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第58話 空の棚

夜が明ける前に、私は岩陰の窪地を出た。


昨夜、谷底で揺らめいていたあの謎の焚き火の場所へと、尾根を回り込んで下りていった。


森林軌道の盛り土から二十歩ほど下りた沢の窪地に、確かに焚き火の跡が残されていた。


川原の丸石を三つ組み上げただけの、簡素な野宿の炉。


灰の上にそっと掌をかざすと、まだ底の方に微かな温もりが残っていた。


周囲の夏草が二箇所、人間の身体の幅で押し倒されて寝ていた。


重い荷物を背負い上げるときに踏ん張った、長靴の踵の深い穴が、斜面を登る方角に向けて二つクッキリと刻まれていた。



   ◆◆◆



森林軌道を辿る私の歩みは、昼前になって終わりを迎えた。


細い土の平坦な帯が、急にパッと開けた広い平地へと抜け出し、そこが鉄路の終点となっていた。


大昔、切り出した丸太を集積して貨車に積み込んでいた土場の跡地だった。


雑草の生え方が、周囲の原生林とは明らかに異なっている。


その広場の最奥に、一軒の巨大な木造平屋がポツンと佇んでいた。


板張りの外壁で、屋根の半分が雪の重みで無惨に崩れ落ちている。


辛うじて残った軒先に、木製の古い看板が斜めに傾いてぶら下がっていた。


風雨に晒されて墨文字が掠れていたが、かろうじて上半分に『営林』という二文字だけが読み取れた。


窓ガラスはすべて内側から、分厚い杉板を何本も打ちつけて頑丈に塞がれていた。


板の隙間から、昼の光が細い幾筋もの光線となって内部へと射し込んでいる。


正面の木製扉は、半開きになったまま静止していた。


二つある鉄の蝶番のうち、片方が完全に外れて錆びつき、扉全体が斜めに傾いていた。



   ◆◆◆



建物の中は、前後に二つの空間に分かれていた。


手前は広い土間で、中央に頑丈な木製の長机がひとつ据え置かれていた。


天板の分厚い木肌の上に、湯沸かしの鍋を置いた丸い焦げ跡が、幾重にも重なって残っている。


奥が、板張りの診察室だった。


片側の壁一面を埋め尽くすようにして、巨大な木製の薬品棚が聳え立っていた。


三段に仕切られた、頑丈な棚。


上の段に、丸いボトルの埃の跡が、十二個。


真ん中の段に、十二個。


そして一番下の段に、大きな瓶の跡が、八個。


丸いボトルの底が置かれていた場所だけ、板の色が濃く、埃を被らずに残っている。


瓶の大きさは三種類あった。一番大きな瓶の跡は、最下段に集中していた。


私はその丸い跡のひとつに、震える人差し指をそっと置いた。


指を離すと、指の腹に真っ白な埃がベッタリと付着した。


——棚には、何ひとつ残されていなかった。


割れたガラス瓶の破片も、零れ落ちた薬品の粉末も、薬品名が書かれた紙のラベルの一片すら、どこにも落ちていなかった。


私はその場に、ヘナヘナと崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。


一度しゃがみ込んでしまうと、膝に力が入らず、二度と立ち上がることができなかった。


手記の帳面を取り出して、この過酷な現実を記録しようとしたが、すぐに手を引っ込めた。


「薬はどこにもなかった」というただ一言の絶望を書くためだけに、いま帳面を開く気力すら湧いてこなかったのだ。



   ◆◆◆



そのとき——建物の裏手から、微かな物音が聞こえてきた。


カチン、と金属と金属がぶつかり合う乾いた音。


私はハッと息を呑み、立ち上がった。


私の身体の奥底は、静まり返ったままだった。


都市の港際であれば、不審な人間の接近は大気中の電磁律動のざらつきによって即座に知覚できる。


だが——電波もダストも届かないこの白地の山奥では、私の耳は何の警告も発してくれないのだ。


私は背中の荷を整え、足音を殺して裏口の扉から外へと出た。


建物の裏手の土壁の陰に、二人の男が屈み込んでいた。


一人は五十歳を疾うに過ぎた初老の男。背が低く、丸太のように太い肩幅をしている。


首から、高圧電線用の白い磁器の碍子(がいし)を、汚れた革紐で誇らしげにぶら下げていた。


