第59話 二度目の線
答えたのは、その場ではなかった。
首から白い碍子を提げた男は、私が落とした失敗作の和紙を黙って自分の胴巻きの奥へと滑り込ませ、足元の重い銅線の束を肩に担ぎ上げると、顎で森林軌道の下流の方向を無言で指し示しただけだった。
水場へ向けて山坂を下るあいだ、三人ともただの一言も言葉を発しなかった。
◆◆◆
水場は、森林軌道が深い沢を跨ぐ鉄橋の跡地の手前にあった。
苔むした巨大な岩の割れ目から、澄んだ冷水が絶え間なく湧き出し、下の岩盤に天然の深い水溜まりを作っていた。
両手で水を掬い上げると、指の骨の芯まで痛くなるほど冷たかった。
若い男が周囲の森から手際よく枯れ枝を集めて薪を組み、年長の男が腰の袋から乾いた麻の茎を取り出した。
平らな川原石の上に麻の茎を載せ、別の硬い石でリズミカルに叩いていく。
茎の繊維がほぐれ、まるで純白の綿花のように柔らかく毛羽立っていった。
「……火口だ」
年長の男が低く言った。
「マッチやライターを、街で買えば手っ取り早いのに」
私が思わず口にすると、男は石を叩く手を止めずに答えた。
「店で買う物は、街の流通を通る。街の流通は、国家の監視網を通る」
男は麻の綿を平らな石の中央に置いた。
「網を通らん物だけで生きていくと腹を括れば……火を起こす道具から、すべて自分の手で作ることになる」
火打ち石を打ち鳴らすと、三度目の鋭い火花で、麻の火口に赤い火種が静かに宿った。
鉄鍋に沢の水を張り、干した粟の粒と、細かく切り裂いた獣の干し肉を放り込む。
若い男が、自分の分だけでなく、私の分のお椀まで無言で差し出してくれた。
お椀を出しておきながら、男は最後まで私と目を合わせようとはしなかった。
◆◆◆
粟の粥が煮えるあいだに、年長の男は、私のあの失敗作の紙を膝の上に広げた。
紙を開こうとはせず、紐の結び目のズレた墨の直線をじっと見つめている。
「……どこで、これを見た」
「昨日、森林軌道を登ってくる途中です。倒れた給電柱の腕木の先端に、結びつけられていました」
「柱の根元は、どうなっていた」
「真ん丸い輪の形に、黒く焼き焦げていました」
年長の男は、深く沈黙した。
「……あんた、あの腕木の紙の封を開けたな」
「開けました」
「結び目の紐は、どうなった」
「湿気で固く締まっていて、解けずに千切れてしまいました。自分で括り直してみましたが……元通りにはなりませんでした」
「元通りになんざ、なるわけがない」
男は、紙の紐を指の腹でグッと押さえた。
「この紐は、紙の端を直接切り裂いて作ってある。裂かれた繊維の縁は、世界でその一枚の紙にしか絶対に合わん。よそから持ってきた別の紐を継ぎ足したところで、繊維を合わせりゃ一瞬で見破られる」
「……中身の紙は、完全な白紙でした」
「山雨で、文字が流れたんだ」
「では……私が封を開けたところで、何の問題もないのでは」
「大問題だ。中身が白紙だろうと何だろうと、一度でも封が切られていれば、敵に読まれたものとして扱うのが鉄の掟だ」
鍋から立ち上る白い湯気が、二人のあいだを静かに通り抜けていった。
「……すみませんでした」
「謝る相手が違う」
年長の男は、焚き火の薪の位置を火掻き棒で直した。
「あの通信路を命がけで使っている仲間に謝れ。……もっとも、それが誰なのかは絶対に教えんがな」
◆◆◆
年長の男は、自らの胴巻きから白紙の和紙を一枚取り出した。
右端を下から途中までスッと切り裂き、上端を残して一本の紐を作る。
筒状に丸め、その自前の紐で胴をきつく括る。
そして焚き火の縁から拾い上げた真っ黒な木炭で、紐の上を横切るようにして一本の黒い直線を引いた。
墨の線は、紐の上を滑らかに通り抜け、本体の和紙の上へと真っ直ぐに繋がっていった。
「……これが、俺たちの封だ。【墨継ぎ(すみつぎ)】と呼んでいる」
「墨継ぎ……」
「紐の下の紙は、真っ白なままだ。結びを解けば、本体の直線がそこでプツンと途切れる」
男は、その巻いた紙を私の手元へと差し出した。
