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第70話 祓いの手前

翌朝、庭の隅の石の炉に、昨日の送り火の灰がそのまま残っていた。


夜露をたっぷりと吸い込んでいる。


人差し指の腹でそっと押すと、押した場所だけがズブズブと沈み込み、二度と元には戻らなかった。


井戸の釣瓶で木桶に水を汲み上げた。


湿った麻縄が冷水を吸って、昨日よりもずっしりと重たかった。


竹竿を見上げると、真っ白な木綿の病衣が、風に揺れていた。


七枚。


一人の老人が天へ昇り、火で焼かれた後も、竿の上の布は昨日と寸分違わぬ七枚のままだった。


そのとき——丘の下の登り坂に、動く人影が見えた。


灰色の戦闘服が、四人。


少し間隔を空けて、背後から別の灰色の服が、二人。


計六人の男たちが、隊列を組んで真っ直ぐにこの丘を登ってきていた。


この丘の道は、この白い家より上へはどこにも続いていない。


「……明石さん!」


私は土間へ駆け込んだ。


明石さんは、枕元で薬の包み紙の折り目を丁寧に伸ばしていた左手をピタリと止めた。


「何人だ」


「六人です。特務兵と役人が、登ってきます」


「……この腕を見られたら、一発で終わりだな」


明石さんは自力で立ち上がった。


二日前よりも、ずっと速く力強く足を踏ん張って立った。


由良が音もなく板の間から駆け寄り、土間の奥の薪小屋の引き戸をサッと開けた。


「床板が上がります。板は、三枚でございます」


「……随分と用意がいいな」


「前の宿守さまの代から、ずっと備えておられました」


明石さんは無事な左手で床の縁を掴み、床下の暗がりの中へと素早く身を滑り込ませた。


三枚の床板がピタリと戻された。


その上に、乾燥した太い薪の山が、手際よく積み直された。


由良は両手の木の埃をパンパンと払い、白い麻の衣の襟元をスッと正した。


その動作の途中で、女は私の顔を真っ直ぐに見つめた。


「……あなた様は、どうなさいますか」


いま坂を下りれば、登ってくる六人の部隊と正面から鉢合わせになる。


この丘へ登る山道は、一本しか存在しないのだ。


それに、いま私が逃げ出せば、この看取りの家が見知らぬ逃亡者を匿っていたという罪を被ることになってしまう。


「……僕は、ここにいます」


答えた私の声は、極限の緊張で掠れていた。


口に出すよりも早く、私の両手の手の甲の内側が、ジリジリと激しく鳴り響き始めていた。


山を下りてから戻ってきたあの電磁律動の痺れが、一気に全身の神経を駆け巡る。


庭の上空から、何かが迫ってきていた。



   ◆◆◆



低いモーターの唸り音が、白い家の杉皮の屋根を越えてきた。


灰色の小型円盤ドローンが一機、庭の空間でピタリと静止した。


決して巨大な兵器ではない。木桶を二つ重ね合わせたほどの、大気観測用の端末。


「……ここは国家通信網の端だぞ!」


坂を登りきった男が、肩で激しく息を切りながら叫んだ。


四十歳前後の、痩せこけた役人風の男だった。灰色の作業服の肩に、砂埃がついている。


「高度を低く保て! 高く上げると、基地局からの電波を拾えなくなるぞ!」


もう一人の若い職員が、手元の四角い操作パネルを二度、強くタップした。


円盤ドローンが高度をスーッと下げ、庭の中央、人間の胸の高さで静止した。


円盤の底面から、青白いレーザーの光が地面に向けて照射された。


その細い光の線が、手押しの井戸と家の戸口を丸く囲むようにして、夏草の上をスルスルと円を描いて走った。


「……身元照合の線の内側でお待ちください」


痩せた男が、土間の戸口に立つ私たちに向けて事務的に告げた。


「線の内側から動かないでいただければ、それで結構です。危険はありません」


——危険はありません、と男は二度繰り返した。


何度も同じ言葉を現場で言い慣れている人間の、血の通わない平坦な声だった。



   ◆◆◆



現場の職員は二人だった。


