第74話 較正
〔Kの記録〕
検定庁の一件書類。
受付の日付印は、始業の時刻と寸分違わぬ朝いちばんに押されている。
書類綴りの角に、朱肉の押し損じの印影がひとつある。
件名は一行。
〈北部遷移域及び隣接区域における認証応答の不成立報告の取扱いについて〉
綴りは本紙が三枚と、別紙が二枚。
北部方面の境界域から上がってきた、「認証の知能機械が正しく応答しなかった」という現場報告の、最終的な取扱いを決定するための書類である。
◆◆◆
一枚目に、現場からの報告の集計一覧がある。
〈本年度上半期、北部方面より上申された認証応答の不成立、四十一件〉
種別ごとの内訳が、その下に整然と並んでいる。
〈読取り末端の脱落 十九〉
〈門扉及び改札の応答停止 十一〉
〈携行端末の応答遅延 七〉
〈計測端末の同期外れ 四〉
19、11、7、4。
足すと41に揃う。内訳の数字と合計の数値は、一切ずれていない。
脱落の十九件には、それぞれ現場からの短い注記が付されている。
そのうちの一行に、こう記されていた。
〈収容の現場において、記載を取れないまま停止したもの、一〉
だが——原因の記入欄は、十九件のうち十二件がまったく同じ二文字で埋め尽くされている。
〈不明〉
十九件のうち、十二件は原因が特定されていない。
この「原因不明」と書かれた案件が次のページでどのように処理されるのかが、この公文書の最大の核心である。
◆◆◆
二枚目が、報告からの除外作業の記録になる。
〈右のうち、機器の故障、電源、気象、保守の時間帯に帰し得るもの、二十八件〉
〈原因の記載を欠くものは、確認の術がないため、右に含めた〉
含めた、とだけ短く記されている。具体的にどの一件を含めたのかについては、何も書かれていない。
原因が書かれていないというそのことだけを理由にして、原因不明の十二件がすべて正当な除外の枠へと回されている。
原因が分からないものは、分からないというその一点のみをもって、公的除外の欄へと放り込まれるのだ。
〈残余、十三件〉
残された十三件の性質が、四行に整理されている。
〈イ 同一区域内に散在する。集中する地点を認めない〉
〈ロ 時刻帯に偏りがない〉
〈ハ 近接する機器のあいだで同時に生じた例がない〉
〈ニ いずれも応答の不成立であって、判定の誤りではない〉
ニの一行だけ、文字の書き出し位置が異なっている。半文字ぶん左に寄っている。後から書き足された一行だ。
後からわざわざ書き足されたのは——「知能機械の判定のほうは、終始一貫して正しく働いていた」という主張の一行である。
◆◆◆
三枚目が、検定庁の最終的な結論と処置である。
〈右残余について、外部からの干渉と解する報告が、現地より二件上がっている〉
〈二件はいずれも同一の保守班による。報告書には機器の型式と、直前の作業の一覧が添付されている〉
〈添付の一覧に不備を認めない〉
〈ただし、干渉を行い得る主体は確認されていない〉
〈確認されていない主体を、原因の欄に記載することはできない〉
〈よって残余十三件は、報告側の閾値の設定に帰するものと認める〉
この二行の論理は、公文書の形式の上では完全に正しい。
国家が確認していない主体を、公的書類の原因欄に書くことはできない。書けない以上は原因なしのまま処理され、原因なしの十三件はすべて現場の観測センサーの閾値の誤差へと帰着させられる。
どこにも、故意の嘘は存在しない。
処置の欄が続く。
〈北部方面の報告閾値を改定する〉
〈改定後の基準によれば、右四十一件のうち上申を要するものは、二件となる〉
41件が、一瞬で2件になる。
消え去った39件のエラーの行き先は、この書類のどこにも記されていない。
39件の真実は、一体どこへ消えたのか。