もう一人は若く、私と同年代か、あるいは少し年下に見えた。


年長の男が、壁の配電盤から引きずり出した太い電線を太ももでガッチリと押さえつけ、手元の小刀を横に寝かせて電線のゴム被覆に当てていた。


刃を立てず、寝かせたまま、スーッと縦に長く引き裂いていく。


裂けたゴムの奥から、赤銅色に輝く太い銅線の束が露出した。


若い男が、私の気配に真っ先に気づいた。


腰の工具袋の中に手を突っ込んだまま、ギロリと私を睨みつけて硬直した。


だが、年長の男は小刀の手をまったく止めなかった。


電線の被覆を端まで一本綺麗に裂き終え、中から抜き取った銅線をグルグルと輪にして束ねてから、ようやく静かに顔を上げた。


「……一人か」


「はい」


「どこの人間だ」


「峠を越えた先の、六軒の集落から来ました」


「生身の足で歩いてか」


「歩いてです」


男は三つの問いを投げかけると、重く口を噤んだ。


若い男が、工具袋に手を突っ込んだまま問い詰めてきた。


「……こんな山奥まで、一人で二日も歩いて何の用だ」


「薬を、探しに来ました」


年長の男が、銅線の束を足元にコトリと置いた。


「ここは二年前の春に、完全に畳まれたぞ」


「畳まれた……ですか」


「区域整理だそうだ。役所から紙が来て、トラックで役人が乗り込んできて、中の備品を全部運び出していった。……薬棚の薬なんざ、一等最初にトラックに積まれて出ていったよ」


「国家が、すべて回収していったんですか」


「国だ。ここらの山奥の物資を、国家以外の誰がわざわざ運び出すってんだ」


年長の男は苦々しげに吐き捨て、剥ぎ取ったゴムの被覆を足先でポイと脇へ寄せた。



   ◆◆◆



若い男は、まだ工具袋から手を抜こうとはしなかった。


「……おいあんた、なんで物音がしたのに裏へ回ってきたんだ」


「音が聞こえたので、確かめに来ました」


「普通、こんな山奥で怪しい物音がしたら、一目散に逃げるだろ」


「……そうかもしれません」


「そうかもしれません、じゃねえよ!」


若い男が一歩こちらへ詰め寄ろうとしたのを、年長の男が大きな手の甲で制した。


節くれ立った巨大な手だった。


人差し指と中指の二本が、骨折したときの形のまま、不自然に曲がって固まっていた。


「……あんた自身の薬じゃないな」


年長の男が、私の全身を一瞥して言った。


私は答えなかった。


「山奥に、怪我をした連れがいるのか」


「……います」


「その連れのための薬か」


「はい。……右腕の、酷い火傷です」


年長の男は、しばらくのあいだ私の目をじっと見据えていた。


そして、足元の重い銅線の束を片手で持ち上げ、一度だけ上下に揺らした。


「……日が傾いてきたぞ」


「はい」


「軌道跡を少し下った途中に、綺麗な湧き水が出る水場がある。夜の山道を無理に下りようとする素人は、たいてい谷底へ滑落して下りきれんで死ぬ」


若い男が、チッと舌を鳴らした。


年長の男は、顎で診療所の建物の奥をしゃくった。


「……土間の荷物を取ってこい。水場まで連れていってやる」


私は診察室へ戻り、土間に置いていた背負い袋を担ぎ直した。


肩紐を結び直そうとした瞬間、懐から手記の帳面がツルリと滑り落ち、板の間に落ちた。


慌てて拾い上げた拍子に、帳面のページのあいだに挟んでいた一枚の紙が、ヒラリと床へ抜け落ちた。


昨夜、岩陰の焚き火のそばで、私が自らの手で真似て作った、あの和紙。


端を裂いた紐で筒を巻き、木炭で直線を引いたが、結び目のところで墨の線が無惨にズレてしまった、あの失敗作の一枚。


私が手を伸ばすよりも速く、巨大な手がスッと伸びてきた。


首から白い碍子を提げた男が、その紙を拾い上げた。


男は、紙を開こうとはしなかった。


ただ、紐の結び目の上、墨の直線がズレているその一点に向けて、曲がった指先を静かに押し当てた。


男の全身の動きが、凍りついたようにピタリと静止した。



「——それは、どこで覚えた」

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