第61話 手首まで
帰りの荷物は、行きよりもずっと軽かった。
行きは、布包みの干し飯と水筒と、そして薬瓶を詰めるための空っぽの麻袋を一つ持っていった。
その空の麻袋は、中身が空っぽのまま、再び私の肩に担がれて山道を帰ることになった。
森林軌道跡を下りきり、三つ目の沢の手前まで戻ってきたとき、私の足はピタリと止まった。
昨夜のあいだに、上流の山で激しい雨が降ったらしかった。
三つ目の沢の水が、赤茶色に濁って大きく膨れ上がっていたのだ。
水底の飛び石の頭が、濁流の中に完全に隠れてしまっている。
水深は膝の上あたりまでに見える、と生身の眼は告げていた。
だが——濁った水面は、底の本当の深さを狡猾に隠すものなのだ。
それはトメに教わった知識ではなかった。
港の帳場で、重いコンテナを船から降ろす前に、濁った運河の水面をじっと覗き込む癖のあった老工夫が、よく私に言い聞かせていたことだった。
私は上流の方角へと向かった。
増水を避けて山を大きく回り道をしたせいで、丸半日の時間を余計に費やすことになった。
その失われた半日は、病床の明石さんの命の半日でもあった。
山坂を歩きながら、私はその時間の勘定を頭の中で計算すまいとした。
計算すまいとすればするほど、私の脳裏には失われた秒数が痛烈に浮かび上がってきた。
◆◆◆
集落の裏手の炭焼きの山道へと戻ったのは、山あいに完全に日が沈みきった後だった。
三つ目の窯の跡の平らな石の上に、私は一度だけ腰を下ろした。
背負い袋を下ろすと、布の口がパカリと開いた。
中を覗き込んでも、干し飯の残り屑と、空の水筒と、手記の帳面しか入っていなかった。
私はその開いた袋の口を、しばらくのあいだ無言で見つめ続けた。
袋というものは、中に物を入れるために作られた道具だ。
中に満たすべき物がないとき、袋は本来の袋の形を保つことができない。
私は立ち上がり、肩紐を担ぎ直した。
中身の入っていない軽すぎる荷物は、重い荷物よりもずっと深く、私の両肩の骨に食い込んできた。
◆◆◆
トメの家の引き戸を開けると、土間に薬草の煎じ汁の匂いが漂っていた。
だが——その匂いは、驚くほど薄かった。
トメが囲炉裏の傍らにしゃがみ込み、木のお椀に湯を注いでいるところだった。
椀に注がれている薬湯の色は、私が出発したときよりもずっと薄く、ほとんど白湯と変わらない色をしていた。
土間の梁を見上げると、あれほど大切に吊るされていた乾燥薬草の束は完全に消え去り、結んでいた麻紐だけが空しくぶら下がっていた。
「……薬草は、全部使い果たしたんですか」
「終わったよ」
トメは湯気の立つお椀を、奥の藁布団の枕元へと運んだ。
「今朝、残った最後の繊維を煎じた。……ただの二番煎じの出がらしだよ」
明石さんは、布団の上で上体を起こしていた。
上体を起こしていられるのは、決して熱が下がったからではなかった。
男の座り方には、何の力も入っていなかった。土壁に背中を預け、崩れ落ちるのを辛うじて堪えている。
首から吊るされた深い藍色の三角巾の端から覗く、男の右腕の手首を見て、私は息を呑んだ。
火傷の赤黒い炎症が、手首の関節のすぐ手前まで、無残に広がっていたのだ。
私が出発した朝には、まだ肘の下のあたりで辛うじて止まっていたはずだった。
男の衰弱しきった顔を見つめ、私は言葉を失って立ち尽くした。
「……手ぶらか、昊」
「はい」
「……そうか」
明石さんは差し出されたお椀を受け取った。
無事な左手だけで受け取り、両手で包み込むことはできなかった。
一口すすり、男は苦々しそうに顔をしかめた。
「……薄いな、婆さん」
「薄いよ」
トメは否定しなかった。
「……トメさん、腕の様子は」
私が恐る恐る尋ねると、トメは囲炉裏の灰を火掻き棒で静かに均した。
「薬草の湿布が切れた翌朝から、水ぶくれの奥の膿の色がドス黒く変わった。熱も、夜のあいだ中ずっと引かんようになったよ」
——膿が骨の髄に届く前なら、まだ間に合う。だが骨まで届いてしまってからじゃ、腕を肩から丸ごと落とすしかなくなる。
出発する前の晩に聞いた、トメのあの冷酷な警告の声が、私の耳の奥に蘇った。
二日歩いた廃診療所に、本物の薬は存在しなかった。
そして、この集落の最後の命綱だった薬草も、完全に尽き果てていたのだ。
◆◆◆
私は囲炉裏の火の前に座り、山奥で見てきたことのすべてを報告した。
廃墟と化していた旧営林詰所の建物のこと。
壁一面の薬品棚に、丸いボトルの埃の跡だけが、上から十二、十二、八と空しく並んでいたこと。
二年前の春に「区域整理」という名目で、国家の役人が乗り込んできてすべての薬を運び出していったこと。
明石さんは、お椀を膝の上に置いたまま、私の言葉を静かに聞いていた。
「……『畳まれた』という言葉を、その男たちは使ったか」
「はい。区域の整理だと聞かされました」
「整理、な」
明石さんの瞳の奥が、一度だけ微かに動いた。
「国家は、管理網の外縁にある設備を、順番に畳んで切り捨てているんだ。畳まれた場所には、二度と国家の物資は届かん。……トメ婆さんの言っていた古い噂は、何ひとつ嘘じゃなかったんだな」
「はい」
「噂のほうが、完全な真実だった。あの診療所の棚には、確かに本物の抗生剤があったんだ。あったものが……たったの二年前に、国家によって運び出されてしまった」