「元に戻すには、元と寸分違わぬ太さに紙を巻き直して、寸分違わぬ位置に紐を重ね合わせなきゃならん。墨の線が一本に繋がって見えれば、途中で誰も封を開けていない証拠になる」
「その正しい巻きの太さは、どうやって決めるんですか」
「指を当てて測るんだ。俺の太さは、指三本と半分。あっちの若いのは、指四本だ」
「それは、誰かから教わるんですか」
「教わるもんじゃない。毎日毎日紙を巻いているうちに、その人間の生身の手が勝手に決めるんだ」
男の曲がった指先が、紐の上で止まった。
「他人の太さは、どれほど真似ようとしても絶対に合わん。……紙の巻き方を見れば、その封を結んだ人間の【手の育ち】まで手に取るように見えるのさ」
——育ちの癖は、挙動に残る。
昨夜、山奥の囲炉裏の端で、明石さんが語ったあの言葉が脳裏に蘇った。
「……あの腕木の紙は、何かの合図だったんですか」
「通る、という印だ」
若い男が、鍋をかき混ぜながら横から口を挟んだ。
「石上の衆の通り道だ、ってハッキリ言ってやりゃいいだろ!」
「余計なことを言うな」
「言わなくたって、どうせ麓の集落に行きゃ誰だって知ってることだろ!」
年長の男は若い男を無視し、私の方へと静かに向き直った。
「……世間からは、石上派と呼ばれている。俺たちが自分でそう名乗ったわけじゃない」
「では、誰がそう名付けたんですか」
「役所の公文書だ。俺たちを危険分子として取り締まる警察の書類に、そう書いてあるらしい」
男は焚き火に手をかざした。
「大昔、国家の機械に負けて滅び去った古代の豪族があるそうだ。その氏族が武器を納めていた蔵の名だとよ。……まあ、機械に負けた蔵の名で呼ばれるのは、俺たちにとっちゃ決して悪い気分じゃない」
負けた氏族の、蔵。
私は何も言えず、ただ静かに燃える赤い炎を見つめていた。
◆◆◆
「……あんた、連れが腕に酷い火傷を負っていると言ったな」
「はい」
「二人の市民等級は、どのランクだ」
「二人とも、国家の窓口には通れません。完全に弾かれています」
「そうか」
男は、煮上がった熱い粥をお椀に注いで私に手渡した。
「俺は昔、山の上に電線を張る仕事をしていた」
粟の粥は薄味だったが、干し肉の塩気がしっかりと染み渡っていた。
「送配電の保線工だ。この深い山奥の工事にも何度も入った。昨日あんたが見たあの給電柱も、おそらく大昔に俺の班が建てたものだ」
「あの柱を、ご自身の手で……」
「自分で建てた柱を、いま、自分の手で焼き倒しているのさ」
男は自らの右手を焚き火の光に翳した。
人差し指と中指の二本が、無惨に折れ曲がったまま太く固まっている。
「どうしてこんな指になったかは、訊くな。大して面白い話でもない」
「はい」
「白地が国家から切り離されたとき、この山への送電が真っ先に止められた。電気が流れなくなれば、保線工なんざ一匹も要らん。要らん人間たちの等級は、ゴミのように一気に落とされる」
「昔は電線を張っていた男が、いまは電線を切り落として銅を売って暮らしてるってわけだ」
若い男が吐き捨てるように言った。
「……だが、紙の上では、俺たちは線を継ぎ直している」
年長の男が静かに返した。
若い男が、太い枯れ枝を乱暴に火の中へ放り込んだ。
「全部、あの機械が決めたんだ!」
若い男の声が荒げられた。
「どの送電線を残して、どの集落を切り捨てるか。誰を社会に残して、誰を山奥へ追放するか。全部、思兼の機械が冷酷に計算して、役所の人間どもはただその答えにハンコを押しただけなんだよ!」
「若いのは、すぐにこうして熱くなる」
年長の男が穏やかに言った。
「熱くなって何が悪いんだよ!」
「まあ、それもそうだな」
年長の男は若い男を否定しなかった。
「……すべてを機械に委ねた人間側が悪い、と説く奴らもいる。機械に判断を委ねた瞬間から、人間はただの飼い慣らされた家畜に成り下がったんだ、とな。……だが俺は、そこまで大層な思想は語らん。俺にはまだ、こうして電線を切る生身の手が残っているから、切っているだけだ」
◆◆◆
「……あの、給電柱の焼けた輪のことですが」
私が切り出すと、男は「言ってみろ」と促した。
