第65話 空の下
集落からの出立は、三日後と決まった。
出立の日取りを決めたのは暦の日付ではなく、過酷な現実からの逆算だった。
防衛省による工業軍用ダストの増強散布が始まる前。
与平からもらった牛用の粉薬が効いて、明石さんの熱が下がっているうち。
そして——峠の検問所の特務兵たちが、再びこの山道を捜索に上がってくる前。
三日間という猶予は、与平の粉薬が明石さんの右腕の熱を落とし、三十日間の山歩きに耐えうるだけの体力を取り戻すための、ギリギリ最短の見積もりだった。
それより早くは発てず、それより一日でも遅れれば、すべての計算が狂って手遅れになる。
「……火傷を負った男は、すでに国家から指名手配されている」
明石さんは言った。
自らの右腕に巻かれた三角巾を、まるで他人の荷物を見下ろすような冷めた目で見つめながら。
「探されている男と、追われている男の二人が、同じ谷の中に潜んでいるんだ。……兵隊が捜索するのは、人間の家だ。そしてこの谷には、家がたったの六軒しかない」
トメは、囲炉裏の火の向こう側で何も言わなかった。
私たちの旅立ちを止めようともせず、急かそうともしなかった。
どこへ向かうのか、その目的地すら一度も訊こうとはしなかった。
ただ、囲炉裏の灰を火掻き棒で静かに掻き寄せる皺だらけの手だけが、淡々と動いていた。
◆◆◆
出立までの三日間のあいだに、私たちは二人の荷物を徹底的に仕分けした。
明石さんの無事な左手が辛うじて持てる重さと、私の若い背中が担ぐべき重さを、一度すべて土間の板敷きの上に並べた。
集落の一番端の家に住む爺さまが様子を見にやってきて、私の背負い籠の荷物の結び方を無言で直してくれた。
「……重い荷物は、肩の上だ」
「はい」
「二人ぶんの荷物を一人で担ぐなら、徹底的に重心を上と背骨に引き寄せろ。腰のあたりに重みを垂れ下げると、あとで膝と関節に致命的に効いてくる」
爺さまは荷紐をガッチリと結び直すと、それだけで踵を返して自分の家へと帰っていった。
何をしに来たのか、その用件すら口にすることはなかった。
◆◆◆
出立を明日に控えた最後の夜、私は手記の帳面を開き、白紙のページを一枚だけ指先で破り取った。
二十四年の人生の中で、自分の手記の帳面から紙を破り取ったのは、これが生まれて初めてのことだった。
手記に文字を書き続けることだけが、これまでの人生で私が自らの意志で選び取った、たったひとつの行為だった。
国家の判定も、戸籍の名前も、生きるべき場所も、私は自らの意志で選べたことなど一度もなかった。
ただ手で文字を書くことだけを、自分の意志で選び、毎晩毎晩孤独に続けてきたのだ。
そのたったひとつの大切な文字を、私は今夜、初めて特定の誰かに向けて使う。
囲炉裏の赤い火の光にかざしながら、小刀で鉛筆の芯を丁寧に削り直した。
最初の一文字が、長いあいだどうしても書けなかった。
誰にも読まれないことを前提とした手記の文章ならいくらでも書き慣れているのに、特定の誰かに読まれることを前提とした一枚の手紙は、最初の一行の書き出しから激しく迷った。
土間の暗がりを見やると、私の履き古した作業靴が置かれていた。
靴紐は彼女が自分の靴から引き抜いて私に託してくれたものであり、その結び目は、彼女に教わった通りに輪を二度くぐらせて頑丈に結ばれていた。
——養母の作法に、従うことにした。
言葉は、短ければ短いほど真っ直ぐに届く。
長く書き連ねるのは、ただ自分自身の寂しさを慰めるためだけにすぎない。
本文は、きっかり三行におさめた。
署名が最後の一行を取るから、実際に書ける言葉は、わずか二行だけだった。
〈靴紐の替えは、僕が買って帰ります。
もらった紐は、まだ解けていません。
日はまた、天に昇ります。〉
——仕事の話があるから、港へ帰ってきたら連絡して。
港を離れる直前の公営端末で、彼女はそうメッセージを寄越していた。
その仕事の用件に対する返事は、何ひとつ書かなかった。
「買って帰る」と文字に書けば、それは「必ず生きて帰る」と約束したことと同じになる。
自分の名前は、直接には書かなかった。
三行目の文章そのものが、私だけの署名だった。
【日】という文字と【天】という文字を上下に重ね合わせれば、私の【昊】という名前になる。
もし途中で誰か見知らぬ人間に手紙を開かれたとしても、三行目まですべて自然な挨拶の文章に見えるはずだ。
彼女なら、必ず読める。
元編集者であるあの聡明な人なら、この三行の奥にある私の呼吸のすべてを完璧に読み解いてくれる。
それだけで、十分だった。
港の街を離れる前の夜、彼女は自らの唇を私の耳元へ寄せて囁いた。
——書き続けて。読むのは、わたしの仕事だから。
私は今夜、彼女の読むべき仕事を、確かに一枚だけ増やしたのだ。
手紙を書き終えてから、私は和紙の右端に爪を立てた。
下からスッと引き裂こうとしていた。
森林軌道の水場で覚えたあの技法を、私の指先がすでに無意識のうちに記憶していたのだ。