残りの四人の男たちは、レーザーの線の外側に、等間隔で仁王立ちしていた。


軍の正規の制服ではなく、灰色の作業服の胸元に、あの不気味な特務部隊の記章だけが縫い付けられている。


あの峠の検問所の男たちと、寸分違わぬ立ち姿だった。足音ひとつ立てず、全身の重心を完全に消し去った立ち方。


痩せた男が、バインダーに挟まれた公的書類を開いた。


「……区域整理に伴う、終末期収容施設の整理・移送業務です。当施設に所在する被看取者の現在数は」


「二名でございます」


由良が、一歩前に進み出て答えた。


「本省の台帳には、三名と届出が出ていますが」


「昨日、お一人が天へと昇られました」


男はバインダーの紙の上に、ボールペンで短くメモを走らせた。


「確認しますが……法的に亡くなられた、ということでよろしいですね」


「天へと、昇られました」


「……はい、死亡ですね」


男は訂正しようとはしなかった。もともと役所の公文書には、【死亡】という二文字の選択肢しか用意されていないのだ。


「遺体は、どこにありますか」


「裏山の斜面に埋葬いたしました。肉体の殻は土へ還すのが、当教団の厳格な作法でございますので」


男はそれも事務的に書き留めた。


そして土足のまま板の間へと上がり込み、二人の病人の顔を順番に覗き込み、手首の脈を取った。


一番奥の老人の前で、男の手が長く止まった。


土間に戻ってきた男の顔には、隠しようのない濃い疲労の色が浮かんでいた。


「……奥の患者は、移送の負荷に耐えられませんね」


「はい」


「無理に担架で連れ出せば、輸送の途中で確実に死亡します。移送途中の死亡は、こちらの業務上の重大な事故責任になります」


男は書類のページをペラリと捲った。



「……置いていきます。三日のうちに、そちらの現場の責任で、綺麗に【処置】を了してください」



由良は、静かに深々と頭を下げた。


下げた頭を、女は長いあいだ上げようとはしなかった。



   ◆◆◆



庭の上空で、灰色の円盤ドローンが向きを変えた。


底面の黒いカメラ読取り面が、由良の顔の正面へとゆっくりと降りてきた。


「……市民照合を行います。動かないでください」


由良は、直立不動のまま微動だにしなかった。


カメラのレンズが、女の顔の高さでピタリと静止した。


その数秒のあいだに、私は全身の神経を研ぎ澄まして、空間の電磁波の数値を読み取っていた。


円盤ドローンの内部で、激しいパケット通信の呼び合いが発生している。


空中で自律飛行の位置を保つため、ドローンは周囲の基地局へ絶え間なく補正データを問い合わせ続けている。


だがここは、通信網の極限の境界域だ。基地局から返ってくる応答の数が、圧倒的に足りていない。


不足したパケットを、ドローン内部の回路が無理やり一つに束ね合わせて計算している。


その通信束の歪な構造が、私の右手の手の甲の内側に、手に取るように生々しく伝わってきた。


あの港の改札口で、システムを強制突破したときと——まったく同じ構造の脆弱性だった。


通信の束の中に、強烈な負荷がかかっている細い結節点がひとつだけある。


そこへ私の生体意志を真っ直ぐに向ければ——この機械は一瞬で墜落する。


だが——いま落とせば、由良の身元照合の最中にシステムが落ちてしまう。


いま落とせば、国家は「何者かが意図的にシステムを妨害した」と判断し、原因を究明するための捜索部隊が即座に送り込まれてくる。


——待つんだ。


私は木桶の縁を握りしめた。


握りしめすぎていることに気づき、指の力をフッと抜いた。


読取り面が、由良の顔から離れた。


「……照合完了です。結構です」


痩せた男が、バインダーを抱えて私の正面へと向き直った。


「……あなたはこの施設の従事者ですか」


「水汲みの手伝いを、させてもらっています」


「市民登録の端末は」


「持っていません」


もう一人の若い職員が、怪訝そうに顔を上げた。


線の外側にいた四人の特務兵のうち、二人がスッと視線を私へと向けた。


