第73話 封蝋
〔Kの記録〕
保安省の書類の綴りが、ひとつある。
表紙のラベルに印字されているのは、公文書の保存期間だけだ。
冒頭に、情報局から回付されてきた正式な照会書が綴じられている。
〈起源児童に係る保全区分の閲覧について(照会)〉
照会の具体的な事項が、件名の真下に一行だけ記されている。
〈右符牒に係る保全区分の有無、及び閲覧の可否につき、貴省の見解を求める〉
まったく同じ件名の照会用紙が、二枚重なって綴じ込まれている。
二枚目の用紙の右肩に、朱書きで二文字。
〈再照〉
一枚目の照会が行われてから、十一日の日数が経過していた。
書類の裏面の処理経過欄に、三行のメモが残されている。
〈受付 北部保安部第一課〉
〈本件は課長専決事項に当たる〉
〈長官決裁に付す〉
三行目の文字だけが、黒鉛筆の手書きである。上の二行は事務的な青いスタンプの印字。
符牒ひとつの機密区分の有無を尋ねただけの書類が、課長の通常の専決権限を離れ、保安長官の執務卓にまで直々に上げられている。
長官へ上げると判断して書き足した三行目の文字だけが、手書きの鉛筆だった。
◆◆◆
次に綴じられているのは、保安省の地下閲覧簿の写しである。
国家の特別保全庫に出入りした記録の簿冊であり、過去二十年ぶんの履歴が一冊の分厚い台帳に収められている。背表紙の綴じ紐は、途中の年代から新しい麻紐に取り替えられていた。
記帳の書式は、二十年間寸分違わず同じである。
入庫の時刻、退庫の時刻、立会人の署名、そして入庫の目的。
目的の記入欄は、そのほとんどが二種類の手続きで占められている。
〈定期点検〉
〈移管〉
年に一度の設備点検と、組織改編に伴う書類の移管作業。それ以外の例外的な入庫記録は、二十年ぶんのページをめくっても十件を数える程度しかなかった。
その中に——異様な一行が刻まれていた。
〈入 〇一時四十分〉
〈出 〇四時〇五分〉
〈立会 なし〉
〈目的 確認〉
一体何を確認したのかについては、何も記されていない。
深夜のこの時刻に入庫した記録は、二十年間の簿冊の中で、他にただの一行も存在しなかった。
署名欄には、姓だけが記されている。
〈石上〉
同じ日の地下鍵の受払簿が、裏面に貼り付けられている。
〈特別保全庫 鍵 受 長官室 返 同夜〉
第三者の立会人を伴わずに単独で特別保全庫へ立ち入る特権を持つ者は、この保安省の組織内でも数人しか存在しない。受払台帳は、その数人の出入りを毎日克明に記録している。
二十年ぶんの台帳の中で、深夜の時間外に立ち入った行は、これ一つきりだった。
入室から退室までに費やされた二時間二十五分という滞在時間もまた、この台帳のどの記録よりも遥かに長かった。
◆◆◆
閲覧簿の次に綴じられているのは、特別保全庫の内部目録である。
棚の列ごとに、書類綴りの名義と封印された年号が並んでいる。古い年代順に上から配架されており、上の段に置かれたファイルほど用紙が経年で薄く変色していた。
最上段の、一番右端の棚の項目に、一行の記録がある。
〈特別保全 二〇三一年 封印 名義 日向〉
この一行だけが、毛筆の手書きで記されていた。
墨の色が、目録の他の行よりも明らかに薄い。十九年ぶんの歳月を重ねた古墨の色合い。
この一行を記した筆跡は、あの深夜の閲覧簿に署名した手と完全に同一である。
同じ棚の他のすべての項目には、いずれも〈移管済〉の公印がドンと押されている。
だが——公印が押されずに残されているのは、この十九年前の一行だけだった。
目録には、書類綴りの厚さとページ数の記入欄も設けられている。
厚さの寸法は正確な数値で記されている。だが、枚数の欄にだけは、黒い斜線が一本引かれていた。
書類の枚数を数えなかったのか、それとも数える規定が存在しなかったのか。
どちらであるかは、目録の文字からは判別できない。
かつて自らの手で封印を施した男が、十九年の歳月を経て、再び自ら封じた書類の前に立った。
公式の簿冊の記録から読み取れる事実は、ただそこまでである。
◆◆◆
定期点検簿の記録が続く。
年に一度実施される点検の記録であり、確認項目は五つある。
〈湿度〉〈鼠害〉〈綴の傷み〉〈封の状態〉〈庫錠〉
