第09話 三つの層
依頼の日時は、翌々日の午後だった。
午前の検数作業を半日だけ入れてもらい、正午に上がって作業着を着替え、電車に乗った。
電車に乗ること自体が、私にとってはひどく久しぶりのことだった。
港と、四畳半のアパートと、口入れ屋と、公営端末。
私の日常の生活圏は、この四点を結ぶ徒歩の細い線の中だけで完全に閉じている。
電車に乗るのは年に数回、区役所の窓口で現金の障害給付の手続きをするときくらいだ。
駅の改札には、開閉する扉が存在しない。
乗客が近づくと、通路の上の梁に埋め込まれたセンサがその生体を自動で数え、そのまま何事もなく通す。
T0(非認証者)用の紙の窓口は通路の端にひとつだけ設けられていて、そこで前世紀のような硬い紙の切符を売っている。
切符を現金で買うのに、人格証明は要求されない。
ただ、窓口の若い係員は私の顔を一度まじまじと見つめ、第三種の顔を浮かべた。
好奇。
いまどき紙の切符を買って電車に乗る人間など、めったに見かけないのだろう。
切符はボール紙のような厚みがあり、四角い角が指の腹に硬く当たった。
改札の脇の有人通路で、その紙を見せて構内へ通った。
車内は、異様なほど静まり返っていた。
この国の公共交通機関は、いつどこでも墓場のように静かだ。
乗客の九割以上は、コクレア(聴覚端子)で内側の音声を聞いているか、アイリス(視覚端子)で網膜の内側に流れる映像を見ているか、あるいは目を閉じてダイモンと思考の速度で暗黙のやり取りを交わしている。
生身の口を開いて喋っている人間は、車内に一人もいない。
もし肉声を出して会話している人間がいたら、それは遠方からの外国人観光客か、T0か、あるいはよほどの精神的な破綻者だけだ。
私は座席の隅に座り、車窓の外を流れる景色を眺めていた。
港湾地区を離れると、車窓には明確に分断された三つの社会の層が流れていく。
最初の層は、旧市街だ。
低くひしめき合うトタン屋根と、迷路のような狭い路地。
政変の前から残る古い木造建築が密集し、建材の砂粒の密度は極めて薄く、昭和や平成の色の褪せた看板がそのまま傾いて立っている。
私の住むアパートも、この一番下の層にある。
次の層は、再開発地区だ。
政変後に国家主導で整然と建てられた、巨大な高層集合住宅が何キロメートルも立ち並ぶ。
コンクリートの壁面全体が全面広告膜で覆われているが、アイリスを持たない私の剥き出しの目には、単なる巨大な灰色の壁の連なりにしか見えない。
ときどき、灰色の壁の前で立ち止まり、何もない宙を器用に指先で弄っている通行人がいる。
彼らの拡張された網膜には、私には見えない電子の扉や商品棚が鮮明に映っているのだ。
隣の席に座っていた若い女が、不意にすべての動きを止めた。
宙に浮かせていた彼女の指先が、脱力して膝の上へぽとりと落ちた。
目は見開かれている。
だが瞳の奥のアイリスの微細な光がぷつりと消え、口元も耳元も、外界からの刺激に対して何の反応も返さなくなった。
算欠だ。
女は十秒ほど、揺れる座席の上で冷たい石像になっていた。
アイリスが消滅し、コクレアが黙秘し、ダイモンが応答を停止した人間には、汚れた窓の外の景色と、自分の膝の上の手くらいしか見るべき対象が存在しない。
私と同じ、無音で暗黒の側に、ほんの一瞬だけ落ちてきた人間だ。
やがて、女の瞳の奥に、青い小さな明かりが再び灯った。
日割り計算の緊急推論枠が自動でリセットされたのだろう。
女は何事もなかったかのように、再び宙を人差し指で軽やかに撫で回し始めた。
十秒前のあの死のような沈黙の恐怖を、覚えてすらいないかのように。
そして電車がトンネルを抜け、三番目の層へと入った。
電車が小高い丘陵地帯へ出ると、緑の多い古い住宅街が一面に広がった。
依頼票に書かれていた住所は、この層の奥にある。
