第63話 柏手
軍靴の泥は、山の上にある私たちの集落の入り口まで、真っ直ぐに続いていた。
トメの家の戸口の前で、トメが一人、黙々と薪を割っていた。
カーン、カーンと、いつもと寸分違わぬ乾いた金属音を山あいに響かせている。
「……トメさん、兵隊が来たのか」
「来たよ」
トメは薪割りの斧を地面に置こうとはしなかった。
「六軒の家を、一軒ずつ覗いていった。残った年寄りの頭数を指折り数えて、入り口の柱に紙を一枚、貼りつけていきよったよ」
「兵たちは、どっちへ向かった」
「峠のほうへ抜けていった。集落の裏の山道へは、下りていっとらん」
柱に貼りつけられていたのは、国家治安軍の公式な布告の紙だった。
〈掃討特別実施区域。峠道の通行は、検問所における厳重な身元確認を要す〉
命令に従わなかった場合の処罰を記した細かい文言までは、読まなかった。
読まなくても、ほんの数時間前にあの干場の屋根の下で響き渡った、あの乾いた銃声の連続が、私の耳の奥底に生々しく焼きついていた。
「兵隊はな」
トメは斧の刃を、割る前の太い薪の上にコトリと置いて言った。
「……『右腕に酷い火傷を負った男を見かけなかったか』と、わしに訊いていきよったよ」
「……何と答えたんですか」
「『そんな見知らぬ男は、一人も見とらん』と答えた」
トメは次の薪を、丸太の上に真っ直ぐに立てた。
「敵への嘘は、短ければ短いほどいい」
◆◆◆
その夜、明石さんの体温は、昨日よりもさらに高く跳ね上がった。
トメが沢の水で濡らした布を男の額に載せ替えながら、低い声で言った。
「……峠を越えた先の隣の集落に、与平という老人が一人で暮らしておる。大昔、牛や馬の病気を診とった男だ」
「獣医ですか」
「正式な国家の免許があったかどうかは知らん。だが、牛馬のための古い薬品棚を、いまも納屋の奥に持っとるはずだ。人間のための正規の薬とは成分が違うが——」
「……ないよりは、百倍ましだ」
藁布団の奥底から、明石さんの掠れた声が返ってきた。
男の両目は、固く閉ざされたままだった。
「化膿した細菌を殺すための抗生物質なら……牛用だろうが人間用だろうが、分子の構造は変わらん。量さえ間違えなければ、効く。……昊、量だけは絶対に間違えるなよ」
統計屋は、自らの片腕の命をかけた過酷な賭けを、まるで他人の記録を読み上げるような乾いた声で呟いた。
トメは囲炉裏の灰を火掻き棒で均しながら、翌朝の脱出の段取りを淡々と指示した。
「行きは、正規の峠道を堂々と使え。検問を避けて藪を迂回しようとするな。不審に逃げ回った者から順番に、後ろから撃ち殺される。……だが帰りは、沢の急斜面を滑り下りてこい。背中の荷物が薬だと分かれば、兵隊に見せるわけにはいかんからな」
「検問を通るときの口実は、どうしますか」
「『与平の爺さんのところへ、炭を届けに行く』と言いなさい。背負い籠に、上等の炭を山盛りにして背負っていけ。あの峠の検問の兵隊どもは、遠い街から送り込まれてきた余所者だ。土地の老人の名前までは調べようがない」
背負い籠に黒い炭を詰める私の手元を、トメが横から厳しく見張っていた。
「大きな炭の塊を下にしなさい」
「はい」
「粉炭を上からサラサラと落として、すべての隙間を完全に埋めるんだ。籠を激しく揺すっても、カチャカチャと音が鳴らんようにする」
「音が鳴ると、どうなるんですか」
「音が鳴れば、兵隊は中身をひっくり返して検めたくなる」
私は炭を詰めた背負い籠を持ち上げ、強く上下に揺すってみた。
炭がまったく鳴らなくなるまで、上から細かい炭の粉を慎重に足し続けた。
私は作業着の胴巻きから、一枚の紙を取り出した。
関口さんが、あの港の街を出発する直前に持たせてくれた、国家の公的台帳から切り取られた空白台帳。
不慣れな左手で書き記した、私自身のものではない架空の氏名と身元。
港を出る前の晩に書いたその紙を、まさかこんな山奥の検問所で差し出すことになるとは、夢にも思っていなかった。
手記の帳面をどうするか、私は一瞬だけ迷った。
だが、あの帳面をこの集落の土間に置いていくことのほうが、私にはどうしてもできなかった。
