第64話 北
与平の家は、峠を下りきった隣の集落の、一番奥まった谷沿いにあった。
牛の姿は、もうどこにも見当たらなかった。
がらんとした空の牛舎に足を踏み入れると、木製の飼い葉桶の上に分厚い埃が積もっていた。
桶の内側だけが、何十年ものあいだ牛の舌に舐められ続けた滑らかな曲線に擦り減っており、外側には歳月を物語る埃がそのまま残されていた。
柱を見上げると、古い木の札が三枚、錆びた釘で打ちつけられていた。
焼き鏝の黒い焦げ目で、名前が焼きつけられている。大昔に飼われていた牛たちの名前だった。
三枚だけを残して、あとの札はすべて取り外されたらしかった。外された跡の無数の釘穴が、木肌の上に規則正しく並んでいた。
壁際に、木製の古い薬品棚がひとつだけポツンと残されていた。
背負い籠の炭を差し出すと、与平という老人は無言で受け取り、私の泥だらけの顔を長いあいだじっと見つめ続けた。
「……トメの使いの若者か」
「はい」
それだけの短い言葉で、すべてが通じた。
ここでも、私の名や身元を根掘り葉掘り訊かれることはなかった。
老人は棚の奥から古い真鍮の茶筒を取り出し、その中から油紙に包まれた白い粉薬を出してくれた。
牛用の、強力な化膿止めだという。
「……湯で溶かして飲ませろ。飲ませる量は、目方の比率で割るんだ」
「目方、ですか」
「牛の体重と、人間の体重では目方がまるで違う。牛の一回ぶんの分量を、人間の体重の比率で正確に割って飲ませろ」
与平は薬品棚の扉をパタンと閉めた。
「……人間にもちゃんと効くかどうかは、牛に訊いてみな」
帰りは、トメに教わった通り、山道を使わずに深い沢の急斜面を滑り下りるようにして集落へ戻った。
峠の検問の特務兵にも、あの柏手を打つ処刑人の男にも、二度と出くわすことはなかった。
背負い籠の底の炭の粉の下で、白い粉薬の入った茶筒が、カタカタと小さな音を鳴らし続けていた。
◆◆◆
集落へ戻ると、明石さんは差し出された白い粉を白湯で溶いて一気に飲み干した。
苦味に顔をしかめる余裕が、男の表情にまだ残っていた。
「……牛になった気分だな」
峠の検問所で起きたすべての出来事を、私は粉薬の礼を聞く代わりに、ありのままに話した。
あの男に手記の帳面を開かれたこと。
そして男が二歩下がり、乾いた銃声のない二つの柏手を打ったこと。
私の話を最後まで聞き終えた明石さんは、ただ一言だけ、厳しく言い放った。
「……昊、二度とあの峠道には近づくな」
それから丸二日のあいだに、明石さんの高熱は一段、確かに下がっていった。
獣医の薬を人間に飲ませるという危険極まりない賭けに、私たちは今のところ、確実に勝ちつつあった。
三日目の朝、明石さんは藁布団の上に自力で上体を起こし、左手で白紙の上に鉛筆で線を引き始めた。
「……地図を描くぞ。手伝え」
◆◆◆
方眼のマス目の番号が、紙の上で山並みになり、険しい谷の等高線になっていった。
明石さんは、衛星データで割り出したあの熱源の観測点を、紙の右上へと慎重にプロットした。
「熱源が存在したマス目は、ここだ。山間の、完全な白地の最奥部。——方角で言えば」
明石さんは、顎の先で土壁の向こうの山並みを指し示した。
爺さまが、「生身の足で歩いて丸ひと月かかる」と証言した、あの方角。
「北だ」
北。
幾重にも連なる青い尾根の、その遥か彼方の奥底。
「……生身の足で、歩いて辿り着ける距離なんですか」
「純粋な距離だけの計算なら、行ける」
明石さんはその点と、いま私たちがいるこの六軒の谷とのあいだに、左手でひとつの巨大な円を描いた。
「だが、ここからまっすぐ最短の直線を引けば……この巨大な円の真上を横切ることになる。国家の通信飽和圏だ。その中心には、内郭都市がある。——国家の、中枢の心臓部だ」
