第68話 白い家
石の道標は、丘の裾の深い夏草の中に埋もれるようにして佇んでいた。
刻まれていたはずの文字は風雨で完全に摩耗し、大昔に誰かがこの方角を指し示したという事実だけが、苔むした石の形となって残っていた。
明石さんは、その道標の根元に力なく座り込んでいた。
男の浅い呼吸と青ざめた顔を見て、私はすぐに察した。
——熱が、また上がっている。
「……札は、どうだった」
「もらいました。そして、町を出るときに返却してきました」
「町の様子は」
「巨大な門があって、木片の番号札を握った人々が並んでいました。門の脇の板塀に、国家の収容の布告が貼られていました。……裏の糊が、まだ濡れていました」
「……そうか」
明石さんは膝に手をつき、立ち上がろうとして一度、激しくふらついて失敗した。
二度目に歯を食いしばって立ち上がった。
丘の標高は、決して高くはなかった。
だが高熱と化膿した右腕を抱えた明石さんにとっては、果てしなく長い登り坂だった。
十歩進むごとに立ち止まり、そのたびに、立ち止まってなどいないという顔をして息を整えた。
私は後ろから、その男の十歩を無意識のうちに数え続けていた。
数えている自分に気がついて、やめようとした。
だが——二十四年間、港の帳場で数字を刻み続けてきた私の身体の癖は、どうしても止めることができなかった。
丘の中腹まで登り詰めたところで、木々の合間から、眩しいほど白い壁が見えた。
◆◆◆
平屋の、素朴な木造建築だった。
白い漆喰の土壁に、杉皮を葺いた深い軒が張り出している。
壁のところどころの漆喰が経年で剥げ落ち、下の赤土が覗いていた。
庭の片隅に、古びた手押しの井戸があった。政変の動乱よりずっと前の時代に作られた、黒い鋳鉄のポンプ。
竹竿に、真っ白な木綿の布が何枚も干されていた。
大人の寝間着の丈だった。
だが、生身の人間が自ら進んで着る衣服というよりは、衰弱して動けない人間に着せるための、前開きの病衣の形をしていた。
谷から吹き上げる風が抜けるたびに、七枚の白い布が、全部一斉に同じ向きへと風に揺れていた。
——七枚。
この家に一体何人の人間がいるのかを、私は干された布の数から正確に割り出そうとしていた。
港の船着き場でも、私は毎日のように同じことをしてきた。
荷の山を見て、その中に詰まっている箱の数を瞬時に当てる。
いま当てたところで、一体何になるというのだろう。
その白い布の下に、一人の女が立っていた。
両腕で、木製の丸い水桶を抱え持っていた。
若い。
私と同じ二十代前半か、あるいは少し年下に見えた。
背は高くなかった。
だが、麻の白い衣の袖を肩口までたくし上げた両腕は、毎日の厳しい水仕事で鍛え上げられており、決して細くはなかった。
日焼けした健康的な肌の上に、井戸の冷たい水滴が光の粒となって光っている。
汗と水で濡れた黒い前髪が、白い額に張りついていた。
麻の白い着物の腰のあたりを、細い注連縄のような紐で無造作に固く締めている。
神社の巫女の厳格な装束というよりは、泥にまみれて働くための、極めて実用的な着こなしだった。
女はこちらを見た。
見て、抱えていた重い水桶を、地面の上にトンと置いた。
女が見つめたのは、私の泥だらけの顔ではなかった。
首から深い藍色の三角巾を吊るし、ドス黒い膿を滲ませている明石さんの右腕を、じっと見据えていた。
◆◆◆
女は、草の生えた坂道を迷いなく降りてきた。
決して急いではいなかった。走ることもなく、だが一瞬たりとも立ち止まらなかった。
柔らかな夏草を踏みしめ、水溜まりを軽やかに跨ぎ越え、私たちの正面三歩の距離まで近づき——そして、そのまま何の躊躇もなく、さらに二歩、間合いを詰めてきた。
——近い。
詰められた、と私が息を呑んだときには、女の柔らかい手が、すでに明石さんの濡れた作業着の袖にそっと触れていた。
「……酷いお熱がございますね」
澄んだ、涼やかな声だった。
「……ある」
「その右腕のお怪我は、いつからでございますか」
「ひと月半前だ」
「奥まで、酷く膿んでおいでですか」
「……膿んでる」
女は静かに右手を伸ばし、明石さんの熱い額の上に、自らの手の甲を直接当てた。
何の躊躇も、警戒もなかった。
見知らぬ他人の男の額に、自らの柔らかな手の甲を押し当てるという濃厚な接触が——この女の中では、朝の「おはよう」という挨拶とまったく同じ位置にあるらしかった。