手入れされた生け垣。重厚な瓦屋根。庭先の物干し竿。
色とりどりの布が、外の春風にさらされている家々がある。
この一帯は、「手で暮らす町」と呼ばれる種類の特権的な低接続地区だった。
かつて私が育った物部の家のある町と、まったく同じ思想の共同体だ。
生身の人間の暮らしをブランドにし、意図的に外部の電子網から距離を置いた富裕層の隠れ里。
ただし、物部の町とは決定的に異なる点がひとつあった。
物部の町には、まだ子どもの声と姿があった。
手習いの書道塾があり、人間の情操教育を売りにする私立学校があった。
だが、この丘陵地帯の物干し竿には、大人の地味な服ばかりで、子どもの小さなシャツが一枚も風に揺れていなかった。
◆◆◆
駅の無人改札を抜け、なだらかな坂道を上っていった。
この一帯は、自動車輌の走る速度が異常に鈍い。
都心の滑らかで高速な自動走行を見慣れた目には、車が泥酔して千鳥足を踏んでいるようにさえ見える。
建材や道路に埋め込まれた計算用の砂粒が極端に薄いのだ。
計算の薄い空間では、どんな最新の機械であっても、人間と同じように動きが鈍り、躊躇する。
機械もまた、暗闇を怖がるのだ。
指定された住所は、袋小路のいちばん突き当たりにあった。
その家は、近隣の瀟洒な住宅とも明らかに空気が違っていた。
周囲の家々は生身層の住宅とはいえ、最低限の環境センサは作動している。玄関の照明が人の接近を感知して自動で点灯するくらいの近代性は保たれている。
だが、この突き当たりの平屋には、そうした最低限の反応すらどこにもなかった。
生け垣の柊は伸び放題に繁り、コンクリートの門柱には、粗末な白い紙が糊で無造作に貼ってあるだけだった。
筆ペンで手書きされた、二文字の姓。
明石。
依頼票の文字と同じ筆跡だった。
決して達筆ではない。
三画目の右払いが、途中で指の力を失ったかのように不自然に震えて止まっている。
門柱の脇の壁には、太いボルト穴が四つ、錆びて口を開けていた。
無線アンテナを固定していた基部の跡だ。
庭には雑草が生い茂り、その枯れ草の間に、泥にまみれて錆びついた古い自転車が一台、倒れたまま放置されていた。
生け垣の隙間から覗く窓ガラスには、内側から新聞紙や茶紙が隙間なくびっしりと目貼りされている。
外から部屋の中の光景を絶対に覗かせないための、異常な警戒心だ。
政変前の古い木造建築なら、もともと建材にセンサは埋め込まれていない。
それでも、普通に人間が住んでいれば、街路からの微弱な通信の漏れはある。
この家にその漏れすら存在しないのは、住人自身が意図的に電波を完全に遮断しているからだ。
もっとも、この町全体がすでにまだらに接続を失い、穴だらけになっている。
一軒だけが通信を切れば不審者として目立つが、町全体が穴だらけであれば、その切断はただの街角の風景に溶けてしまう。
呼び鈴は、真鍮の物理的な押しボタンだった。
人差し指で強く押し込むと、家の中の暗がりで、実際に金属のベルが低く鳴り響くのが聞こえた。
電子のスピーカー音ではない。
真鍮のハンマーが鐘を叩く、生々しい物理的な振動だ。
その音は薄暗い廊下を渡り、紙で目貼りされた窓の内側で一度大きく膨らみ、それから急速に細くなって消えた。
冷たい春風のなかで、しばらく待った。
電車に乗って、都市の三つの層を通り抜けてきた。
最下層の旧市街と、灰色の再開発地区と、丘の上の生身層。
だが、この家は、そのどの階層の論理にも収まっていない。
三つの層のどこからも弾き出され、制度の盲点の底に沈んだ場所が、この坂の突き当たりにあった。
名指しで私を呼び寄せた謎の男が、この冷たい壁の向こうにいる。
金属ベルの残響は、すでに完全に消え去っていた。
誰のダイモンにも届かない、沈黙の家だった。
ガタリと、内側から重い金属の鍵が外れる硬い音がした。