「ただ柱を倒すだけなら、鉄の鋸を使えば十分です」
年長の男の、お椀を持つ手がピタリと止まった。
「あの火は、ただ柱を倒すためのものではないと思いました」
「じゃあ、何のための火だ」
「国家の役人に見せるための火です」
男は、じっと私の目を見つめた。
若い男もまた、驚いたようにこちらを振り向いた。
「……大当たりだ」
年長の男が、低く笑った。
「鋸でスッパリ切り倒せば、ただの自然倒木や事故に見える。だが泥を塗って輪の形に綺麗に焼き倒せば、そこに『火を操る生身の人間が存在する』という動かぬ証拠になる。現場を点検に来た復旧班の役人は、その場で修理することを恐れ、指示を仰ぐために一度本省へ引き返さなきゃならなくなる」
「修理が、一日遅れますね」
「一日どころの話じゃない。役所の中で稟議の書類が何重にも回り、決裁が下りるまでに何ヶ月もかかる」
「泥を塗ったのも、そのためですか」
「泥を塗らなきゃ、火の幅を綺麗に揃えられん。一本の柱を芯まで炭にするには丸半日かかる。その場に人間が半日留まっていたという時間そのものが、国家への無言の圧力になるんだ」
「遅らせて、一体何になるんですか」
「その区画一帯が、『役所が修理に来ない空白の土地』になるのさ。……役人が来ない土地は、俺たち人間が自由に使える土地になる」
男はお椀を地面に置いた。
「火は、人間にとって最高の道具だ。人を焼き殺すために兵器を使う奴らもいるが……俺たちは、国家の書類手続きを遅らせるために火を使うのさ」
◆◆◆
粥を食べ終えてから、私たちは薬の話へと戻った。
「……診療所に薬がないとすれば、この山奥のどこを探せばいいんですか」
「ここらの一帯には、もう薬の瓶ひとつ残っとらんよ」
年長の男が言った。
「薬の棚は、国が全部回収していった」
「回収された薬は、どこへ運ばれたんですか」
「持って行かれた先なら、ひとつだけ知っている。……人間の肉体はただの仮の殻だと抜かす、狂信者どもの家だ」
「殻……」
「生身の身体はただの汚れた殻で、死ねば中身の意識だけが国家の機械の基盤へ昇って永遠に生き続けるんだとよ。機械の中へ昇天できれば、魂は二度と死なんのだそうだ」
若い男が、フンと鼻を鳴らした。
「機械の腹の中へ自分から入りたがる連中だぞ。頭が湧いてる」
「国は、そんな非科学的なことは絶対に不可能だと否定している」
年長の男が続けた。
「不可能だと否定しておきながら、その狂信者どもの終末期施設(看取りの家)にだけは、定期的に本物の抗生剤を配給し続けているんだ。死にかけの信者を看取るためには薬が必要だと、役所の基準が決めているからだ」
「……まともに働く人間には、配給されないんですか」
「働く人間には要らんことになっている。健康で働ける人間は、自然に治って当たり前なんだとよ」
「その、看取りの家というのは、どこにあるんですか」
「知らん」
男はお椀を伏せた。
「知りたくもないね」
◆◆◆
「……あんた、南の尾根の噂を聞いたか」
年長の男が、不意に低い声で尋ねてきた。
「いえ、聞いていません」
「先月の話だ。軍が、随分な道具を三度使ったらしい。担ぐのに肩が三つ四つ要るような重火器を、わざわざ山の上まで引き上げてな」
若い男が、火の粉を突いた。
「何十人ものゲリラ部隊を相手にしたのかと思いきや、相手はたったの【一人】だったそうだぜ」
私は、伏せたお椀の底を両手で固く握りしめた。
「たった一人に、三度も最新兵器を撃ち込んで……それでも仕留められずに逃げられたらしい。軍が引き上げたあと、地面に幅広の焼け跡が三本残っていたそうだ」
「そいつを味方に引き入れたら、大戦力になるんじゃねえか」
若い男が興奮気味に言った。
「軍がそこまで目の色を変えて追うような化け物なら、俺たちの仲間に引き入れりゃ——」
「味方になるか、俺たちごと焼き殺されるかのどちらかだ」
年長の男がピシャリと遮った。
「軍がそこまでして消そうとしている怪物を、俺たちの縄張りに匿ってみろ。置いたその日から、この山じゅうが空爆の的になるぞ」
二人はそれきり、口を噤んだ。