「……どうぞ、お入りいただきます」
私は思わず口を開いた。
「あの……峠の六軒の集落の、トメというお婆さんの名前を聞いて——」
「存じません」
女は明石さんの左側に回り込み、その逞しい肩を自らの身体でしっかりと支えた。
女の華奢な身体が明石さんに密着し、麻の衣を通して、女の温かい体温が伝わってくる。
「存じませんが、ようございます」
私は、あの町の検問の窓口で受け取った木札のことを思い出した。
身元証明の紙を差し出し、左手で下手に署名し、役人の朱の判をもらって、ようやく通ることが許されたあの関所。
だが——この丘の上の家には、門などどこにも存在しなかった。
公的な身元証明の紙も、朱肉の判も、何ひとつ必要とされていなかった。
◆◆◆
家の中は、一面が眩しいほど真っ白だった。
壁に塗られた漆喰が白い、ただそれだけのことだった。
だがそれだけで、鬱蒼とした山奥の暗い民家とは、部屋に満ちる光の量がまるで違っていた。
板の間に、薄い藁布団が三つ並べられていた。
三つとも、人間が横たわっていた。
骨と皮ばかりに痩せ細った老人が、二人。
そしてもう一人は、老人と呼べる年齢かどうかすら判別がつかなかった。
頬の肉が極限まで削げ落ちており、年齢の見当がまったくつかなかったのだ。
三人の病人は、誰も私たちの侵入に顔を向けようとはしなかった。
首を横に向けるだけの筋力すら、もう肉体に残されていないのだ。
「……奥の部屋へお通しいたします」
女は明石さんを奥の六畳間へと運び、清潔な敷布団の上に静かに寝かせた。
そして私の正面へと戻ってくると、畳の上に静かに正座して、両手を膝の上に置いた。
「……ここでは、お名前を伺いません」
「……え?」
「機械の中へ昇られる尊いお方に、この地上の名前など要りませんので」
女は、土間の竈へ湯を沸かしに向かいながら、極めて穏やかに言った。
『昇る』という恐ろしい言葉を、今日の一日の天気の話をするかのような自然さで口にしていた。
私は作業着の懐をまさぐり、咄嗟に口走ってしまった。
「……田村、と申します」
口に出してから、私は自らの唇を疑った。
相手から名前を訊かれてもいないのに、自分から勝手に偽名を名乗っていたのだ。
港の荷揚げ場でも、口入れ屋の帳場でも、国家の検問でも、私は常に最初に名前を問われ続けてきた。
名前を訊かれる前に反射的に差し出すという習性が、私の身体に染みついていたのだ。
しかも口から出たのは、私自身の本当の名前ですらなかった。
それでも私の身体は、染みついた条件反射のままに偽名を差し出していた。
女は竈に火をくべながら、振り返りもせずに答えた。
「——訊いておりません」
柄杓で湯を汲む女の手は、一瞬たりとも止まらなかった。
湯が木桶の底へ注がれる温かい水音が、そのまま静かに続いた。
「……私は、額田由良と申します」
女は振り返り、真っ直ぐに私の目を見つめた。
「私は機械の中へは昇りませんので、名がございます」
◆◆◆
煮沸された熱い湯と、清潔な白い晒し布、それに小さな薬瓶と小刀が板の上に並べられた。
由良はまず、薬瓶から褐色の薬液を数滴、白湯に溶かして明石さんの口元へ運んだ。
「……痛みを鎮めるお薬でございます。少し、頭が重くなりますが」
「……構わん」
明石さんがそれを一気に飲み干すと、数拍のうちに荒い呼吸が深く静まり、強張っていた四肢の筋肉からわずかに力が抜けた。
由良は明石さんの右腕に巻かれていた藍染めの三角巾を静かに解いた。
布を解く女の手つきには、何の躊躇も迷いもなかった。
トメの手も迷いのない手だったが、トメの手は薪を割り山菜を摘むための無骨な手だった。
だが——この由良という女の手は、弱り果てた人間の生身の肉体を慈しみ、手当てするためだけに育てられた手だった。
「……触ります」
由良は小刀の刃先を竈の炎にくぐらせて火炎滅菌し、煮沸した清浄な湯に浸して適温まで冷ました。
そして、熱線で激しくただれ、化膿しかけていた表皮の壊死組織を、刃先で薄く丁寧に剥離し始めた。
明石さんは奥歯を固く食いしばった。
熱い呼気が、鼻腔から短く漏れる。
由良の手先は、刃先が組織を分かつたびに、女の細い肩が一度ずつ規則正しく沈み込んだ。
明石さんの呼吸の波と、寸分違わぬリズムだった。
傷つく側の生身の痛みに、自らの身体のリズムを完全に同調させて動かす手だった。
