第71話 同行二人
奥の間に残されていた最後の一人は、その夜更けのうちに静かに息を引き取った。
額田由良は老人の耳元に自らの柔らかな掌をそっと当て、低く澄んだ音を長く引いた。
「……殻を、置いてまいります」
「……戸は、開いております」
「……どうぞ、お発ちなさいませ」
昨日の朝と寸分違わぬ祈りの言葉を、寸分違わぬ順序で唱え上げた。
それが、この閉鎖された看取りの家における、厳格な最後の作法らしかった。
送りの儀礼を終えてから、由良は板の間の箪笥の引き出しを開けた。
上から順番に、四つの引き出しをすべて開いた。
四つとも、完全に空っぽだった。
「……持っていかれてしまいました」
「紙を、ですか」
「公式の被看取者名簿を。……お一人ずつの、地上のお名前が記された書類もすべて一緒に」
由良は引き出しを静かに閉じた。
「この方の地上のお名前は、もうこの家のどこにも残されておりません」
——火で焼くべき、名前の紙が存在しなかった。
「……あなたは、その方の名前を覚えていますか」
「はい」
由良は、少しだけ豊かな胸を張った。
「毎朝、お世話のたびにお呼び申し上げておりましたので」
「口で言ってください。僕が代筆します」
「……かわもと、ときひこ、と仰いました」
私は筆を構えたまま、指先をピタリと止めた。
「川に本、の川本ですか。それとも、サンズイの河に本、の河本ですか」
由良の桜色の唇が、開いたまま止まった。
「……分かりません」
「ときひこ、の漢字は」
「……分かりません」
由良は膝の上で両手をギュッと握りしめた。
強く握りしめすぎた指先が、白く強張っていた。
「間違ったお名前を書いてしまえば……あの世へ間違ったものを置いていっていただくことになってしまいます」
私は真っ白な半紙を二枚、畳の上に並べて置いた。
「下の名前は、漢字ではなく仮名文字で書きます。あなたが毎朝呼んでいた、その温かい音のままに」
「……はい」
「そして、苗字は二通り、両方の漢字で書きます」
由良がハッと顔を上げた。
「二枚書いて両方とも火で焼けば、どちらかの一枚は必ず合っています」
由良は何も言わなかった。
しばらくの間じっと半紙を見つめ、やがて深く頷いた。
頷きながら、女の厳格な巫女の表情がフッと崩れ、泣き笑いのような愛らしい素顔が覗いた。
◆◆◆
庭の石の炉で、二枚の半紙を赤い炎にくべた。
二枚の紙は、まったく同じ焼け方をした。
端からクルクルと丸まり、黒い墨文字の刻まれた場所だけが最後まで残り、やがてその黒も白い灰となった。
どちらの苗字が正しかったのかは、灰になって宙へ舞い上がった後も、誰にも分からなかった。
由良は炉の前に正座したまま、しばらく立ち上がろうとはしなかった。
膝の上に置いた手を開いては、また静かに握り直した。
「……これで、この白い家のすべての仕事が、終わりました」
炎が消え去った後、女はポツリと呟いた。
◆◆◆
その夜、白い看取りの家に残されたのは、私たち三人だけだった。
板の間に、病人の布団はもう一枚も敷かれていなかった。
明石さんは薪小屋の床下から這い出し、土間の漆喰壁に背中を預けて座っていた。
火傷の右腕はまだ動かないままで吊るされていたが、顔の土気色は完全に消え去り、力強い眼光が戻っていた。
由良が、私たち二人の正面の板敷きの上に、スッと正座した。
そして両手を膝の前につき、深々と頭を下げた。
「……お願いがございます」
「聞きます」
私が答えると、由良は顔を上げた。
「私を、連れて行ってください」
私は、すぐには言葉を返すことができなかった。
「……行く当てが、ないのですか」
「北の方角に、同じ宗旨の看取りの家がございます。街道沿いに、順に四つほど」
由良は指を折った。数え慣れた、迷いのない指の折り方だった。
「この辺境の家はいずれ畳まれる話になっておりましたので、私もいずれは北の家へ移る予定でございました。……その『いずれ』の刻限が、あの役人の紙によって三日間に縮まっただけでございます」
「一人でも、北へ行けますよね」
「行けます」
由良は真っ直ぐに私の目を見据えて言った。
「一人でも参れますが……あなた様がたの目指しておられる道と、完全に同じ道でございます」
