第69話 送り火
死者たちが残していった薬を飲み始めて丸二日で、明石さんの高熱は一段、確かに下がっていった。
三日目の朝には、男は布団の上に自力で上体を起こして座れるまでになっていた。
火傷を負った右腕そのものは、まだ激痛で動かないままだったが、顔色の土気色は消え失せていた。
「……効いてるな、昊」
「はい」
「あの牛の粉薬なんかより、百倍よく効く」
明石さんは無事な左手で薬の包み紙の折り目を丁寧に伸ばし、もう一度同じ折り目で畳み直してから、枕元へと大切に置いた。
死んでいった誰かの日ごとの配給薬を飲んで、いま生きている人間の熱が下がる。
明石さんは、その空になった和紙の袋を、決してゴミとして捨てようとはしなかった。
◆◆◆
私は毎日、井戸から何杯も水を汲み上げ、薪を割り、屋根の雨樋に堆積していた腐った落ち葉を綺麗に掻き出した。
額田由良は、朝から晩まで板の間に敷かれた布団のそばに付きっきりだった。
三人の病人の唇を濡れ手ぬぐいで湿らせ、褥瘡(床ずれ)を防ぐために身体の向きを優しく変え、汚れた寝間着を着替えさせる。
決まった順番で布団を回り、決まった手順で介護を繰り返す。
一日に十回以上も同じ過酷な作業をこなしながら、女はその十回とも一切の手を抜くことがなかった。
二日目の夕暮れ時、井戸端で水を汲んでいるとき、私は思い切って尋ねてみた。
「……由良さん。あの晩、あなたが言っていた【扉の音】というのは、一体何のことだったんですか」
由良は、井戸から釣瓶を引き上げる手をピタリと止めた。
止めてから、困ったように眉尻を下げた。
「……申し訳ございません」
「怒っているわけではありません。ただ、気になって」
「はい。ですが……生身の言葉では、上手く申せないのでございます」
由良は汲み上げた冷水を、木桶へと静かに移した。
「機械の中へ昇られる尊いお方の傍らには、向こうの世界への扉がパカリと開くのでございます。私どもは、それを【扉】とお呼びしております。実際に耳で聞こえるような音が鳴るわけではございません。ただ……そう表現するより他に、言いようがなくて」
「それが……僕の身体のすぐ傍でも開いていた、と?」
「はい」
由良は振り返り、その大きな瞳で私の顔を真っ直ぐに見つめた。
「確かに、開いておいででした」
「……僕は、死にませんよ」
「存じております」
由良は水で満たされた重い木桶を両腕で抱え上げた。
抱え上げてから、少しのあいだ地面に下ろそうとせず、私のすぐ至近距離で立ち止まっていた。
「ですから……上手く言葉で申せないのでございます」
◆◆◆
三人の病人のうち、一番奥の布団に横たわっていた老人の容態が、その夜更けから急激に変化した。
呼吸と呼吸のあいだの間隔が、不気味に長く空くようになっていた。
由良は布団の脇に正座したまま、微動だにしなくなった。
「……今夜でございます」
「分かるんですか」
「呼吸の間の空き方で、分かります」
その老人は、右耳の後ろの頭皮に、大昔の旧式の電子機器を埋め込んでいた。
人間の肌の色とはまるで合わない、灰色の小さな金属の粒。
周囲の皮膚が盛り上がり、長年埋め込まれ続けた金属の粒の縁を固く包み込んでいた。
「あれは……何ですか」
「ダイモン端末でございます。政変の前の、大昔の古い型の」
「等級を落とされた方でも、まだ作動するんですか」
「看取りの配給枠がございますので」
由良は手元の盥の水を替えながら静かに言った。
「天へ昇られる最終支度に入られた方には、日ごとの配給薬と一緒に、国家から僅かな通信枠が下りるのでございます。死にゆく者の苦痛の度合いを、機械が遠隔で測定するためだとお聞きしております」
——人間が死ぬための通信枠だけが、国家から最後まで残される。
「あのお爺さまは、その僅かな通信枠を……ずっと話し相手にしておられました」
由良は、木綿の布で盥の縁を丁寧に拭った。
