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第66話 三人分の水

山奥の集落を歩き出して、四日間の月日が流れた。


幾重にも連なる険しい尾根を三つ越え、深い谷を二つ下りた。


私たちの進む足跡は、ずっと真西の方角を向いていた。


北の最奥部へ辿り着くために、まず真西へ向かって歩く。


明石さんが手記の紙の上に引いたあの巨大な迂回の弧の、一番外側の縁を忠実になぞっていた。


山坂を行く途中、湧き出る沢の水は汲めるうちはいくらでも汲めた。


だが——致命的な問題は、消費する水の【量】だった。


明石さんは、与平からもらった牛用の粉薬を一日にきっかり三度飲む。


薬を飲むためには、白湯を沸かす水が要る。


そして熱が上がれば全身から滝のような汗が噴き出し、汗が出れば、そのぶん体内の水分を補給するための大量の水が要る。


三日目の昼下がり、まだ日が高いうちに、二つの金属水筒を傾けてみた。


トクトクとも鳴らず、どちらの水筒の口からも、水滴ひとつ零れ落ちてこなかった。


「……計算が、根本から合わんな」


明石さんは山道脇の平らな岩の上に腰を下ろし、無事な左手で額の脂汗を乱暴に拭った。


「歩いている生身の人間は、たったの二人だ。だが……減っていく水の量は」


男は顎の先で、自らの右腕を指し示した。


藍染めの三角巾の布地に、化膿したドス黒い膿の色がジワリと滲み出していた。



「——三人分だ」



   ◆◆◆



その夜、野宿の火のそばで、薬の入った真鍮の茶筒を振ってみた。


カラカラと、前日よりも明らかに短く軽い音が鳴った。


与平の牛用の粉薬は、もう残り四回分しかなかった。


「……明石さん。四回分で、足りますか」


「足りん」


明石さんは茶筒を左手で受け取り、作業着の胴巻きの奥へ戻した。


「まったく足りん。だが……四回ぶんの薬があれば、あと丸一日は確実に歩ける。歩けるうちになんとしても次の薬を見つけ出す。……ただそれだけの話だ」


男の熱は、その夜更けに再び急激に跳ね上がった。


明石さんは濡らした手ぬぐいを額に載せたまま、木々の隙間から覗く天井のない夜空をじっと見つめ続けていた。


私は野宿の火の番をしながら、水筒を軽く振った。


残された水の量は、指二本分の深さしかなかった。


一人分の貴重な水が、この世界に飲む者のいない空白の場所へと、確実に消え去っていく。


その目に見えない三人目の存在は——あの深い藍色の三角巾の中に潜んでいた。



   ◆◆◆



四日目の昼前、私たちは鬱蒼とした山坂を完全に下りきった。


耕作された段々畑が現れた。


木製の柵が現れ、やがてアスファルトで舗装された道が現れた。


そして——私の身体の奥底が、不気味にざらつき始めた。


両の手の甲の内側に、微細な電磁律動の痺れが戻ってきていた。


両腕の前腕の骨の芯まで、その微細な振動がハッキリと届いていた。


あの白地の集落では、完全にゼロだった感覚。


トメの家で、生まれて初めて何の通信電波も届かない完璧な静寂の夜を過ごした。


あの晩、私は手記の帳面に【静けさ】と書き記した。


いま身体の奥底に戻ってきたこの感覚は、その静けさの真反対の存在であるはずだった。


だが、その反対の言葉を、私のボキャブラリーは持っていなかった。


「騒がしい」という言葉では、何かが決定的に違う。


生身の耳には、何の音も聞こえていないのだ。


激しく鳴り響いているのは、外の音ではなく、私の後頭部の奥だった。


わずか四日間で、これほど電波の薄い境界域に戻ってきただけで、私の身体はすでに大気中の電磁律動を聞き分けようと反応していた。


私は右手の手の甲を、左手でギリギリと強く握りしめた。


どれほど強く握りしめても、神経の内側を走る痺れは決して消え去らなかった。



   ◆◆◆