私は帳面を丁寧に風呂敷に包み、背負い籠の一番底、炭の粉の下へと深く滑り込ませた。
◆◆◆
翌朝の峠道には、白い朝霧が川のように薄く流れていた。
検問所は、峠の頂上の手前、道幅が一番狭くくびれた場所に設置されていた。
何重もの土嚢が頑丈に積み上げられ、灰色の軍用車輌が一台、道路の半分を完全に塞ぐようにして横付けされている。
黒い戦闘服を着た若い特務兵が、二人。
そしてその奥の土嚢の陰に、さらに二人の男が佇んでいた。
記章のない灰色の服を着た、不気味な男たち。
土嚢に背中を預け、峠の霧の向こう側を無言で見つめている。
一般の兵士とは、立ち姿の重心がまるで違っていた。足音ひとつ立てずに気配を消す、特殊な訓練を受けた者の立ち方だった。
私の身体の奥底は、不気味なほど静まり返っていた。
峠のこちら側の山あいは、国家の通信網が届かない白地だ。
電磁律動のない土地において、私の肉体はただの生身の目と耳にすぎない。
銃口が私に向けて動く数ミリ秒前を、事前に警告してくれる蜘蛛の糸は、ここには何ひとつ存在しなかった。
私は背負い籠を地面に静かに下ろし、関口さんの偽名の紙を差し出した。
炭の詰まった籠は、地面に置くときもコトとも音を立てなかった。
若い兵士が、紙に書かれた偽名と、私の泥だらけの顔をじっと見比べた。
「……どこまで行く」
「峠の向こうの集落までです。頼まれた炭を届けに行きます」
「誰に届ける」
「与平さんというお爺さんです。昔、牛の病気を診ていた方です」
兵士は籠の中の炭を、鉄の棒でグサリと二度突いた。
炭の粉がパッと舞い散り、兵士は嫌そうに顔を背けた。
「……そっちの風呂敷包みも開けろ」
干し飯の包み。使い古した鉛筆。
そして、黒い表紙の手記の帳面。
兵士の手が、帳面の角に伸びかけた——その瞬間。
車の陰から、低い鼻歌が聞こえてきた。
独特の節回しを持った、低く澄んだ歌。
昨日、あの干場の黒煙の中から、風に乗って耳に届いたのと——寸分違わぬ祝詞の節だった。
灰色の軍用車輌の陰から、一人の男がゆっくりと姿を現した。
その歩き方を見た瞬間。
声を聞くよりも早く、姿を見るよりも早く、私の両足の膝の裏の筋が、石のように硬直した。
昨日、二歩下がって柏手を二つ打ち、三人の生身の人間を射殺したあの処刑人が——体温を持って、私のわずか三歩手前に立っていた。
男の細い指先が、戦闘服の襟元にそっと触れていた。
人を一人殺すごとに、乱れてもいない襟を整えていた、あの不気味な指の形のまま。
私の心臓が、ドクンと大きく一拍遅れた。
その遅れた一拍のあいだに、私は必死に自分に言い聞かせた。
——この男は、まだ私の顔を知らない。
もし私の顔と名前を知っているなら、あの南の尾根の斜面で、私はすでに撃ち殺されているはずだ。
「……知っているはずがない」という、蜘蛛の糸よりも細い仮定の上に、私はいま立っていた。
◆◆◆
男は、若い兵士の手から私の偽名の紙を受け取った。
至近距離で見ると、男の身なりは戦場の検問所とは思えないほど清潔だった。
野戦の泥の中で、襟元だけが真っ白に保たれている。
短く切り揃えられた爪。
両の手のひらは、たった今石鹸で洗い清められたかのように、清潔に白く輝いていた。
昨日の干場で、冷酷に柏手を打ち鳴らしていた、あの両手だ。
男の瞳の奥は、笑っていた。目尻の皮膚だけが、優しげに細められている。
「……炭を運んでいるのですか」
声は信じられないほど張りと艶があり、明るかった。
「はい」
「素晴らしい炭ですね。……楢の木の良い炭だ」
「……集落の婆さまが、窯で焼いた炭です」
「結構なことです」
男は私の紙を返してきた。
そこに書かれていた偽名の名前を、男は一度も口にしなかった。
そして男の視線が、風呂敷の上の黒い帳面へと静かに留まった。
「……これは、帳面ですか」
男はその帳面を、指先でヒョイと持ち上げた。
それを止める術は、私には何ひとつ残されていなかった。
男は帳面を、無造作にパッと開いた。
真ん中あたりのページ。
日頃から何度もめくっていたせいで、綴じ癖のついた最も開きやすいページだった。