私は血と膿を拭った湯を取り替えるため、庭の井戸へ何度も往復した。
三度目に土間へ戻ってきたとき、由良が額の汗を拭いながら言った。
「……溜まっていた悪い膿は、すべて外へ出ました。ですが……高熱が引かないのは、お体の内側の問題でございます」
「……薬が要る」
明石さんが、荒い息の下から絞り出すように言った。
「本物の抗生剤だ。どんな薬でも構わん。効くかどうかは、俺が自分の命で引き受ける」
◆◆◆
由良は静かに立ち上がり、奥の板の間の薬品棚から、長方形の平たい真鍮の缶を両手で恭しく運んできた。
金属の留め金を外し、蓋を開けた。
中には、白い和紙で丁寧に包まれた小さな薬の包みが、十袋ばかり整然と並んでいた。
その小袋の口の折り方は、ひとつずつ微妙に異なっていた。
何人もの異なる人間が、それぞれの癖で折り畳んだことが一目でわかる包み方だった。
「……これは、一体何の薬ですか」
「天へ昇られた尊い方々が、地上にお残しになられたお薬でございます」
明石さんが、その開かれた缶の底を凝視した。
長いあいだ、穴が開くほど見つめ続けていた。
「……あの森林軌道の水場の男が、言っていた通りだったな」
私にも、あの男の苦々しい声が耳元に蘇っていた。
——国家は、死にゆく狂信者どもの終末期施設にだけは、定期的に本物の抗生剤を配給し続けている。
あの男が吐き捨てるように語った悪口の真実が、いま、私たちの目の前で蓋を開けて輝いていた。
「……お一人につき、一日ごとの分量のお薬が、町から届けられます」
由良は缶の中の小袋を、慈しむように指先で整えた。
「本来なら、昇られた方のお薬はすべて火で焼き捨てる決まりでございました。ですが……前の宿守さまが、それはあまりに勿体ない、と仰られて」
「宿守……」
「この看取りの家を、ずっとお守りになられていた尊いお方です。……今年の春に、天へと昇られました」
この家に暮らしているのは、三人の瀕死の信者と、そしてこの額田由良という若い巫女の、たった四人だけだった。
死んで昇天していった宿守の代わりの責任者は、街から一人も送り込まれてきていないのだという。
「……国家の上の方では、この辺境の施設はすべて近いうちに畳む計画になっている、とお聞きいたしました」
由良は、包みの中から一袋を選び取り、明石さんの手元へと手渡した。
「ですから……このお薬は、余っているのでございます」
明石さんはその薬の小袋を受け取り、自らの大きな掌の上でじっと見つめた。
そして白湯で一気に喉の奥へ流し込んだ。
「……礼を言うべき相手は、俺たちではないな」
「そうかもしれません」
由良は真鍮の缶の蓋を静かに閉じた。
「ですが……天へ昇られたあの方々は、もう地上からの御礼を受け取ることはできませんので」
◆◆◆
やがて、山あいに深い夜が訪れた。
私は薪を割り、井戸から何杯も水を汲み上げ、それを今夜の宿代と治療の働きの代わりにさせてもらった。
由良は三人の病人の布団のあいだを何度も往復し、布で唇を湿らせ、床ずれを防ぐために身体の向きを優しく変えていた。
一人の老人が激しく咳き込むと、由良はその痩せた背中に自らの掌をそっと当てた。
咳が完全に治まるまで、女の手はずっとそこにあった。
咳が治まってからも、さらにしばらくのあいだ、温かい手を背中から離そうとはしなかった。
私は土間の片隅に腰を下ろし、手記の帳面を開いた。
久しぶりに、頑丈な屋根の下で文字を書くことができた。
白い漆喰の壁が行灯の小さな炎の光を柔らかく反射し、暗い山奥の小屋よりもずっと手元の文字が鮮明に見えた。
ペン先を走らせていると、板の間の方から素足の足音が小走りに近づいてきた。
由良が、水桶を抱えて土間を通り抜けようとしていた。
その足が、私のすぐ真横で止まった。
女は一歩だけ後ろへ後退した。
そして——私の身体の、すぐ真横に寄り添うようにして静かに立った。
——触れる。
肩と肩が、布一枚を隔てて触れ合ってしまいそうな、あり得ないほどのゼロ距離だった。
由良が抱える木桶の水が揺れ、木の縁で微かな波を立てた。
見上げると、彼女は静かに両目を閉じていた。
水仕事の滴で濡れた長い睫毛が、行灯の光に照らされて艶やかに光っている。
麻の薄い衣を通して、女の若々しく温かい吐息の匂いが、私の鼻腔をかすめた。
「……今」
由良は、両目を閉じたまま、微かに唇を震わせて囁いた。
「……扉の、音が」