明石さんが、暗がりの中でスッと目を開けた。
「街道沿いに、点々と家があるのか」
「はい。生身の足で歩いて二日ずつくらいの間隔で、山あいにございます」
「その家には、何がある」
「屋根のある寝床と、清潔な井戸水と……そして」
由良は、あの真鍮の平たい缶を自らの膝の横に置いた。
「この、天へ昇られた方々の残されたお薬が、どの家にも必ずございます」
明石さんはその缶を長いあいだ見つめ、それから私へと視線を向けた。
「……二日歩くごとに、確実に本物の抗生剤が手に入る宿がある。北へ向かって、四つ」
「明石さん……」
「俺は、生存の計算の話をしている」
明石さんは無事な左手で自らの膝をポンと叩いた。
「生身の人間が一人増えれば、水も食料も一人分多く消費する。歩く速度は、足の遅いほうに合わせなければならん。……ここまでは、リスクが増える側の計算だ」
「はい」
「だが、あの白い麻の巫女の衣を着た巡礼者に、無闇に手を出したがる検問の兵はいない」
明石さんは顎で、由良の膝の缶を指した。
「そして何より、この娘は次の薬の在り処を四つ正確に知っている。……俺のこの右腕を完全に治し切るには、あと四つの宿の薬がどうしても要る」
私は由良に向き直った。
言わなければならない過酷な真実が、まだ残されていた。
「……由良さん、とても危険なんです」
「はい」
「僕は、国家の警察や特務部隊に追われています。本名ではなく、何かの識別番号のようなもので。……その理由を、あなたに明かすことはできません」
「はい」
「僕と一緒にいる人間も、同じように国家に追われることになります。……僕の港の育ての親たちも、僕の知り合いだというだけで、特務部隊に連行されてしまいました。あなたも、同じ目に遭うかもしれません」
由良は、畳の上に手をついたまま動かなかった。
「……存じております」
「誰からも、聞いていないはずです」
「どなたからも聞いておりません」
由良は顔を上げた。
「ですが……あの灰色の兵隊の方々が庭へ踏み込んできた朝、あなた様は身元照合の線の内側で、身じろぎもせず立っておられました。……あの朝のあなた様のお姿を見て、私はすべてを察知いたしました」
私は言葉を探した。
だが、この女の澄み切った真っ直ぐな瞳を前にして、繕うべき言葉は何ひとつ見つからなかった。
明石さんが、鼻から短く息を吐いた。
「……水は」
明石さんは、静かに言った。
「はじめから、三人分担いである」
◆◆◆
私たちは、これからの逃避行の段取りを話し合った。
「……人前や検問では、僕たちは兄妹ということにします」
「兄様」
由良は、即座に口にした。
「兄様」
もう一度、小さく呟いた。口の中で、その言葉の響きを確かめるような言い方だった。
「街道で呼び間違えれば、その瞬間にすべてが終わります。名前ひとつの不一致で、私たちの命は終わるんです」
「はい」
「それだけでは、まだ足りんな」
明石さんが壁に背を預けたまま、低い声で割って入った。
「仮の呼び名だけを教えておくと、旅の途中で誰かが本物の名前を不意に口にしたとき、この娘の顔に動揺が出る。一度出た生身の表情は、兵隊の前では二度と消せんぞ」
「本物、と申しますと」
「こいつの、本当の名前だ」
由良は、私の顔をじっと見つめた。
だが——決して自分から名前を問い質そうとはしなかった。
この人は、他人の素性を絶対に詮索しない。
出会った三日前から、それは痛いほど分かっていた。
土間の囲炉裏の火が、一度、小さく爆ぜた。
◆◆◆
そこから先は、もはや単なる逃避行の段取りの話ではなくなっていた。
私は口を開きかけ、そして閉じた。
港の帳場でも、日雇いの荷揚げ場でも、口入れ屋でも、私は常に最初に名前を問われ続けてきた。
そして国家の検定通知の紙にも、不合格の封筒にも、あの二文字の苗字はいつも最初から機械的に印字されていた。
二十四年間、私の名前は、私という存在に外側から《《張り付いていただけ》》のものだった。
私自身の内側から、自らの意志で誰かに手渡したことなど、これまでの人生で一度たりともなかった。
名前というものが、他人に手渡してよいものだと思ったことすら、一度もなかったのだ。
由良は、静かに待っていた。