「非認証の未登録者も、申告の対象です。今回の区域整理の一環として、公的施設へ収容します」


痩せた男は、マニュアルに書いてある通りの文言を、淡々と読み上げた。


「個人情報の記載は、あちらの端末が自動で取得します」


男は、庭の上の円盤ドローンを顎で指し示した。


「お手数ですが、線の内側で、そのままお顔を動かさずに」


円盤ドローンの高度が、スーッと下がってきた。


黒いカメラの読取り面が、私の顔の正面へと、ゆっくりと照準を合わせて降りてくる。


——録られれば、私の生身の顔の骨格データが国家のデータベースに永久に残る。


私を追っている国家保安部と特務部隊は、私の顔の画像データをまだ持っていないのだ。


あの峠の検問所を、私が生きて通過できたことこそが、何よりの動かぬ証拠だった。


国家がまだ持っていない決定的な情報を、この辺境の庭先でタダで渡すわけには絶対に、いかなかった。


私は呼吸の速度を、ひとつ落とした。


両目は閉じない。目を閉じれば、相手に警戒を抱かせる。


大気中に張り巡らされた通信束の、一番脆く細い結節点へ向けて——私の耳の波長を、真っ直ぐに同調させた。


押し込むのではない。


ただ、私がそこに生身の異物として存在しているという事実を、システムの隙間に滑り込ませる。


その瞬間——ドローンの内部で、二つの矛盾した計算解が無限ループの衝突を開始した。


円盤ドローンの高度が、ガクンと指三本ぶん、急激に落下した。


姿勢制御プログラムが作動し、慌てて高度を上げ直そうとする。


青白い光の線が、夏草の上で激しく乱れ、歪んだ。


通信回路の結節点が、内部で完全に焼き切れた。


青い光の線が、跡形もなく消滅した。


円盤ドローンは横へ大きくスリップし、激しく傾き、そのまま庭の泥炭の上へと鈍い音を立てて墜落した。


プロペラの羽根だけが、草を巻き込みながら鈍い音を立てて空回りしていた。


カメラの読取りレンズは、私の顔を一度も捉えることなく、地面の泥の草むらを向けられていた。


直後——私の後頭部の五センチの古傷が、頭蓋骨の内側から万力でギリギリと絞め上げられるような激痛に襲われた。


鼻腔の奥底に、ツンと鉄の錆びたような生臭い味が広がった。


——来る。


私は瞬時に身体を動かし、水桶を持ち上げて井戸の縁へ運ぶ一連の動作の途中で、サッと顔を真下へと伏せた。


ポタッ、ポタッと、赤い生血が二滴、水桶の澄んだ水面へと落ちた。


冷たい井戸の水は、二滴の血を瞬時に飲み込み、濁ることすらなかった。


私は作業着の袖口で鼻の下を素早く拭い、その袖口を、何気ない動作で木桶の水の中にジャブジャブと浸して濯いだ。


袖を水につけたジャブジャブという音のほうが、墜落したドローンの鈍いモーター音よりも、ずっと大きく庭に響いていた。



   ◆◆◆



痩せた男が、たまらず激しく舌打ちをした。



「……チッ、これだから境界域の旧式端末は!」



若い職員が慌てて駆け寄り、地面のドローンを抱え上げた。


「……完全にシステムがデッドロックしています! 本省のドックへ持ち帰って修理するしかありません!」


「持って行け! 端末故障の顛末書は俺が書いておく!」


線の外側にいた四人の兵士たちが素早く動いた。


一人が故障した円盤を回収し、残る二人が板の間へと回り込み、移送可能なもう一人の老人の担架を運び出した。


誰も、私の顔を怪しんで見つめる者はいなかった。


草の上で無様に墜落したのは、あくまで国家の機械側の不具合だったからだ。


痩せた男は、バインダーの公文書に視線を落とし、忌々しそうに吐き捨てた。


「……読取り端末が作動しなければ、個人情報の顔写真が取得できません。情報の取れない人間は、今回の名簿には載せられませんからね」


——名簿に載せられない人間は、法的に強制連行することはできない。


男はその台詞を口にはしなかったが、国家の冷酷な官僚制度のルールそのものが、そう厳格に定めているらしかった。


「期日までに、町の正規の窓口へ出頭してご自身で申告してください。……ご自分でね」