田舎道が集落の通りに入ると、三叉路の辻に金属製の給水栓が一本ポツンと立っていた。


銀色の円柱に、黒いガラスの丸い認証読取り面がついている。


明石さんが近寄って、眉をひそめて覗き込んだ。


「……ダイモン認証式の給水栓だな」


「水筒の水銀貨で買えないんですか」


「水すら買えん。この辺りはもう、国家の管理網の内側だぞ。……山奥の沢の水は、タダで飲み放題だったがな」


白地の山奥では、水は天から勝手に落ちてくるものだった。


だが国家の網の内側では、一杯の水を飲むことすら公的な認証手続きを要するのだ。


給水栓の真下の地面に、溢れた水が乾いて、白く丸い輪の跡となって残っていた。


誰かが、ここで喉を潤したのだ。


端末の読取り面に、正規の登録IDをかざすことのできる誰かが。



   ◆◆◆



集落の外れに、古びた雑貨店が一軒だけ店を開いていた。


日用雑貨と、米の袋と、そして家庭用薬品を並べた小さな店だった。


薬品類は棚の上には置かれず、店の奥の頑丈なアクリル窓口の脇に厳重に保管されていた。


私は店に入り、金属製の水筒をひとつ注文した。


「……現金ですか」


店番の中年の女が、無愛想に言った。


「はい、現金で払います」


「なら、二割増しの手数料になります」


女は手元の紙の帳面に数字を走り書きし、私は懐から紙幣を取り出して数えて手渡した。


紙幣という紙切れが、この四日間の山歩きの中で、初めて役に立った瞬間だった。


「……それと、化膿止めの抗生剤を売ってください」


女の手が、ピタリと止まった。


「薬は、うちの店の在庫ではありません。国家の保険窓口の通信を通します」


「窓口、ですか」


「お連れさんの、ダイモン端末を出してください」


「持っていません」


女は、私の泥だらけの顔をじっと見つめた。


そして視線を外へ向け、戸口の外の日向のベンチで、左手を膝に置いて力なく座っている明石さんの姿を見た。


「……お二人とも、端末をお持ちでないのですか」


「はい」


女は何も言わずに、手元の帳面をパタンと閉じた。


「……現金で買えるのは、水筒までです」


責めるような棘のある声ではなかった。


今日の一日の天気の挨拶をするかのような、極めて事務的で乾いた声だった。


私は外へ出て、明石さんにそのままの事実を伝えた。


明石さんは日向の光の中で私の言葉を聞いていた。


聞き終えると、男は左手をゆっくりと膝から離した。


「……俺が見せてみる」


立ち上がるのに、二度かかった。


二度目に足を踏ん張って立ち上がり、店の戸口へと歩き出した。


戸口までは、わずか十歩もない距離だった。


その十歩を、明石さんはいつもの堂々とした速さで歩いた。


そして——店の敷居の、わずか数センチ手前で、男の足がピタリと止まった。


店の奥で、女が怪訝そうに顔を上げた。


さっき女が数字を書き込んだ帳面はまだ開かれたままで、次の行の空白が、戸口の外からでもハッキリと見えていた。


待っている顔だった。何を言われるかを、すでに知っている顔でもあった。


明石さんの左手が、右腕の藍色の三角巾の上を、一度だけ軽く叩いた。


叩いてから、男の手は完全に動かなくなった。


敷居の内側は、暗い影になっていた。


そして明石さんの履き古した革靴の爪先は——日向の光の側にあった。



「……水筒だけ、売ってやってくれ」



そう短く言い残すと、明石さんは踵を返して背を向けた。


店の女は、開きかけていた帳面を、再びパタンと静かに閉じた。



   ◆◆◆



集落の裏手の登り坂を歩きながら、明石さんが低い声で言った。


「……俺の国家市民等級は、まだ生きている」


「生きているんですか」


「大学から除名されたのは、学籍と嘱託の研究ポストだけだ。国家に登録されている市民等級そのものは、まだ抹消されずに残っている。……除名の手続きをする役人が、そこまでの抹消作業の手間を惜しんだんだろうな」