私はハッと息を呑み、指を止めた。
——一度でも紙を裂けば、二度と元には戻らない。
あの【墨継ぎ】の技法は、送電線の死んだ白地の山奥を「通る」ための暗号の印だ。
空白地帯に置いておけば、顔も知らぬ石上派の仲間が拾い上げて、次の誰かへと運んでいくだろう。
だが——あれは道を通るための印であって、特定の一人の人間の手元へと「届く」ための印ではない。
宛先のない白い紙が、いま何枚、どこの見知らぬ山坂を彷徨っているのだろう。
私は紙の端から指を離し、和紙を丁寧に三つに折り畳んだ。
誰にでも折れる、ごく普通の折り方で。
そして紙の裏を返し、鉛筆で宛名を書いた。
〈黄 詩文 様〉
帳場の検数の署名は、毎日のように書いてきた。
手記の記録は、毎晩のように書いてきた。
だが——特定の誰かの名前を記す宛名だけが、私の帳面のどこにも存在しなかったのだ。
書き終えてから、私はしばらくのあいだ、その懐かしい三文字の名前を見つめ続けた。
折り畳んだ手紙をトメに託すと、老女は短く頷いた。
「……月に一度の正規の運び屋は、当分この山には来んよ。だが、紙というものは人の手から手へと渡って運ばれるもんさ。……いつ街へ届くかは、わしにも分からんぞ」
「構いません」
——届くかどうか分からない手紙を出し続けることには、とっくに慣れています。
そう言いかけて、私は喉元で言葉を呑み込んだ。
慣れている、という言い方は正しくなかった。
届くかどうか分からない言葉を紙の上に刻み続けることこそが、私がこれまでの二十四年間、毎晩毎晩ひとりで繰り返してきた人生そのものだったからだ。
◆◆◆
翌朝は、霧のまったくない澄み切った朝だった。
トメは、包み紙に包まれた干し飯の塊を二つ、私たちの手元へ差し出してくれた。
包んでいるのは、深い藍色の木綿の布だった。
あの明石さんの腕を吊る三角巾を裁ち落としたときの、端切れの残り布だった。
政変の冬に割れて二度と建たない藍甕から生まれた布が、いま、明石さんの負傷した右腕と、私たちが生き延びるための二人分の飯を包んでいた。
「……牛の薬が効いとるうちに、歩けるだけの距離を稼ぎなさい」
「トメさん、本当にお世話に——」
「いいよ」
トメはそれきり、囲炉裏の火のほうへと背を向けた。
土間の戸口で、明石さんが背負い籠を肩に掛け直した。
男の右腕は、藍色の三角巾の中に深く収められていた。
「重い荷物は君が担げ。地図と方角は俺が持つ。……俺の無事な左手は、まだちゃんと生きているからな」
集落の出口の小道に、あの膝の悪い爺さまが一人で静かに立っていた。
何も言わず、ただ深く頭を下げてくれた。
私もまた、深く頭を下げた。
朝の清冽な光の中で、六つの粗末な茅葺き屋根から、細い炊事の煙が静かに立ち上っていた。
この平和な谷に、あの特務兵たちの軍靴の泥が二度と上がってこないようにと祈るべき神仏を、私は何ひとつ持っていなかった。
いまの私にできる唯一の恩返しは、この六軒の谷から一刻も早く立ち去ることだけだった。
私たちは歩き出した。
◆◆◆
急な山道を登り詰め、私たちは裏山の高い尾根の上へと出た。
東の空が、夜の白さから、生の朝焼けの色へと刻一刻と移り変わっていく時刻だった。
国家の管理網によって制御されていない、生の空の色。
都市の環境制御も、巨大な広告ホログラムも、電磁律動の濁流も何ひとつ存在しない、ただの大自然の夜明けの色。
私たちの進むべき道は、まず真西の方角へと向かっていた。
国家の中枢である通信飽和圏の巨大な円を、大きく西から迂回するために。
西へ向かって歩き出すことこそが、北の最奥部へと辿り着くための唯一の道だった。
歩きながら、私は【昊】という自分自身の名前の意味について静かに思いを巡らせていた。
日と天。——空が入っている。それだけの文字だ。
何の身分も持たず、特定の何者をも指し示さない、ただの空白の記号。
一体誰が、二十四年前のあの冬の日に私にこの名前を授けてくれたのかは、今の私には知る由もない。
だが——この広大な朝焼けの空の下においては、これほどまでに私の生身の存在を正確に言い表した名前もなかった。
背後で、六軒の集落の山並みが静かに遠ざかっていった。
そして私たちの右手の遥か奥底には、青黒い山脈が果てしなく北の方角へと連なっていた。
国家の書字検定の網は、ここまでは届かない。
知能機械の非人格判定も、ここまでは届かない。
峠の検問所は、疾うに私たちの背中の彼方へと過ぎ去っていた。
あの不気味な柏手の音も、もうどこからも聞こえてこない。
——広大な空の下で、私はいま、完全な何者でもなかった。
何者でもない身軽さのまま、私は一歩一歩、確かな足取りで大地を踏みしめて歩いた。
藍染めの布に包んだ干し飯の塊が、歩くたびに、背中の同じ場所へとコツコツと当たり続けた。
その当たっている場所だけに、作業着を通して、じんわりと温かい汗が滲み出していた。
(第四部「熱源」 完)