そうやって論理的に突きつけられて、私は初めて、腹の底が冷え切るような恐怖を味わった。
——もし、私たちがこの山へ逃げてくるのが、あと一年早かったなら。
あの棚の上には、明石さんの右腕を救うための本物の薬瓶が、確かに並んでいたはずだったのだ。
◆◆◆
私は、診療所の裏手で出会った二人の男たちのことを話した。
泥を塗って丸半日かけて焼き倒された、あの給電柱のこと。
倒すための火ではなく、国家に手続きを遅らせるための「見せるための火」であったこと。
世間から〈石上派〉と呼ばれ、昔電線を張る仕事をしていた男が、いま自ら電線を切り落として生きていること。
明石さんは、途中で一度も口を挟むことなく、私の話を最後までじっと聞き届けた。
話し終えると、男は一つだけ尋ねてきた。
「……その連中は、どこの道を通ってあの山奥へ出入りしていた」
「森林軌道の跡です。それから、送電線が完全に死に絶えた土地の空白を伝って歩いていると言っていました」
「なるほどな」
明石さんは煤けた天井を見上げた。
「監視網を完全に回避する裏の抜け道を、生身の肉体で知り尽くしている連中だ。……昊、そのことを頭の片隅に深く覚えておけ」
「覚えておく、というのは」
「いつか必ず、その情報が必要になる時が来る、という意味だ。いま目の前ですぐに使えない情報でも、決して捨てずに手元に残しておくのが、本物の記録屋の仕事だ」
明石さんはそれきり、石上派の話を打ち切った。
◆◆◆
診療所から運び出された薬の行き先について話すと、明石さんは白い眉のあたりをピクリと動かした。
「……人間の肉体はただの殻、か」
「信者の意識が機械の中へ昇天すれば、魂は永遠に死なないと説いているそうです」
「国家の公式見解は」
「そんな技術は科学的に不可能だと公表しているそうです。ですが不可能だと否定しておきながら、その終末期施設(看取りの家)にだけは、定期的に本物の薬を配給し続けていると」
明石さんは、長い沈黙に落ちた。
「……国家が『絶対に不可能だ』と公式に否定している技術を、狂信的に信じ込んでいる連中がいる、か」
明石さんは、お椀の底に残った出がらしの薬湯を一気に飲み干した。
「国家の言う公式見解が、本当に科学的な真実であるかどうかは……またまったく別の話だがな」
トメが囲炉裏の火に、新しい太い薪を一本くべた。
小さく爆ぜた火の粉の音で、その場の会話はすべて終わった。
◆◆◆
夜更け、手記の帳面を開く前に、私は作業着の胴巻きから一枚の和紙を取り出した。
森林軌道の水場で、あの碍子の男が目の前で封じてくれた、あの白い紙。
私はその紙を、布団の明石さんの枕元へと差し出した。
「……和紙の端を細く切り裂いて紐を作り、筒に巻いてその紐で胴を括ります。そして結び目の上から、木炭で一本の直線を引くんです」
「暗号の印か」
「『通る』という合図の印だそうです。彼らはこれを【墨継ぎ】と呼んでいました」
明石さんは無事な左手で紙を受け取り、結び目の墨の線を凝視した。
「紐の上を、一本の直線が滑らかに渡っているな」
「紐の下の和紙には、墨がつきません。一度でも封を解けば、本体の直線がそこでプツンと切れてしまいます」
「もう一度巻き直して元に戻せば」
「元と寸分違わぬ太さに巻かない限り、墨の線は二度と一本には繋がりません」
明石さんはその紙を自らの膝の上に置いた。
「……昊、帳面から白紙を一枚破いてくれ」
私は帳面から綺麗なページを一枚破り取り、明石さんに手渡した。
明石さんは左手の指先で紙を膝の上に押しつけ、端をつまんで引き裂こうとした。
だが——紙を綺麗に真っ直ぐ裂くためには、一方の手で紙をしっかりと固定し、もう一方の手で均一な力で引っ張らなければならない。
動かない膝の上では紙の滑りを止めることはできても、引き裂く方向を真っ直ぐに制御することは不可能だった。
明石さんは三度挑戦したが、三度とも紙は斜めにビリビリと無惨に破れてしまった。
男は破れた紙を、私の手元へと静かに押し戻した。
「……おまえがやってみろ」
私は紙の端に爪を立て、下からスッと真っ直ぐに引き裂いた。上端を数センチだけ残す。
筒状に丸め、左手の指三本と半分を当てて巻きの太さを測る。
紐を巻きつけ、囲炉裏の消し炭で、紐の上から本体へと一本の直線をスーッと引いた。
そして結びを解き、もう一度巻き直した。
——墨の直線が、一本の完璧な線となって滑らかに継がった。
明石さんは、その繋がった墨の線を、しばらくのあいだ無言で見つめ続けていた。
「……両手のある人間のための、道具だな」
男の呟きには、湿っぽい感傷は一切含まれていなかった。
極限まで乾いていた。
統計屋として、自らに課せられた過酷な身体の現実を、ただ淡々と受け止めている乾き方だった。
◆◆◆
トメと交代して囲炉裏の火の番に就いてから、私は手記の帳面を開いた。
——感想は書くな、とあの人に教えられている。
だから私は、手記の上にただ数字の事実だけを淡々と書き記した。
〈往き二日。
還り二日と半日。
薬棚の丸い埃の跡は、三十二。
抗生物質、なし。〉
書き終えてから、私は鉛筆を静かに置いた。
峠の向こうからの、月に一度の買い出しの日まで——あと六日間の夜が残されていた。