決して私を急かそうとはしなかった。
看取りの家で多くの死を見つめ続けてきた人間は、相手が言葉を紡ぎ出すまでの沈黙を待つことに、誰よりも慣れていた。
「……僕の名前は」
言いかけて、また私の喉が止まった。
止まったところで、女は柔らかい瞳のまま、じっと待ってくれた。
「——物部昊、といいます」
由良は、すぐにはその音を繰り返さなかった。
しばらくの間、目を伏せて心の中で反芻し、やがて唇を微かに震わせて音にした。
「……もののべ、こう、様」
「はい」
「……どのような文字をお書きになるのでございますか」
私は右手を持ち上げた。
空間の空に向かって、一画目の横棒をスーッと引いた。
昔からの染みついた癖だった。頭の中で文字の形を思い浮かべるとき、私はいつも無意識に空中に指先を走らせてしまう。
引いてから、私はハッと我に返った。
この人には、空中の線など見えないのだ。
空中に文字の形は残らないし、たとえ残ったところで、文字の読めない彼女には判別がつかない。
私が恥じ入って指を下ろそうとした、その瞬間——
由良が、スッと自らの右手を前に差し出した。
柔らかな掌を真上に向け、私の指先の前へと、迷いなく差し出してきたのだ。
「……ここへ、書いていただけますでしょうか」
差し出すその所作には、何の躊躇も、身構えもなかった。
明石さんの熱い額に、挨拶のように自らの手の甲を押し当てたときと——まったく同じ、あり得ないほどの無防備な速度だった。
目の前に広げられた掌は、毎日の厳しい水仕事で鍛えられた、健康的な労働者の手のひらだった。
指の付け根の皮膚が少し硬く、爪は短く清潔に切り揃えられている。
そして親指の付け根のふっくらとした膨らみの上に、一本の白い筋がくっきりと走っていた。昔、小刀で切った古い傷痕らしかった。
私は息を呑み、その女の温かい掌の真ん中に、自らの右の人差し指の腹をそっと載せた。
触れた瞬間——指先の皮膚を通して、女の若々しく温かい体温が、ジンと私の全身へと伝わってきた。
「……上が、【日】です」
私は指先を滑らせた。
横棒を引き、四角い囲いを描き、その真ん中に一本の線をスッと入れた。
指先の下で、由良の掌の筋肉がピクンと微かに震えた。
私の指が描く一画ごとの筆順に、女の皮膚が吸い付くように同調してついてくる。
「……下が、【天】です」
一、二、三、四。
四つの画数をなぞり終えると、由良の指先が、私の指を包み込むようにして少しだけ内側に力を込めて曲がった。
「……恐れ入ります。もう一度だけ、お願いいたします」
私は最初から、もう一度その文字をなぞった。
二度目の筆先は、一度目よりもずっと遅くなった。
一画を刻むごとに、由良の温かい掌のほうが、私の指の動きを慈しむように受け止めて待っていた。
待たれると、私の指先は熱を帯び、自然と動きが遅くなってしまう。
「……どういう意味の、文字でございますか」
「空です」
私は指先を、名残惜しさを振り切るようにして掌から静かに離した。
離した指先の皮膚の上に、女の掌の柔らかな温もりが、いつまでも消えずに残っていた。
私は右手を一度開いて、ギュッと握り締めた。
親指の腹で、二十四年間ペンを握り続けて硬くなった自らのペンだこの位置を確かめた。
「青く澄み切った、果てしない空の……空です。ただ、それだけの文字です。何の財産も、身分も持っていません」
「どなたが、お付けになられたお名前なのですか」
「……知りません」
言ってから、私は自分の声がひどく掠れていることに気がついた。
「誰が名付けてくれたのかも知らないまま、二十四年間、この名前を使って生きてきました」
「はい」
「だから……自分の意志でこの名前を誰かに手渡すのは、僕の人生で、これが初めてです」
(——これが、いまの私がこの世界で手渡すことのできる、たったひとつの名前の全部だ)
由良は、私の指が触れていた自らの掌を、ゆっくりと閉じた。
ぎゅっと、宝物を閉じ込めるように強く握りしめた。
「……私には、文字は読めません」
「はい」
「文字は読めませんけれど……」
由良はその握りしめた小さな拳を、自らの豊かな胸元へとそっと押し当てた。
「……心の中に、しっかりと覚えました」