「じゃあ、さっきの窓口に端末を通せば……」


「通る。完全に合法だ。国家の正しい医療手続きとして、本物の抗生剤が一瞬で手に入る」


明石さんは、坂の先を見つめたまま言った。


「だが……薬が出た瞬間に、国家の監視画面に【点】が付く」


「……点」


「白地の山奥で火傷を負った男を血眼で探している特務部隊の卓上に、『境界域の薬局で重度火傷の抗生剤の払い出しが一件発生』という警報が即座に上がる。正確な日付と、店舗の座標つきでな」


「親切すぎる地図ですね」


「そうだ」


明石さんは笑わなかった。


「薬を買うということは、自分たちの居場所を敵に売るということだ。この国は、最初からそういうシステムとして設計されている」


敷居の手前で立ち止まった、あの日向の十歩の理由を、私はそれ以上訊かなかった。


訊いたところで、返ってくる答えは世界にひとつしかなかったからだ。



   ◆◆◆



坂を登る途中で、私は集落を出立する前夜の会話を思い出していた。


明石さんが描いた地図の紙の上に、トメが節くれ立った指を置いた、あの夜。


「……北へ向かうなら、必ず宇津木(うつぎ)の土地を通ることになる」


「町ですか」


「門前町だよ。神さんの巨大な門の前に、行き場を失った人間たちが吹き溜まる町だ」


トメは指先を、町の中心部から少しだけ北の丘へとずらした。


「その丘の上に、白い家がある」


「何の施設ですか」


明石さんが尋ねると、トメは囲炉裏の火を見つめたまま短く答えた。


「……死にに行く家だよ」


それきり、トメはその話題を打ち切った。


私は手記の帳面に、【宇津木】とだけ書き記した。



   ◆◆◆



「……明石さん。トメさんが言っていた、あの白い家の話を覚えていますか」


明石さんが足を止めた。


集落の瓦屋根の向こう側に、緩やかに連なる低い丘の稜線が見えていた。


その一番手前の丘の頂に、ポツンと小さな白い点が見えていた。


夕日が西に傾き、遠くの建造物が白くくっきりと浮かび上がる時刻だった。


明石さんは、しばらくのあいだその白い点を見つめ続けた。


「……死にに行く家には、死にかけの人間たちが集まる」


「はい」


「そして、死にかけの重篤患者を看取るためには……本物の抗生剤が配給される」


「あの石上派の二人も、まったく同じことを言っていました」


森林軌道の水場で見た、あの焚き火の光景が脳裏に蘇った。


首から白い碍子を提げた男が、火の向こう側で唾を吐き捨てるように語った、あの夜。


——人間の肉体はただの殻だと説く狂信者どもの終末期施設(看取りの家)にだけは、国は定期的に本物の薬を配給し続けている。


「男たちは、その家の正確な場所までは知らなかった。だが……トメ婆さんの情報のほうが、一枚上手だったわけだな」


明石さんは再び力強く歩き出した。


「山の上の終末期施設にまで国家の薬が定期的に届いているなら……そこまでは、物資を運ぶ補給のルートが確かに生きているということだ。……人間が安全に通れる道である必要はない。薬が通るルートでありさえすれば、それで十分だ」


「その道は、正規のルートではないですね」


「当然だ。だから俺たちは、正規の道のほうへは行かん。薬のほうへ、直接乗り込む」


私たちの肩の水筒は、三つになっていた。


二人で、三人分の重い水を担ぎ上げていた。



「——薬はある」



明石さんは前を見据えたまま言った。



「あるところには、必ずある」

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