第67話 門前町
宇津木の町境は、一本の細い川だった。
川を渡るコンクリートの橋の手前に、国家の検問所が設置されていた。
あの峠のときのような土嚢の壁はなかった。
灰色の監視小屋が一棟建ち、その脇に灰色の警備車輌が一台停められているだけだった。
峠の検問とは、根本的な造りが違っていた。
峠のあれは山道を完全に塞ぎ止めるための検問であり、この町の検問は、生身の人間を安全に通して頭数を数え上げるための検問だった。
「……俺は入らん」
橋の手前の雑木林の陰で、明石さんが言った。
「火傷の男を探す指名手配の紙が、この町にもすでに回っているはずだ。この吊るされた右腕は、誰が見ても答えを先に語ってしまうからな」
「僕が一人で入ってきます」
「そうしてくれ。昊、頼みは二つだ」
明石さんは無事な左手の人差し指を一本立てた。
「一つ目。あの丘の上の白い家が、いまも生きているかどうか。町の人間の生身の口から直接確かめろ。トメ婆さんの古い噂話が、今日も生きているとは限らん」
男は二本目の指を立てた。
「二つ目。町に入るための参詣札をもらってこい。……この先、北へ向かう道中で、人間が暮らす町をすべて避けて通ることは不可能だ。関口さんにもらったあの空白台帳の紙が、国家の窓口で本当に通用するかどうかを、一番警備の緩い窓口で試しておく」
「緩いんですか」
「宗教施設の参詣窓口は、人を追い返す側じゃない。人を広く通して、通行税と頭数を集める側だ。……試すなら、ここが一番安い」
明石さんは川上の方向へと顎をしゃくった。
木々の生い茂る鬱蒼とした斜面が、町を大きく迂回して裏山の丘の裾野まで続いていた。
「丘の裾に、古い石の道標があるとトメ婆さんが言っていた。俺はそこで待っている」
「日が暮れる前には戻ります」
「必ず暮れる前に戻ってこい。……日が暮れてから戻る人間は、たいてい二度と戻ってこん」
◆◆◆
橋を渡ると、道が左右の二股に分かれていた。
右側は、幅の広い、立派な屋根のついた自動改札通路だった。
胸元のダイモン端末を光らせた市民たちが、足を一切止めることなくスムーズに歩いていく。
読取りの柱にタッチする必要すらなく、大気中の電波を浴びるだけで通過が完了している。
左側は、小さな木造小屋の前に作られた、薄暗い手動の待ち列だった。
十人ほどの人間が、泥のついた長靴を履いて並んでいた。
日雇いの肉体労働者の身なりの者が半分、残りは重い荷物を背負った土地の年寄りたちだった。
立ち止まることなく歩ける人間と、列に並んで待たされる人間。
国家の町の入り口で、人間はすでに厳格に二つに仕分けされていた。
私は左の列に並んだ。
前の男が窓口で二言三言を交わし、紙を出し、朱の判を押されて通っていった。
私の番が回ってきた。
「……ご用向きは」
窓口の若い男が、帳面から顔を上げずに言った。
「参詣です」
生まれて初めて口にする言葉だった。前の男の台詞をそのまま真似ただけだった。
「宿泊ですか」
「日帰りです」
「身元証明の紙を」
私は作業着の胴巻きから、関口さんの空白台帳の一枚を差し出した。
あの峠の検問で差し出したのと寸分違わぬ紙。
不慣れな左手で書き記した、私自身のものではない架空の氏名。
男はその紙の文字を一瞥し、手元の分厚い公的台帳を開いた。
男は台帳を一枚、前へと繰った。
その前のページにも、今日の日付と数人の署名がズラリと並んでいた。
男は台帳をもとのページに戻し、筆立ての毛筆へと手を伸ばした。
「……ここへ、紙と同じ名前を書いてください」
黒い毛筆が、私の手元へと差し出された。
私の指先が、スッと冷たくなった。
物心ついてから、私はずっと右手で文字を書いてきたし、港の帳場でも毎日のように右手で検数の署名を刻んできた。
いまこの台帳に右手で達筆な文字を書いてしまえば——紙に書かれた下手な左手の筆跡と、台帳の署名が、まったくの別人の文字になってしまう。
——左手で書く。
——徹底的に、下手に書く。
私は筆を、不慣れな左手で受け取った。
窓口の男が、怪訝そうに顔を上げた。
私は息を殺し、台帳のマス目に筆先を落とした。
筆の先が思うように動かず、震えた。
終わりの払いが、不自然に長く伸びた。
三画目の曲がり角で、墨汁がボタッと黒く滲んだ。
書き終えて、私は筆を静かに置いた。
男は台帳の汚い文字と、私の差し出した紙の文字を、眉をひそめて見比べた。
「……随分と、不自由な字ですね」
「……すみません」
「いえ」
男は木製の公印を取り上げ、朱肉をつけて紙の上にドンと力強く押した。