〈封の状態〉の欄には、十九年間にわたって、まったく同じ一文字の評価が並んでいた。
〈良〉
十九行にわたる、寸分違わぬ評価。
その下に、年次の定期点検ではない臨時の記録が一行、書き加えられていた。
〈退庫時確認〉
日付は、あの深夜の閲覧記録の翌朝である。
〈封の状態 良。ただし蝋の表面に指の痕あり。拭き取り済〉
赤い封蝋には、十九年前に型押しされた当時の刻印がそのまま残っている。
書類綴りは、棚の定位置に収められている。
深夜の二時間二十五分のあいだ、密室の庫の中で一体何が起きたのかについて、この公式記録が語っているのは、封蝋に残された指の痕の一行だけだった。
十九年前に施された封蝋は、決して割られていなかった。
ただ指先をそっと触れただけの温かい痕跡が、翌朝の点検官によって綺麗に拭き取られていただけだった。
◆◆◆
書類の綴りの後半は、まったく別の公務の記録に移る。
文書の貸出簿の写しが一枚。
〈保安部第一課より借受 石上 同夜返却〉
同じ書類綴りの貸出記録は、台帳の中に三度存在する。三度とも、借り出されたその日の夜のうちに返却されていた。
借り出された書類の正式な件名が、隣に記されている。
〈石上派の呼称に関する件(伺い)〉
書類を借り出した長官の姓と、伺い書の件名にある反乱集団の名称は、まったく同じ二文字である。
起案したのは、北部保安部の現場課員。この書類の受付日時は、あの白地の区域整理の伺い書よりも一ヶ月ほど古い。
呼称を変更すべき理由として、三つの項目が挙げられていた。
〈一 本件呼称は、当省長官の姓と同一である〉
〈二 外部において、長官が当該集団と縁故を有するとの誤解を生ずる虞がある〉
〈三 当該集団の側がこれを名乗りとして受け入れた場合、呼称そのものが向こうの宣伝に転ずる〉
〈よって、行動範囲の地名を用いた呼称への改称を具申する〉
合議の欄に、三つの公印が並んでいる。保安部長、総務課長、そして法務室長。
法務室の欄にだけ、短い意見書が添付されていた。
〈呼称は事実の記載であり、法令上の支障を認めない〉
そして起案理由の一項目目の下にだけ、黒鉛筆で真っ直ぐな下線が一本引かれていた。
〈当省長官の姓と同一である〉という、その一句の真下だけに。
鉛筆による書き込みの痕跡は、この書類綴り全体の中で、ただこの一箇所だけだった。
最終決裁の欄に、八文字。
〈呼称の件、現行のままとする〉
決定の理由は、完全な空白のままである。
改称を具申する理由は三つ並べられていたが、長官自らが鉛筆で線を引いたのは、自らの姓に触れた一番上の一行だけだった。
自らと同じ名前で敵の集団を呼び続けろと、この男は自らの判で決定した。
そう決断した真の理由は、公文書のどこにも一文字も書き記されてはいない。
◆◆◆
綴りの一番最後が、情報局への公式な回答書の控えである。
返された回答は、わずか一行で完結していた。
〈当該区分は、特別保全の手続によるほか、閲覧に供しない〉
厳格な手続きの名称だけが記されている。
情報局からの照会事項は、二点存在していた。だが保安省が回答したのは、後半の一点だけである。
保全区分が存在するかどうかと、閲覧を許可するかどうか。
前半の質問に正面から答えてしまえば、国家にそのような極秘区分が存在している事実そのものを認めることになってしまう。
答えを伏せることによってのみ、機密区分の有無という事実そのものを、保安省の壁の外へ一歩も出さずに封じ込めることができるのだ。
決裁の欄に、朱肉の公印がひとつ。
一度薄く押された上から、濃く押し直された跡が残っている。
十九年前に目録の一行を手書きした同じ手が、いまも変わらぬ重みで印を押していた。
この一連の公文書の綴りの中に、決裁は三つ存在する。
そしてその三つの決裁はすべて——『現状を動かさない』という一点において完全に一致していた。
◆◆◆
回答書の控えの余白に、鉛筆による手書きの書き込みが残されている。
小さく、角の立った几帳面な文字。払いの線がない、無骨な筆跡。
〈右の区分は、二〇三一年に当職が封じたものである〉
〈封じた者に、中を読む権限はない。当時もなかった〉
〈当職の在職中、右を開くことはない〉
〔Kの記録 ここまで〕