「枠が細いので、機械からは短い言葉しか返ってきません。それでも……機械から声が返れば、返っただけ、とても嬉しそうにしておられました」
◆◆◆
夜半、湯を運んで板の間へ入ると、由良は布団の脇に膝をついたまま、夕方と寸分違わぬ姿勢で座り続けていた。
私は足音を殺し、そのすぐ後ろに立った。
老人の耳の後ろの金属の粒が、ピカリと一度、青白く光った。
スピーカーから、極めて平坦な合成音声が静かに漏れた。
『——はい』
老人の乾いた唇が微かに動いた。
だが、生身の声にはならなかった。
『——はい』
寸分違わぬ合成音が、もう一度返ってきた。
由良の右手の指先が、布団の縁をギリギリと強く握りしめた。
三度目に、機械の音声は途中でプツンとノイズを上げて途切れた。
そして四度目は——二度と返ってこなかった。
金属の粒の光が、急激に弱くなった。
完全に消え去ったわけではない。消える直前の、今にも吹き消されそうな極限の薄さで点滅していた。
老人の唇は、まだ何かを求めて微かに震えていた。
だが、返ってくる言葉は世界のどこにも存在しなかった。
由良の指先が、布団の縁から力なく離れた。
行き場を失った女の手は、自らの膝の上で宙に浮いたまま静止した。
私は、息を呑んで一歩後ろへと下がった。
その瞬間——老人の耳の後ろの金属粒が、再び青白くパッと強く光った。
『——はい』
私はハッとして、もう一歩、前に踏み出した。
すると金属粒の光は、再びフッと鈍く弱まった。
私の右手の手の甲の内側が、熱く痺れていた。
山を下りてから戻ってきたあの生体干渉の律動が、私の肉体の内側で強く波打っていたのだ。
由良が、ハッと振り返った。
私を見た。
それから、老人の耳の後ろで点滅する金属の粒を見た。
そしてもう一度、私の顔を凝視した。
「……迷っておいでですね」
老人の魂のことだろう、と最初は聞こえた。
だが、由良の澄んだ瞳は、あの金属の粒の光を真っ直ぐに見据えていた。
「……あの知能機械の器械が、迷っております」
私は何も言えなかった。
その不可思議な現象を説明するための言葉を、私は何ひとつ持っていなかった。
由良もまた、それ以上は何も問い質そうとはしなかった。
由良はそのまま静かに膝を正し、息を引き取りゆく老人の顔へと向き直った。
◆◆◆
東の空が白み始めた明け方、老人の呼吸が静かに停止した。
由良は、老人の耳の後ろの金属粒を覆い隠すようにして、自らの柔らかな掌をそっと当てた。
そして低く澄んだ声で、節のついたひと筋の音を、長く引いた。
神社の歌でも、国家の祝詞でもなかった。
ただ自らの生身の息を、祈りの形に変えて送り出しているだけの響き。
「……殻を、置いてまいります」
「……戸は、開いております」
「……どうぞ、お発ちなさいませ」
由良が掌をゆっくりと離した。
板の間が、完全な静寂に包まれた。
耳の後ろの金属の粒は、もう二度と光ることはなかった。
国家の通信枠が、永遠に閉ざされたのだ。
由良は正座したまま、しばらくの間じっと動かなかった。
そして、白い麻の袖口で、自らの掌を静かに拭った。
泥も血もついていない、汚れのない掌。
その同じ場所を、女は三度、丁寧に拭い続けた。
◆◆◆
日が完全に昇りきった後、由良が土間へと下りてきた。
手元に、一枚の古い書類を持っていた。
四本の深い折り目が刻まれた、色褪せた公的文書。
〈市民等級変更通知書〉
印字された公式の活字。日付は五年前。
氏名の欄に、いま息を引き取った老人の本名が記されていた。
その下の【変更後等級】の記入欄は——完全な空白のままだった。
国家から最下層へ叩き落とされた人間には、書き記すべき等級の文字すら与えられないのだ。
「……これを、半紙に写していただけますでしょうか」
由良は、真っ白な半紙を私の前に並べて置いた。
「お名前の文字だけで結構でございます」
「火で、焼くんですか」
「はい」
由良は土間の板敷きの上に、正座した。