「……そういう手をお持ちの方も、たまにおられますから」
——下手であることが、この瞬間だけは、完全な正解だった。
朱の判を押された木札が、窓口から私の手元へと滑り出てきた。
〈参詣 当日限り有効 日没まで〉
そう黒々と焼き印されていた。
裏を返すと、退町時の返却窓口の番号が小さく刻印されていた。
だが——日没の刻限を過ぎてしまった札が一体どう処理されるのかについては、札のどこにも一文字も記されていなかった。
◆◆◆
参道は、緩やかな石畳の登り坂だった。
道の両側には、古い商店がズラリと軒を連ねていた。
湯気を上げる素朴な汁物の屋台、藁草履を並べた履物屋、そして白い蝋燭のような形をした不思議な菓子を売る店。
石畳の坂の真ん中を、何人もの人々が黙々と登っていく。
坂の頂上に、巨大な門が聳え立っていた。
灰色の分厚い円柱が二本立ち、その上に太い横木が一本渡されている。
神社の鳥居に似た形をしていたが、木製でも石造りでもない、冷たい合成樹脂の塊だった。
横木の表面には、神社の額も、神の名を刻んだ彫刻も何ひとつ存在しなかった。
その門の向こう側に、白木と灰色のパネルを組み合わせた巨大な神殿が建っていた。
宇津木の託宣所。
思兼が下す人生の答申を、生身の市民たちに取り次ぐための場所。
建物の入り口で、人々が番号の刻まれた木片の札を静かに受け取っていた。
人々はその番号札を握りしめ、石段の脇の広場に腰を下ろして、自らの順番を待っていた。
待っているあいだ、誰一人として隣の人間と言葉を交わそうとはしなかった。
耳元の端末を通して、すでに神のお告げの音声が直接脳内に響いているのだろう。
端末を持たない私の生身の耳には、何の音も届かなかった。
◆◆◆
門の手前、参道の片隅の石垣の陰に、粗末な木製の床几を出した露店があった。
看板は掲げられていなかった。
代わりに、立てかけられた木の板に、墨でたった四文字だけが書かれていた。
〈読み上げます〉
初老の男が床几に静かに座り、一人の老人と向かい合っていた。
老人が耳元の端末を指差して二言三言を囁くと、男は両目を閉じ、しばらく沈黙し、やがてゆっくりと滑らかな口調で喋り始めた。
感情の起伏のない、極めて平坦な朗読だった。
端末に届いた文字データを、そのまま純粋な音声へと変換しているだけの読み方。
老人は、神妙な顔つきで何度も深く頷いていた。
順番を待つ客が、後ろに二人並んでいた。
老人が礼を言って立ち去った後、床几の男が私の方へと視線を向けた。
「……並ばれますか」
「何を、読み上げているんですか」
男は私の耳のあたりを一瞥した。
そして、私の耳元に何の通信インプラントも装着されていないことを確かめると、納得したような表情を浮かべた。
「思兼の託宣ですよ」
「託宣なら、個人の耳元の端末に直接届くのではないですか」
「届きますよ。上位の市民等級の方には、全文の丁寧な解説が届きます。ですが……下位の等級の端末には、都合の良い要点しか表示されませんからね」
男は手元の湯呑みを持ち上げた。
「要点だけを読まされれば、たいていは良い話に聞こえるように作られていますから。……ですが、人生の本当の全文を知りたい人間が、ここへやって来るのです。私がその隠された本文を、そのまま声にして読み上げる。一件、五十円です」
判定を下すわけでもない。
個人的な感想や助言を述べるわけでもない。
ただ機械が書いた通りの文章を、そのまま声に出して読む。
それだけで、一件五十円の生業として成立しているのだ。
◆◆◆
参道を歩く途中に、公営端末が一台設置されていた。
公営端末のガラス扉の内側で、液晶画面が黒地に鮮やかな緑色の文字を静かに灯していた。
端末の前には、誰も並んでいなかった。
港の街の裏通りにも、まったく同じ公営端末が佇んでいた。
毎日の仕事の帰り道、私が一度だけ立ち寄る場所だった。
あの六軒の谷を出発して以来、Kからの短信は一通も届いていなかった。
私たちが受信するための固定端末を、いまは何ひとつ持っていないからだ。
私は公営端末のガラス扉の前を、足を止めることなく通り過ぎた。
いまこの端末に指を触れて通信を行えば、その瞬間に私の居場所の座標が国家に記録されてしまう。
◆◆◆
託宣所の門の石段の下で、一組の母と娘が立ち止まっていた。
娘はまだ十五、六歳ほどだろうか。地味な制服のような上着を着ていた。
母親が耳元に指を当て、じっと目を閉じて端末の託宣を聞き取っていた。
聞き終えると、母親は娘の顔を静かに見つめた。
