第62話 軍靴の泥
六日間という時間は、あまりにも長かった。
トメと二人で、日の当たらない北側の湿った斜面へ薬草を採りに上がった。
確かに、春に採ったものと同じ種類の草は群生していた。
だが——すり潰して囲炉裏で煎じた湯の色は、春のものとはまるで違っていた。
「……時季が、完全に過ぎとるよ」
トメは苦々しげに言った。
「草にだって旬がある。旬を外れて伸びきった草は、薬効がガタ落ちになる。旬を外れたら、量で足すしかない」
私たちは煎じる草の量を二倍、三倍と増やした。
だが量をいくら足したところで、明石さんの高熱は昼過ぎになると必ず急激に跳ね上がるようになっていた。
熱が上がると、男は半日ものあいだ意識を失って昏々と眠り続けた。
そして目を覚ますたびに、男の口から発せられる言葉は、前日よりも明らかに短く、切れ切れになっていった。
四日目の夜、明石さんは自分から右腕の火傷の話をするのを完全にやめた。
痛みのことにも、熱のことにも、一切触れなくなった。
男が自分からその話題を口にしなくなったことが、私には何よりも一番深くこたえた。
◆◆◆
月に一度、国家の遷移域の外縁にある古い干場に、外の世界からの密輸物資が届く。
缶詰と、塩と、調理用の油。
この山奥の六軒の集落の暦は、その月に一度の受け渡しの日を軸にして回っていた。
前回の受け渡しが行われた日は、私がまだこの山を離れて遠い港の街へ向かう前のことだった。
今回の荷物の受け取り当番は、集落の一番端の家に住む爺さまだった。
だが爺さまは膝をひどく悪くしており、重い荷物を背負って山坂を往復することは難しい。
「……僕が代わりに行ってきます」
私が手を挙げると、トメは囲炉裏の火を見つめながら少しの間考え込み、やがて小さく頷いた。
「爺さまと二人で行きな。抜け道を知っとるのは爺さまだが、重い荷を担ぐのはあんたの若い肩だ」
そして、トメは低い声で付け足した。
「……受け渡しの男たちに、薬のことを訊いてみな。あの連中は、缶詰だけを扱っとるわけじゃない」
抗生物質。
山越えの密輸ルートは、食料だけでなく、時に街の闇医療の薬品も運ぶことがある。
望みと呼ぶには、あまりにも細すぎる一本の糸だった。
四日間歩き通した奥山の廃診療所は、完全に空っぽだった。
いま私たちの手元に残されている唯一の糸は、この月に一度の運び屋たちだけだったのだ。
◆◆◆
爺さまは、悪くした膝を引きずりながらも、私よりもずっと確かで無駄のない足取りで山道を歩いた。
急な斜面を登るときも、歩幅を広げずに一定に保ち、その代わり足を踏み出す歩数だけを細かく刻んでいく。
「……荷は、できるだけ上の方へ寄せて結べ」
山道を行く途中で、爺さまが教えてくれた。
「腰のあたりに重い荷物を載せると、膝が重みに耐えきれんで砕ける。肩の真上へ引き寄せて、背骨の真上で垂直に立てるように縛るんだ。重い重心が上にあるほうが、膝の関節はずっと楽になる」
「重心が上にあるほうが、楽なんですか」
「重心が、生身の体の中心線にピタリと乗るからな。……山坂で転び落ちるときは、たいてい荷物の重心が後ろへ垂れ下がっているときだ」
遷移域の外縁へと近づくにつれて、私の身体の奥底に、あの懐かしい薄いざらつきが戻ってきた。
大気中の電磁律動だ。国家の管理されたインフラ網が、すぐそこまで迫っている。
私の両腕の前腕の骨の芯が、細かく痺れて震え始めた。
——神経が、国家の領域へ戻ってきたことを感知している。
だが、私はその感覚を歓迎しなかった。
◆◆◆
受け渡しの現場は、旧県道沿いに佇む古い干場だった。