そして女は、私の目を真っ直ぐに見つめ、生まれて初めてその名を声にして呼んだ。
「——昊様」
土間の囲炉裏の炎が、静かに低く揺れていた。
「……その呼び名は、二人きりの時だけにしてくださいね」
「はい」
由良は、花が咲くように嬉しそうに頷いた。
「昊様」
「……あの、いまは二人きりではありませんよ」
背後の暗がりで、明石さんが目を閉じたままボソッと言った。
「——俺は、寝てる」
◆◆◆
翌朝、夜明けの光の中で、私は手記の帳面から紙を一枚、ピリリと破り取った。
あの六軒の集落でトメに託した最初の手紙に続く、二枚目の手紙だった。
前と同じく、極限まで削ぎ落とした三行だけの文面にした。
〈ひとりの名前を、二通りに書きました。
焼くと決まっている紙なので、書けました。
昊〉
どちらの苗字が正しかったのかは、書かなかった。その一行を書き記すための余白は、この紙のどこにも存在しなかった。
そして昨夜、由良の掌に名前を刻み込んだあの熱い時間のことも、私は一行も書かなかった。
読まれずに火の中で焼かれると決まっている紙になら、私はどんな真実でも書くことができる。
だが——この紙は、焼かれない。
遠い港の街で、黄詩文という一人の生身の女性に読まれるために差し出す手紙なのだ。
だからこそ、私は昨夜の出来事を手紙には書かなかった。
紙を丁寧に三つ折りにし、裏面に毛筆でしっかりと宛名を書いた。
〈黄詩文様〉
「……町へ、行ってきてもらえますか」
「行ってまいります。次の看取りの家へ移るまでは、私はまだ教団の預かりの身でございますので、あの参詣札はまだ生きております」
由良は私から手紙を受け取ると、両手で恭しく高く掲げた。
そして、自らの白い麻の衣の胸元の合わせの奥深くへと、大切にしまい込んだ。
「……確かにお預かりいたしました」
手紙に何が書かれているのかを、由良は一切尋ねようとはしなかった。
文字の読めない無垢な少女が、文字を読むことのできる聡明な女性のもとへ、私の書いた文字を届けるために歩いていく。
川の橋を渡り、門前町の公設逓送屋の窓口まで。
その道は、国家に追われている私と明石さんには、決して歩くことのできない道だった。
◆◆◆
由良が町から戻ってくるのを待つあいだ、私たちは白い家の物置を片づけた。
梁の古釘に、古びた笠がひとつ掛けられていた。
菅の草で編まれた、素朴な編み笠。指の腹で触れると、何年分もの埃が白く付着した。
明石さんが土間から見上げた。
「……持っていけ。これからの旅には、日除けの笠が要る」
笠を下ろして裏返すと、竹の骨の内側に、古い墨の文字が書かれていた。
達筆な楷書で、四文字。
町から戻ってきた由良に、その笠を見せた。
「天へ昇られた尊いお方の、お忘れ物でございます。ずっと、あの梁に掛かっておりました」
「読んであげましょうか」
由良は、こくりと頷いた。
「——同行二人」
「……どういう意味のお言葉でございますか」
「目には見えなくても、尊い連れ合いが一人、常に自分のすぐ隣を一緒に歩いてくれている……という意味だと聞いたことがあります」
「俺たちには、目に見える生身の連れが三人いるがな」
明石さんが横から口を挟んだ。
由良は菅笠の縁を、愛おしそうに指先でそっとなぞった。
なぞりながら、少女のように少しだけ微笑んだ。
「……この笠が数えているのは、生身の人間の数ではないのだと存じます」
◆◆◆
私たちは、白い看取りの家の木戸を静かに閉ざした。
錠前など最初から存在しない。ただ外側から閉じるだけの、素朴な引き戸だった。
丘の坂道を三人で下りていくと、段々畑のあぜ道で、鍬を担いだ土地の農夫とすれ違った。
由良がハッとして、私の身体のすぐ真横へと半歩寄り添った。
「……昊さ——」
言いかけて、女は自らの唇を固く閉じた。
農夫が怪訝そうな顔をしながら通り過ぎていくまで、由良は俯いて息を殺していた。
男の足音が完全に遠ざかってから、女はホッと小さく胸を撫で下ろした。
「……兄様」
「はい」
「……このお呼び方は、とても難しゅうございますね」
私たちは並んで、果てしない北の山並みを目指して歩き出した。
この少女の祈りの数え方の中では——私たちは、二人だった。
(……扉、と彼女は言った)
(一体、何の扉なのだ)