——君はそこを歩き通すことはできない、と明石さんは言わなかった。
言わなくても、私たち二人には痛いほど分かっていた。
あの街の搬入口の三分間で、私はその恐怖を生身の神経で思い知らされていたのだ。
電磁律動の濁流が渦巻く都市の中央を、北の果てまで歩き抜くことなど絶対に不可能だった。
それ以前に、厳重を極める国家の検問網が張り巡らされている。
「この円を避けて渡るなら、こう行くしかない」
明石さんの左手が、円の外側を西から大きく迂回するようにして、長い弧を描いた。
山なみの尾根沿いに、白地の外縁をなぞるようにして、北へ。
「途方もない遠回りだ」
「どれくらいの日数がかかりますか」
「最短の直線なら、十日。……だがこの迂回ルートを歩くなら、最低でもその三倍の三十日は見ておけ。季節がまるまる一つ変わる」
十日の距離が、三十日になる。
明石さんは鉛筆を紙の上に置いた。
「それとな。この迂回線の途中は、送電線が完全に死に絶えた土地だ」
男の指先が、弧の北寄りの山あいでピタリと止まった。
「電柱が倒され、そのまま放置されている空白地帯だ。……昊、おまえが山奥で出会ったあの二人組の縄張りだな」
私は、紙の右上に打たれたあの黒い点を見つめた。
「……明石さん。その点に何かがあるという確証は、まだ何ひとつありません」
「決まってなどいない」
明石さんは、あっさりと返した。
「雪の積もらない谷があって、二十年間のあいだ、何者かが莫大な電気代の勘定を払い続けた。数字で分かっているのは、それだけだ。その場所に何が埋まっているのかは、誰にも分からん」
男は鉛筆の先で、黒い点をコツンと一度叩いた。
「統計屋として、数字の裏づけのない仮説など語りたくもない。……だが、自分たちの足で確かめに行ける唯一の糸があるなら、話は別だ」
「もし行って、何も残っていなかったらどうするんですか」
「『そこには何もなかった』という、確固たる数字が手に入るだけだ」
明石さんは紙から顔を上げた。
「俺はこれまでの人生の五年余り、その『なかった』という数字だけを泥水の中から拾い集めて生きてきたんだ」
◆◆◆
〔Kの記録〕
防衛省の内部決裁文書。日付は極めて新しい。
件名の下に、冷たい承認の文言が一行だけ印字されている。
〈北域白地一帯に対する工業軍用ダストの増強散布を承認する〉
決定理由の欄も、簡潔な一行である。
〈認証網希薄地帯における、面的観測能力の緊急補完〉
対象区域を記した別表が添えられている。
区画のコード番号が縦に幾重にも並び、そのうち三つの番号に、鉛筆による丸印がつけられている。
丸印がつけられた理由は、書類のどこにも記されていない。
決裁欄に押された朱肉の公印は、国家防衛長官のものである。
〔Kの記録 ここまで〕
◆◆◆
その夜、土間の隅に隠していた遺産回線の受信機が、小さく振動した。
緑色の表示窓に、短い文字が浮かび上がった。
〈防衛省の決裁が下りた。
北域の白地一帯に、
工業軍用ダストの増強散布。
実施は近い〉
続けて、もう一通。
〈散布の後、その土地は軍の観測の下に入る〉
それきり、表示窓の光は静かに消え去った。
差出人の署名は、今回もどこにも記されていなかった。
二通目の一行を読んだ瞬間、私の指先は公営端末のガラスの縁を、無意識のうちに強く押し込んでいた。
いくら強く押し込んでも、画面の文字は微動だにしなかった。
押しつけている自分の右手の人差し指の腹だけが、血の気を失って真っ白に変色していた。
私はその警告の文字を、手記の帳面へと正確に書き写した。
港の帳場で、貨物の検数の署名を刻んでいたときと、まったく同じ機械的な手つきだった。
