の幹と枝が、互いの計算結果を確かめ合っているにすぎない。
だからこそ法は、その完璧な計算の鎖のどこか一箇所に、系譜の外にある異質な目を挟み込むことを厳格に義務づけたのだ。
それが、私たちの目だった。
同僚の作業員の大半は、この仕事を形だけの無駄な儀式だと思っている。
世間の人間もそう笑っている。
たぶん、その認識は正しい。
私たちの自筆の署名は、ビルの天井の火災報知器に似ている。
一度も火災が起きなければ、あってもなくても同じ無駄金に見える。
破滅の警報が鳴るその日が来なければ。
それでも法は、この冷たい岸壁に生身の人間を立たせる。
立って、見て、紙に署名する。
人間であること自体が仕事のすべてでありながら、その人間である権利を、国家は公には認めていない。
その冷酷な矛盾は、毎朝、凍える指で勤務票に自分の名前を書く瞬間に、いちばん鋭く皮膚に突き刺さる。
◆◆◆
朝番のチームは八人で、顔ぶれは毎日ほぼ固定されている。
永田さんは六十三歳の元高校教師だった。
二年前、〈認知攻性〉の電子的なテロの流れ弾を浴びた。
真の標的は彼ではなく、彼が勤務していた学校の校長だったという。
ダイモン網を通じた悪意ある情報攻撃で学区全体の通信フィードが汚染され、同じネットワークにいた永田さんの個人記録まで巻き添えで破損した。
裁判の仮処分は下りたものの、一度失われた人格証明の等級は二度と元には戻らなかった。
彼はいまでも休憩のたびに、その不条理な失格の一文の意味を、誰かに一生懸命説明しようとしている。
だが、その愚痴を黙って聞いてくれる相手は、この吹きさらしの港の同類たちしかいない。
黄詩文は私より二歳年上で、期限切れの難民だった。
香港から逃れてきた、と本人は言っている。
難民の一時在留許可は、国内の人格証明システムと密接に紐づいている。
許可の期限が切れれば、証明も電子的に消滅する。
証明が消えれば、毎月の基礎配給を受け取る器も失われる。
詩文がこの現場に来る前は、英語と中国語と日本語の三か国語で複雑な貿易書類を正確に読める人間など、ここには一人もいなかった。
冷凍コンテナに貼られた難解な中文の荷札を、関口さんが老眼鏡をかけ、分厚い辞書を引きながら四苦八苦して突き合わせていたのだ。
詩文が初めて現場に来た日、老人は彼女の驚異的な読解速度を目の当たりにして、何も言わずに辞書を引き出しの奥へしまい込んだ。
彼女は実によく働き、照合の精度は完璧で、必要以上の余計なことは一切喋らない。
ときどき、クレーンで吊り上げられたコンテナに広東語の崩し文字を見つけると、彼女の細い指先が一瞬だけ止まることがある。
その一瞬の沈黙の意味を、私は一度も訊いたことがない。
昼食は、守衛所の裏手にある日陰の石段に腰を下ろして食べる。
港の売店で売っているフェイク・プロテイン弁当は二百八十円。
味の薄い白い魚肉風練り物と、油っぽい黄色い合成卵焼き。
何の合成肉でできているのか、原材料の表示はどこにもない。
最年長の砂川さんだけは、毎朝、自分で握ってきた不格好な白飯の握り飯をアルミホイルから出して食べる。
てっぺんに、小さく萎びた赤い梅干しがひとつだけ載っている。
砂川さんは徹底して無口な老人で、かつてどこで何をしていた人間なのか、誰も知らない。
ただ荷の扱いが誰よりも丁寧で、勤務票に走らせる署名の筆跡が息を呑むほど美しい。
この港では、それ以上の素性を詮索する必要はない。
その日の昼休み、石段の上で、詩文のほうから不意に口を開いた。
「わたしは前の国で、雑誌を作っていたの」
言葉を編む仕事、と彼女は静かに言った。
文芸誌の編集者だったという。
作家たちが命を削って持ってきた原稿を読み、良いところを言葉で伸ばし、足りないところを指摘して、一冊の形に仕上げる。