焚き火の向こう側で、私は両手でお椀を抱えたまま、ただ静かに俯いていた。
——実際に撃たれたのは、三度ではない。
一度目は明石さんの腕を狙われ、二度目は私の生体意志でドローンを狂わせて外させた。
当たったのは、たったの一度きりだ。
そう喉まで出かかったが、私は深く考えて、その言葉を胸の奥底へと呑み込んだ。
◆◆◆
夜更け、年長の男が、私の手記の帳面を顎で指した。
「……あんた、毎日そうやって文字を書いているのか」
「はい、毎日書いています」
「手で文字が書ける人間は、俺たちの縄張りじゃとびきり貴重だ」
男は、焚き火の消し炭を灰の縁へと掻き寄せた。
「通信網が死んだこの白地では、伝えたい言葉はすべて『紙』になる。紙は生身の人間が足で運ぶ。だが、山の中を走る運び手には、文字の読めん奴のほうが多い」
「文字が読めなくても、手紙は運べますね」
「運べる。だが、宛先を読み違えて誤配する」
男は、膝の上の和紙を指差した。
「だから、この白い紙そのものが道の印になるんだ。宛先なんか、最初から一文字も書かん」
「宛先を書かずに、どうやって目的地へ届くんですか」
「紙を《《置く場所》》そのものが、宛先になるんだ。あの腕木には腕木の、山の祠には祠の、決まった行き先がある」
「文字は、どうやって隠すんですか」
若い男が、腰の袋から青みがかった小さな和紙の束を取り出した。
「……露草だ」
年長の男が言った。
「青い花びらをすり潰して、その汁を紙に何度も染み込ませて乾かしてある。使うときは、水で濡らした筆でその上をなぞって文字を書く」
「水がかかれば、綺麗に流れて消えるんですね」
「そうだ。雨が降れば完全に白紙に戻る。……だが、木灰の灰汁と明礬を混ぜた水で書けば、文字は永久に残る」
「残したい文字は、めったに書かないんですか」
「残したい言葉なんて、この危険な山奥じゃ滅多に書くもんじゃない」
若い男が、紙の束を大切そうに袋へ仕舞い込んだ。
「露草の花は、早朝の短い時間しか摘めねえんだ。昼には萎れちまう。……土地の奴らは、これを【地獄花】って呼んでるぜ」
「もし、途中の検問で敵に捕まったらどうするんですか」
「開かれる前に、紙ごとペロリと舐めて唾液で文字を消すのさ」
年長の男は、墨継ぎの施された白紙の和紙を、私の膝の上へとコトリと置いた。
「宛名のないこの白い紙は、国家の役人にとっては、どこへも届かんただのゴミ屑だ。……だが、線の死んだこの白地の山奥では、これを道端に置いておくだけで、仲間の手が必ず拾い上げて運んでいく」
「……拾ってくれるんですか」
「拾うさ。機械の通らない俺たちの道は、まだこの山の中で確かに生きている」
◆◆◆
翌朝、二人の男は重い銅線の束を背負い、山を下りる準備を整えた。
若い男は最後まで、私の素性も名前も訊こうとはしなかった。
年長の男は、肩の担ぎ紐を掛け直してから、遥か北の山並みを見つめたまま言った。
「……もしあんたが、北の境界帯をさらに奥へ抜ける用事があるなら、途中の山奥で【変電所】の場所を訊け」
「変電所……ですか」
「送電線が死に絶えた土地は、すべて俺たち石上の縄張りだ。……もっとも、そんな危険な最奥へ向かう人間なんざ、この世に滅多におらんがな」
二人はそれだけ言い残すと、朝霧の立ち込める森林軌道を足早に下りていった。
男の首元の白い碍子が、革紐の先で微かに一度だけ揺れた。
◆◆◆
一人残された水場で、私は手記の帳面を開いた。
白紙のページを一枚、慎重に破り取った。
下端からカッターのように爪を立てて細く切り裂き、上端を残して一本の紙紐を作る。
筒状に丸めた。
男の教え通り、左手の指三本と半分を当てて、巻きの太さを決める。
紐を巻きつけ、焚き火の消し炭で、紐の上から本体へと一本の直線を静かに引いた。
そして結びを解き、もう一度巻き直してみた。
一度目。——墨の線は、わずかにズレた。
私は深呼吸をして、二度目の巻きに入った。
自らの指先の太さを、ほんの爪の幅ひとつぶんだけ細く絞り込む。
そして紐を重ね合わせた。
——墨の直線が、一本の完璧な線となって、滑らかに継がった。