政変の前、この山で茶葉を栽培していた頃の集荷場の跡地で、壁のない木造の屋根だけの建物だった。
トタン屋根の下に、茶葉を乾燥させるための細い木の桟が、幾列も並んで残っている。
大昔に茶葉を広げていたその桟の上に、いまは密輸の缶詰の木箱を並べるのだと、爺さまが道すがら語っていた。
配る順番も厳格に決まっている。
まず缶詰の箱を配り、次に塩の袋を渡し、最後に油の一升瓶を渡す。
油は最も重いため、運び手の残された筋力に応じてその場で配分量が決められるのだ。
その干場の手前の雑木林の斜面で、先を歩いていた爺さまがスッと片手を上げた。
焦げ臭い煙の匂いが、風に乗って鼻を突いた。
薪を燃やす自然な煙の匂いではなかった。
ガソリンの油と、焼けたゴムと、そして食料が炭になる嫌な匂いが混ざり合っていた。
私たちは雑木林の茂みの陰に伏せ、干場を見下ろした。
干場の屋根の下で、黒い炎が立ち上っていた。
積み上げられていたはずの缶詰の山が無残に蹴散らされ、小麦粉の袋が軍用ナイフで引き裂かれ、茶葉の乾燥棚の桟がへし折られて火の中に放り込まれていた。
灰色の軍用車輌が二台。
黒い戦闘服に身を包んだ完全武装の特務兵が、六人。
そして屋根の外の砂利の上に、三人の男たちが泥だらけになって膝をつかされていた。
背中に回された両手を、太い結束バンドで固く縛り上げられている。
兵士たちの列から一人だけ離れ、ゆっくりと砂利を踏みしめて歩く男がいた。
その歩き方を見た瞬間、私の全身の血が凍りついた。
——あの男だ。
あの南の尾根で、重機関銃の着弾痕の前に立ち、焦げた木の葉を捧げていた、あの不気味な男。
距離は、二百メートルも離れていなかった。
風が、男の発する声の切れ端を、微かに私たちの耳へと運んできた。
低く、独特の抑揚を持った、歌うような節回しの声。
——祝詞だ。
男は、地面に跪かされた三人の男たちの前を、等間隔の歩幅でゆっくりと歩いた。
一人ずつの顔を覗き込むようにして、腰を深々と屈める。
そして立ち上がり、きっかり二歩だけ後ろへと下がった。
両の手のひらを、胸の前に静かに合わせた。
——見るな、と私の理性のどこかが叫んだ。
——見ておけ、と記録屋としての私の本能が命じた。
男は、一人目の男の前で足を止めた。
腰を屈め、泥にまみれた男の顔を至近距離から覗き込んだ。何かを囁いたが、その声はここまでは届かなかった。
立ち上がった。
黒い戦闘服の襟元に細い指先を当て、静かに襟を正した。
二歩、後ろへ下がる。
二度の柏手を打った。
静まり返った山あいに、二つの乾いた柏手の音が響き渡った。
直後、重く短い銃声が一つ。
一人目の男が、前へのめるようにして地面に倒れ伏した。
男の身体が砂利の上を自分の肩幅ぶんだけ滑り、動かなくなった。
柏手を打った男は、倒れた肉体の前で静かに目を伏せた。
そして、再び自らの襟元に指を触れた。
乱れてもいない襟を、寸分違わぬ指の動きで、もう一度丁寧に整え直す。
男は二人目の男の前へと歩を進めた。
急ぐ気配はどこにもなかった。一歩の歩幅すら完全に同じだった。
隣の爺さまの節くれ立った手が、私の右腕の筋肉を痛いほど強く締め上げた。
ただその指の万力のような力だけで、「絶対に動くな」と命じていた。
男は二人目の男の前でも腰を屈めた。
全く同じ距離を保ち、全く同じ秒数だけ顔を覗き込む。
私の唇は固く引き結ばれ、二度と開くことができなかった。奥歯の裏側が、砂を噛んだようにカラカラに乾いていた。
二度の柏手を打った。
柏手が、二つ。
乾いた銃声。
二人目の男が、砂利の上に崩れ落ちた。