行き先を書き記すための記入欄そのものが、この国の様式には最初から存在しないのだ。
〈本方面の閾値改定は、直近五年で四度目に当たる〉
四度目の改定だ。
〈前三回の改定後、当該方面の上申件数は、いずれも改定前の一割を下回っている〉
四度とも、まったく同じ手順である。
エラーの数が増える。閾値を引き上げる。エラーの数が減る。
理由の欄に、五行の神学的な信念が記されている。
〈神盾の公表値は、社会契約の水準であって、測定の水準ではない〉
〈測定が揺れるたびに公表の値をつけ直せば、切れるのは契約のほうである〉
〈切れた契約は、測定では結び直せない〉
〈閾値は、契約を守るために置かれている〉
〈守るための数値が、守られる側を揺らすのであれば、置き方が誤っている〉
この五行の言葉に、事実を隠蔽しようとする悪意は一行たりとも存在しない。
神盾の安全神話を揺るがせないために、現場からの報告基準のほうを引き下げる。その順序こそが、この書類を書いた高級官僚の中では、一点の曇りもない完璧な倫理として筋が通っているのだ。
起案の文言のうち、一箇所だけ朱色の線で訂正されている。
もとは〈誤検出率の上昇〉と記されていた。
その抹消線の傍らに、朱筆で〈報告閾値の乖離〉と書き直されている。
末尾にも、同じ朱筆で一行が書き加えられている。
〈改定に伴い、当該区域の上申件数は、来期以降、平年並みに復する〉
決裁の欄に、朱肉の公印がひとつ。
検定総監、忌部正名。
朱筆の訂正文字と、決裁印の朱の色合いは、完全に同じ濃さだった。
◆◆◆
別紙の一枚目は、防衛省から回付されてきた人事命令の写しである。
〈試験運用官の当面の配置について〉
〈試験機材の搬入が停止されているため、当該官の職務は、検問統制への随伴に限られる〉
〈機材は、既に廠へ回収した〉
〈当該官の携行装備は、随伴先の規格による〉
随伴先の規格が、括弧書きで記されている。
〈記録を残さない旧式に限る〉
〈随伴中の言動につき、随伴先より申し送りあり。編成の再考を具申するもの、二度目〉
現場からの申し送りの文面が、一行だけ引用されている。
〈祝詞に類する発声は、検問の応対中にも確認される。応対を受けた者が、途中から黙る〉
〈当該官の射撃・運用成績、廠内最上位。試験データの回収率、完全〉
〈配置は現行のまま。北部方面の検問統制に随伴させる〉
〈北部方面の検問線は、別紙の日程により北へ移る。随伴の配置も、これに従う〉
判定の欄に、四文字。
〈支障なし〉
これで、五度目である。
最新の秘密兵器は軍の保管庫へと回収された。この処刑人に残されたのは、警備部隊への随伴という職務だけだ。
携行を許されるのは、電子記録を残さない旧式の銃火器に限られている。
同じ用紙の下段に、検問線が北へ移動する日程が記されている。
秘密兵器を取り上げられた猟犬が、身ひとつで北へ向かって動くのだ。
◆◆◆
別紙の二枚目は、一枚の地図である。
〈北部方面 検問線図〉
東西に走る太い実線が一本。現在運用されている検問線である。
その遥か北の山あいに、破線がもう一本引かれている。
破線の傍らに、日付が記されている。
〈右日以降、破線を現行の検問線とする〉
実線が現在の検問線であり、破線がその移転先である。
記された日付は、二本の線が正式に入れ替わる期日を示している。
破線は、険しい山並みの手前でプツンと止まっている。その先の広大な白地には、地名も施設も、記号はひとつも存在しない。
地図の右隅に、版の通し番号が印字されている。
前の版の地図と重ね合わせると——あの丘の上の看取りの家を示す記号が、七つ綺麗に消え去っていた。
消しゴムで消したのではない。版そのものを最初から白紙で起こし直しているのだ。
新しく刷り直された版のほうが、紙の色が真っ白だった。
〔Kの記録 ここまで〕