あの帳場と決定的に違うのは——この手記の紙には、数字を突き合わせて確認してくれる相手が、世界のどこにも存在しないことだった。
帳面の文字を明石さんに見せると、男は長いあいだ無言で天井を見つめ続けた。
「……俺は人生の中で、『偶然』という言葉を信じるのは二度までと決めている」
明石さんは、ようやく口を開いた。
「観測された熱源の点も、北。国家が軍用ダストを撒こうとしている方角も、北だ。国家の役人どもは、俺たちが引いたこの地図の存在を知らないはずだ。知るはずのない国家が……俺たちと同じ方角から、分厚い蓋を閉め始めている」
「……間に合いますか」
「間に合わせる側の人間が、全力で走るだけの話だ」
明石さんは暗闇を見つめたまま、言葉を続けた。
「一つだけ、極めて厄介な問題がある。国家が散布しようとしている工業軍用ダストは、思兼系の通信粒子じゃない。そのダストが撒かれた帯の中に入れば……昊、おまえの耳の共鳴は一切鳴らん」
「耳が、鳴らない……ですか」
「向こうからはこちらの位置が丸見えになり、こちらからは敵の接近が一切聞こえなくなる。……潜入において、最も最悪な組み合わせだ」
囲炉裏の中で、炭がひとつ小さく爆ぜて落ちた。
明石さんは左手で、膝の上の地図を強く叩いた。
「機械のいらない生身の技術が要る。送電線の死に絶えた土地を、機械の助けなしに歩き通せる連中の技がな」
「……あの、診療所で会った二人組ですか」
「あの二人そのものでなくてもいい。あの二人が所属している連中の縄張りだ」
明石さんは、私を真っ直ぐに見据えた。
「……北の帯を抜ける用事があるなら、途中の山奥で【変電所】の場所を訊け、と言われたんだったな」
「はい、そう言われました」
「なら、その変電所とやらを訊きに行く」
そう言って、明石さんは静かに布団の上へ横になった。
「自分から頭を下げて訪ねて行けば、連中から厳しく値踏みされるだろう。……だが、野垂れ死んで敵に拾われるよりは、値踏みされるほうが百倍ましだ」
◆◆◆
夜更け、囲炉裏の火の番をしながら、私は描きかけの地図を膝の上に広げた。
北の山あいの、名前のつけられていない空白の一点。
二十年間のあいだ、何者かが莫大な電気代の勘定を払い続けた点。
段階的な段差を刻み、そして二〇四八年に忽然と熱の消え去った点。
何者かが、何かを、その奥底で育て上げていたのかもしれない場所。
南の尾根の山道で、あの皺のない上着の男(鵜飼)が口を滑らせ、慌てて呑み込んだあの二文字がある。
音としては発せられなかったので、私の耳には音の記憶としては残っていない。
残っているのは、男の唇が動いたあの口の形だけだ。
——私が見たのは、最高機密の索引ファイルの一行だけです、とあの男は言った。
見出しの言葉だけが存在し、中身の本文がどこにも存在しない言葉。
この北の点も、それとまったく同じだった。
観測された温度のデータだけが存在し、名前が存在しない。
名前のない点と、本文のない言葉。
その二つが、果たして同じひとつの実体を指し示しているのかどうか、確かめる術は今の私には何ひとつない。
ただ——もし、二〇二七年に日向澪というひとりの科学者が跡形もなく消え去った場所が、いまも国家の地図の外側に存在しているのだとすれば。
地図の外側というのは、きっと、こういう空白の点のことを言うのだ。
私は手記の帳面に、その地図を丁寧に写し取った。
その空白の点の横に、名前の代わりに、ただ方角だけを書き記した。
布団の中から、明石さんの低く静かな声が聞こえてきた。
男は眠っていなかった。
「……近道は、死んでいる。遠回りだけが、生きて辿り着ける」
囲炉裏の太い薪が、静かに崩れ落ちた。
手記の和紙の上で、いま書き記したばかりの力強い一文字が、赤い炎の色を鮮やかに映し出していた。
〈北〉