「はい」


私の身元照合は、ただそれだけで完全に打ち切られた。


数え上げられない人間は、運ぶことすらできない。


あの雑貨店で、ダイモンを持たない私たちが抗生剤を売ってもらえなかったのと——まったく同じ国家の論理だった。



   ◆◆◆



老人の運び出しは、驚くほど静かに進んだ。


骨と皮ばかりになった一人の老人が、布で覆われた担架の上に載せられた。


老人は薄く目を開けていたが、何も言わなかった。


由良が担架の枕元に膝をつき、自らの柔らかな掌を老人の耳元へとそっと当てた。


あの神聖な、送りの形だった。



「……まだ、向こうの世界へお発ちではございませんよ」



由良は、老人の耳元に優しく囁きかけた。



「運ばれた先で、必ず扉が開きます。……そのときは、どなたかが必ず、あなたの傍におられますから」



——それが、この場を凌ぐための優しい嘘であることを、由良は痛いほど知っていた。


知っていながら、女はその嘘をあえて口にした。


敵への嘘は、短ければ短いほどいい、とあのトメは言った。


由良が放ったこの嘘もまた、極限まで短く、そして美しかった。


担架が、四人の兵士たちに担がれて、ゆっくりと坂を下りていった。


由良は、その列が木々の向こうへ完全に見えなくなるまで、庭の土の上に真っ直ぐに立ち続けていた。


薪小屋の床板の下で、コン、と木と木がぶつかり合う小さな音が一度だけ響いた。


由良はその方向を一瞬だけ見つめたが、決して近寄ろうとはしなかった。



   ◆◆◆



痩せた男が最後に一人だけ残り、一枚の公的な通知書を土間の板敷きの上に置いていった。


由良はそれを両手で恭しく受け取った。


受け取ったまま、女は微動だにしなくなった。


「……恐れ入りますが、読んでいただけますでしょうか」


私は由良の手から、その白い紙を受け取った。


あの宇津木の門前町の読み上げ屋の男の口調を真似て、感情を一切交えずに淡々と読み上げた。



〈当該施設は、区域整理に伴い、本日をもって公的用途を廃止する〉


〈施設従事者は、本日より三日以内に速やかに退去すること〉


〈残置された被看取者については、前項の退去に先立ち、現地において処置を了すること〉



由良は、最後まで一言も口を挟むことなく、私の声を静かに聞き届けた。


「……処置、というのは」


「奥の部屋の、動けないお爺さまのことです」


「……はい」


由良は、ただそれだけ短く答えた。


女は受け取った紙を、指先で丁寧に四つ折りに畳んだ。


畳んだ紙を、白い麻の衣のどこへ仕舞い込めばいいのか、迷うように手元を見つめていた。


「……町の人々は」


由良が、ぽつりと言った。


「こういうことを、【祓い】と申すそうでございます」


「祓い……」


「白い家が、町から綺麗に祓われた、と。……以前にも、別の町で同じように言われたことがございました」


だが——これは、神聖な祓いなどでは断じてなかった。


神聖な火を焚くこともなく、神の名を呼び上げることもなく、誰も怒りの声を荒らげることすらなかった。


国家から紙が一枚届き、人間が一人減らされ、そしてまた冷酷な紙が一枚残された。


——あの処刑人の柏手による【祓いの手前】で。


この白い看取りの家は、国家の事務手続きによって、ただ静かに閉鎖されたのだ。


由良は、四つ折りにした紙を自らの豊かな胸元へとそっと押し当てたまま、白い漆喰の壁をじっと見つめ続けていた。


三日間のうちに、この女は、自らの生きるべき場所を決めなければならない。


だが、この女が一体どこへ向かうべきなのか、その行く先を私は何ひとつ知らなかった。


庭の竹竿の上で、白い病衣は七枚のまま、虚しく風に靡いていた。


減ったのは、生身の人間の数だけだった。


奥の間から、残された最後の老人の呼吸の間隔が、また一段と長く、静かに空き始めていた。

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