どのページが開かれたのかは、私の位置からは見えなかった。
私の脳裏を、帳面に書き記してきた過去のすべての記録が、走馬灯のように駆け巡った。
養母から届いたあの短信の七行。
Kから届いた短い通信記録。
方眼のマス目に几帳面に刻んだ、年号と温度のデータ列。
そして——〈往き二日。還り二日と半日。薬棚の丸い埃の跡は、三十二〉と書いた、あの最新の行。
だが——南の尾根で、皺のない上着の男(鵜飼)が口を滑らせて呑み込んだ、あの【無間】という二文字だけは。
あの二文字だけは、私は帳面の紙の上に一度たりとも下ろしていなかった。
書かなかった過去の自分自身の慎重さに、私は生まれて初めて心の底から感謝した。
男は、帳面の文字を読んでいた。
決して急ぐことはなかった。一行一行、ゆっくりと視線を下へ滑らせていく。
それはまるで、神前で祝詞の言葉を丁寧に唱え上げるかのような、一定の静かな速度だった。
昨日、干場の砂利の上で、膝をついた男たちの顔を一人ずつ覗き込んでいたときの、あの絶対的な速度と同じだった。
私の両手は、作業着の脇で固く握りしめられ、拳を作っていた。
指を開こうとしても、筋肉が強張って二度と開くことができなかった。
白い朝霧が、土嚢の表面を静かに撫でて流れていく。
土嚢の陰にいた灰色の男たちの一人が、こちらをチラリと一瞥し、再び霧の向こうへと視線を戻した。
男が、ゆっくりと顔を上げた。
「……この文字は、あなたがご自身の手でお書きになったのですか」
「……はい」
「国家の書字検定は」
「受けたことが、ありません」
「一度も?」
「……一度も、ありません」
男はもう一度、開かれた帳面のページへと視線を落とした。
「炭を焼き、静かに山を歩いて暮らす身の上なら……それが一番よろしい」
男は帳面を、パタンと静かに閉じた。
「——いい字だ」
男は言った。
それはまるで、今日の一日の天気の話をするかのような、穏やかな世間話の声だった。
二十四年の人生のあいだ、私の書いた文字を読んできたのは、すべて国家の冷酷な知能機械の判定だけだった。
【陽性判定】。
【非人格的文字列】。
【即時棄却】。
だが——私の文字を「面白い」と言ってくれた人間が、この世界に一人いた。
「書き続けて。読むのは私の仕事だから」と言ってくれた女性が、この世界に一人いた。
そして——三人目に私の文字を「いい字だ」と褒めた人間が。
昨日、三人の生身の背中に向けて冷酷に柏手を打ち鳴らした、あの処刑人だった。
◆◆◆
男は帳面を風呂敷の上に戻し、片手だけで器用に布の端を結び直してくれた。
そして——男は、二歩、後ろへと下がった。
身体の正面を、真っ直ぐに私へと向けた。
男の両の手のひらが、胸の前にスッと掲げられた。
昨日の干場の光景が、私の網膜の裏で真っ赤に焼きついた。
一人ずつの顔を覗き込み、立ち上がり、襟元を正し、二歩下がって——
逃げ場など、どこにも存在しなかった。
通信網のないこの身体は、ただの脆弱な生身の肉体にすぎない。
膝の裏の筋肉が、再び恐怖で凍りついていた。
二度の柏手を打った。
静寂の峠に、二つの乾いた柏手の音が、高らかに鳴り響いた。
直後——あの乾いた銃声は、どこからも聞こえてこなかった。
峠を流れる冷たい朝霧の中に、二つの柏手の音だけが、音もなく吸い込まれて消え去っていった。
「……お通りください」
男は穏やかに言った。
その柏手が、一体何に向けられた儀式であったのか、私には何ひとつ理解できなかった。
私の足は、すぐには動かなかった。
膝の裏の筋が引き攣り、言うことを聞いてくれなかった。
それでも私は必死に身体を動かし、背負い籠を担ぎ直し、深く頭を下げて、軍用車輌の脇をすり抜けた。
私の背中に、男の冷たい視線の重みが、ズシリと突き刺さっていた。
その重みを感じたまま、十歩。二十歩。
私は一度たりとも、後ろを振り返ろうとはしなかった。
白い霧の立ち込める峠道の背後から、男の静かな独り言の声が、風に乗って私の耳を追ってきた。
「——惜しいな。穢れであったなら、綺麗に祓えたものを」