「銘がなくなって、最初に絶望したのは、自分の名前で文章が書けなくなったことじゃなかったわ」
彼女は紙パックのお茶のストローに口をつけ、少しの間を置いてから、遠い海を見つめて言った。
「誰にも、自分の書いた言葉を読んでもらえなくなったこと」
私は何も言葉を返せなかった。
私の書いた文章を最後まで丁寧に読んで、言葉を返してくれたのは養父だけだ。
それも、十歳の冬までのことだった。
最初から奪われたのと、途中で静かに打ち切られたのと、どちらがより深く心を抉るのかは、比べても意味がない。
私たちは港で「証人」と呼ばれている。
法律上の正式な呼称は「非認証立会従事者」だが、そんな堅苦しい役所言葉を使う人間は現場にはいない。
ただの証人だ。
生身の目でそこにあった現実を見た、と言い張るためだけに、そこに立たされている人間。
◆◆◆
午後、事務所で伝票の束を整理していると、書類の中に一枚だけ、筆跡のひどく乱れた紙が混ざっていた。
末尾に「物部」と署名があるので間違いなく自分のものだが、書いた記憶が定かではない。
たぶん朝一番の、指先が凍えて感覚がなかった時間帯の伝票だ。
それを行儀よく後ろから覗き込んでいた詩文が、私の背中越しに囁くように言った。
「あなたは、本当に字のきれいな人ね」
「いや、これは寒さで手が滑って……」
「これのことじゃないわ。あなたが書いた、ほかの伝票全部のこと」
彼女は私の署名した伝票の束を、帳場へ戻す前に指先で繰って見ていたらしい。
端正な署名と、余白に一行ずつ几帳面に書かれた所見の数々。
一致、一致、一致、封印にかすかな剥離あり再確認の上一致。
「ただの伝票の記録だけを書いて生きてきた人の字じゃないわ、これ」
私は咄嗟に返す言葉を見失った。
伝票のほかに夜な夜な何を書いているのかと追及されたら、正直に答える術がない。
誰にも読まれることのない、無意味な手記を一人で書き続けているのだ、と。
それは他人に聞かせる説明ではなく、ただの無様な告白になってしまう。
「……別に、伝票だけです」
詩文は手の中の伝票の束を机で端を綺麗に揃え、私の目の前に静かに置いた。
置く瞬間、いちばん上の紙の角を、人差し指の先で二度、小さく叩いた。
それだけだった。
私の嘘を見抜いたのか、それとも見抜いたうえで優しく受け流してくれたのか、その真意は分からない。
他人の胸中が分からないということ自体が、私にとってはひどく久しぶりの感触だった。
ダイモンを装着した人間同士なら、こういう曖昧で生々しい沈黙は決して起きない。
相手の脈拍も瞳孔の動きもすべて読み取られ、最も摩擦の少ない最適な合成音声の応答が瞬時に返ってくるからだ。
私たちは、相手を傷つけるかもしれないという不安を抱えたまま、手探りで次の一言を選ぶしかない。
世間の人間は、それを原始的な不便と呼んで蔑む。
だが、大金を払ってその不便を買いに来る富裕層もいる。
生身層と呼ばれる特権階級の人々が、ダイモンを一時的に預け、アイリスを外して生身の男女で食事をする、非接続デートという奇妙な遊びが流行しているらしい。
沈黙の気まずさ、会話の微妙なズレ、相手の表情を読み違えるスリルと恥じらい。
それを、何ヶ月も前から予約の要る高級店で、わざわざ楽しむのだという。
私たちは毎日、その生々しい不便のただ中で生きている。
高級レストランの代わりに吹きさらしの岸壁で、予約チケットの代わりに四千二百円の日雇い札を握りしめて。
自分から選んだ不便は高尚な冒険と呼ばれ、社会から押しつけられた不便は惨めな貧困と呼ばれる。
同じ生身の人間の営みが、財布の中身ひとつで名前を変えていく。
日が西の海へ落ちた。
守衛所の前に、私たちを旧市街へ送り返す迎えの車輌が砂煙を上げて着く。
明日もまた朝四時半に、私たちはこの凍える岸壁に並ぶ。
巨大な機械の系譜の外にある、孤独な目として。