男は倒れた遺体の脇を、歩幅を一切乱すことなく跨ぎ越えた。
風が、再び男の声を運んできた。
今度は歌うような祝詞ではなかった。張り詰めた、恐ろしいほど明るく澄んだ声だった。
「——祓い、清め——」
三人目の男が、絶望に顔を跳ね上げた。
縛られた後ろ手のまま、膝を砂利に擦りつけて必死に身体を捩じらせた。
男は全く同じ歩幅で、三人目の男の正面に立った。
腰を屈め、覗き込んだ。その観察の秒数は、一人目とも二人目とも一秒の狂いもなかった。
立ち上がり、襟を直し、二歩下がる。
三人目の瞬間、私はたまらず両目を固く閉じた。
草むらを握りしめる自らの指先が見えなくなっただけで、耳に届く音の輪郭は何ひとつ遠くならなかった。
二度の柏手を打った。
二つの柏手。
乾いた銃声。
私の掌の下で、握りしめていた野草の根が、音を立てて千切れ飛んだ。
◆◆◆
港の街でなら。
港の街の監視網の真下でなら、敵の殺意はシステムの大規模な計算の律動となって事前に感知できる。
引き金が引かれるよりも数ミリ秒早く、私の身体の奥底が警報のように激しく震え出すはずだった。
この場所でも、電磁律動は確かに戻っていた。
国家の遷移域の端だ。見えない蜘蛛の糸が一本、確かに私の皮膚まで届いていた。
だが——その糸は、何ひとつの警告も私に発してはくれなかった。
激しく震えていたのは、恐怖に痙攣する私の腹の底だけだった。
生身の人間が、生身の人間を撃ち殺すとき——機械の計算など、最初から何ひとつ必要とされないのだ。
二百メートル先で三人の命が機械のように処理されるあいだ、私は斜面の草を握りしめ、ただ響き渡る音の数を数えていることしかできなかった。
◆◆◆
爺さまが、私の袖を無言で強く引いた。
私たちは斜面の藪を、足音ひとつ立てずに慎重に後退した。
旧道の合流点が見下ろせる尾根まで戻ってきたとき、爺さまが再び立ち止まった。
二股に分かれる合流点の車道に、灰色の軍用車輌が二台、横向きに道を塞ぐようにして停められていた。
完全な道路封鎖の布陣だった。
国家の検問所が、山道へのすべての交通を遮断していた。
月に一度の、外の世界と集落を結ぶ唯一の道が、完全に閉ざされたのだ。
集落へと続く帰りの険しい山道で、爺さまは一度だけ重い口を開いた。
「……あれは、いつも缶詰を運んでくれとった男たちだ」
「……お知り合いだったんですか」
「わしらの飯を、二十年間ずっと山の上まで運んでくれとった連中だよ」
爺さまは、歩みを止めようとはしなかった。
「顔はよく知っとる。だが……名前は知らん。……一度も訊かんかったからな」
それきり、爺さまは固く口を閉ざした。
明石さんの腕を救うための薬の糸は、完全に切れた。
そして、この山奥の六軒の人間が生きていくための飯の糸も、完全に断ち切られたのだ。
切れた糸の遥か彼方で、黒煙を上げる干場の炎が、静かに山を焦がしていた。
◆◆◆
集落を囲む裏山の尾根が見え始めた頃には、西の空に完全に日が沈みかけていた。
前を行く爺さまが、先にその異変に気づいた。
爺さまの足が、ピタリと止まった。
山道の、雨上がりの湿った黒土の上。
私たちが今朝、集落を出発するときにつけたものではない、真新しい足跡が刻まれていた。
深く土を抉る、規則正しい格子の刻み目。
軍用の、編み上げの重いコンバットブーツの足跡だった。
それも、一人や二人ではない。複数の人間が列をなして歩いた跡。
その無数の足跡は、すべて——山の上にある私たちの集落へ向かう上りの方角に向けて、クッキリと刻まれていた。
——集落へと続く山道に、軍靴の泥。