「……高等教育への進学適合率は、下位一割だって」
娘は、何も言わずに俯いていた。
「ただちに労働就業へ移行しなさい、と。……その代わり、三年以内の婚姻適合率は、上位三割だそうよ」
娘は、門の向こうに聳える巨大な託宣所の建物を、感情のない瞳で見つめていた。
母親は神殿の方へと向き直り、深々と頭を下げた。
「……ありがとうございます」
一体誰に向かって感謝の言葉を述べたのかは、誰にも分からなかった。
娘もまた、母親から少し遅れて、機械のように深々と頭を下げた。
二人は並んで石畳の坂を下りていった。
母親は途中で娘の華奢な背中にそっと手を回した。決して乱暴な手つきではなかった。
娘もまた、その母親の手を払いのけようとはしなかった。
二人の背後で、託宣所のスピーカーから次の番号が機械的に呼び出された。
◆◆◆
門の脇に連なる古い板塀に、一枚の白い紙が貼り出されていた。
まだ貼られたばかりらしく、裏側の糊が湿って生々しく濡れていた。
〈区域整理に伴う収容の実施について〉
その下には、細かい公用文がビッシリと印字されていた。
非認証者および終末期被看取者の所在申告。届出の期日。そして申告窓口の場所。
そしてその最下段に、鉛筆書きのような冷酷な一行が付け足されていた。
〈申告なき場合は、当方より伺います〉
——伺います、と丁寧な敬語で書かれていた。
力づくで奪い去る、とはどこにも書かれていなかった。
だがその文字の前を通り過ぎていく参詣者たちは、誰一人として足を止めようとはしなかった。
板塀の木肌の上には、過去に同じような布告が貼られては剥がされた跡が、三枚ぶん重なって白く残されていた。
◆◆◆
私は参道を引き返し、あの読み上げ屋の男の床几の前へと戻った。
幸い、客は途切れて床几は空いていた。
「……もうひとつ、お尋ねしてもよろしいですか」
「託宣の読み上げなら、一件五十円ですよ」
「人に道を訊くのは、おいくらですか」
男は手元の湯呑みを置き、目尻の皮膚だけをフッと優しげに緩めた。
「道案内なら、タダですよ。私の知っている範囲のことならね」
「この町で、もう手の施しようのない、死にかけの重病人はどこへ運ばれますか」
男の顔から、笑みがスッと消え去った。
だが、不快そうに顔を背けることはなかった。
「……公的な総合病院なら、あの川の向こう側の市街地にあります。ですがあそこは……まだ治療によって治る見込みのある人間だけが行く場所です」
「治らない人間は、どこへ行くのですか」
男は顎の先で、参道の下の方向を指し示した。
町の密集した屋根の連なりの向こう側に、広大な耕作地が広がり、その上の緩やかな丘の中腹に、一枚の巨大な白いコンクリートの壁が見えていた。
「……あそこですよ」
「何の建物ですか」
「町の人々は、【白い家】と呼んでいます」
男は湯呑みを再び持ち上げた。
「自分たちの教団では、【昇りの家】と呼んでいるそうです。生身の肉体はただの仮の殻にすぎないから、死に際してすべて捨て去って機械の中へ昇天せよ、と」
——肉体は、ただの殻。
あの奥山の森林軌道の水場で、焚き火の向こうから首に碍子を提げた男が吐き捨てるように語った言葉と、完全に一致していた。
あの男は、その家の正確な場所までは知らなかった。知りたくもない、と吐き捨てていた。
知りたくもないはずの忌まわしい場所が、いま、私の目の前の坂の下に実在していた。
「……私は、あそこの家の詳しい内情までは語りませんよ」
「なぜですか」
「私は、ただ文字をそのまま読み上げるのが仕事ですからね」
男はそれきり静かに目を伏せた。
男の握りしめる湯呑みの中は、すでに一滴の茶も残っておらず、完全に空っぽだった。
◆◆◆
夕暮れ時、西の空が赤く染まる頃、私は再び川の橋を渡って検問所へと戻った。
窓口の若い男に、あの木製の参詣札を返却した。
男は何も言わずに無言で受け取った。
町の中で私の生身の存在を数え上げていた一枚の紙が、世界から静かに消滅した瞬間だった。
門の前に、行き場を失った人々が吹き溜まる。
それこそが、この門前町という街の本当の姿だった。
そしてその門の前でもなく、街の内側でもない隔絶された丘の上に、あの白い建物が佇んでいた。
夕日の残照を浴びて、丘の上の白い壁が、血のように赤く濁った白に染まり上がっていた。
——死にに行く家だよ、とトメは言った。
だが私たち二人は、明石さんの失われかけた命を救うための本物の薬を求めて、今夜、その死にゆく者の家へと登ろうとしていた。