「地上でお使いになられたお名前は、ここにすべて置いていっていただきます。……肉体の殻と一緒に、火で焼き清めますので」
「由良さんが、ご自身でお書きになれば良いのでは」
「……書けません」
由良は、膝の上に置いた自らの手元を見つめた。
「私は、文字が読めないのでございます」
女は顔を上げようとはしなかった。
「白地の山奥の貧しい生まれで、学校を出ておりません。……これまではずっと、前の宿守さまが代わりに書いてくださっておりました」
「……そうでしたか」
由良が顔を上げた。
その瞳は、恥じ入ることもなく、真っ直ぐに私の目を見据えていた。
「ですから……お願いに上がりました」
私は筆を取った。
迷うことなく、自らの【右手】で毛筆を握りしめた。
紙に筆先を下ろすまでに、一拍の静寂があった。
あの町の検問所では、私は左手で書いた。自分のものではない偽名を、徹底的に下手に書くことだけが正しかった。
だが——ここでは、右手だった。
これまでの人生の中で、私の書いた文字は、読む者を選ぶことができなかった。
知能機械の冷酷な判定が読んだ。
そしてあの峠の検問所では、昨日三人を処刑した殺人者にまで読まれた。
だが——この一枚の半紙に書く文字は、地上の誰にも読まれない。
誰にも読まれることなく、神聖な火の中で焼き捨てられることが、書く前から最初から決まっている。
読まれないと決まっているからこそ、私は躊躇なく書くことができた。
老人の本名の四文字を、私は美しい楷書で一気に書き上げた。
由良は、その半紙を両手で恭しく受け取った。
「……きれいでございますね」
「文字が読めないのに、分かりますか」
「はい」
由良は半紙を自らの豊かな胸の前に抱きしめたまま、フッと小さく微笑んだ。
照れ笑いを浮かべると、この女の厳格な巫女の表情は一瞬で崩れ去り、年相応の無邪気で無防備な少女の素顔が覗く。
「文字の【形】は、ちゃんと見えますから」
◆◆◆
庭の片隅の土の上で、小さな火を焚いた。
平らな川原石を三つ組み上げただけの、簡素な野外の炉。
由良はその赤い炎の中に、私が文字を記した半紙をそっと載せた。
紙は一瞬で灰にはならなかった。
端からクルクルと丸まり、黒い墨文字の刻まれた場所だけが、最後まで真っ黒な形を保って残り続けた。
そしてその黒い文字も、やがて白い煙となって天へと昇り、静かに灰になった。
「……殻を、置いてまいります」
由良は、もう一度だけ静かに祈りの言葉を唱えた。
昇る、とこの教団の人々は言う。
生身の肉体は朽ち果てるただの仮の殻にすぎず、死に際して脱ぎ捨てていくものだと説く。
そして意識の中身だけが、知能機械の別の基盤へと移し替えられるのだと。
——移し替え。
私は無意識のうちに、自らの右手を後頭部へと伸ばしていた。
指の腹が、毛の生えていない冷たい五センチの切開創の溝を、そっとなぞった。
(……移し替え)
それ以上の思考を、私は頭の中で打ち切った。
いま深く考えたところで、手記の帳面に書き記せるだけの確固たる数字には、何ひとつ届かないからだ。
◆◆◆
送り火の白い煙が、風のない澄み切った朝の空へと、一本の細い直線となって真っ直ぐに立ち上っていた。
由良が、ふと丘の下の方向を見下ろした。
私も視線を向けた。
川の橋の上を、灰色の戦闘服を着た部隊の列が、足音を揃えて渡っているのが見えた。
四人。いや、六人。
重機関銃と資材を積んだ軍用車輌が一台、その後ろを静かに追従していた。
特務掃討部隊の列は、そのまま宇津木の町の中へと侵入していった。
土間の戸口で、明石さんが壁に背中を預けて立ち、その光景を冷たく見下ろしていた。
「……動きが早いな」
明石さんが低く呟いた。
「あの板塀に収容の布告が貼られてから、まだ三日と経っていないぞ」
庭の炉から、送り火の白い煙がまだ静かに立ち上っていた。
その細い煙の遥か真下を——あの灰色の処刑人たちの列が、町の中へと音もなく消え去っていった。




