第57話 焼けた輪
〈では——育てた《《場所》》は、どこだ〉
手記の帳面に書き記したその一行は、十一日間のあいだ、乾いたまま次の言葉を待ち続けていた。
明石さんは数日おきに、遺産回線からあのアーカイブ書庫の照会を二度試みた。
受話器の奥で回線は低く唸り続けたが、返ってきた画面は二度とも完全な白紙だった。
三度目の呼び出しは、もう行わなかった。
その十一日のあいだ、トメの家は月に一度の「買い出しの日」をひたすら待ち続けていた。
峠の向こうの闇商人から、集落の古老が食料や日用品を仕入れてくる日。
その荷の中に、時として外の街から密輸された抗生剤の薬瓶が紛れ込むことがある。
それが、この未接続地帯において本物の薬が手に入る、唯一の確実な道だった。
薬草の湿布が切れないあいだは、その買い出しの荷を待つのが最も安全で正しい選択だった。
二日先の廃診療所に薬が残っているというトメの昔語りは、何年も前のただの噂にすぎないのだから。
毎朝、私は布団の明石さんの額に自分の掌を当てた。
昼にも当てた。そして、夜にも当てた。
三度目の夜の体温が一番熱い日が続き、土間の梁に吊るされていた三把の薬草は、ついに「最後の一把」にまで減っていた。
◆◆◆
その晩、トメが薬草の束を梁に掛け直す手を、ピタリと止めた。
「……この薬草は、ただの堰だよ」
トメが言った。
「火傷の奥の火を消すんじゃない。破滅の水を、ほんの少し遅らせとるだけだ」
「……その堰が」
「切れるよ。もうじきな」
「もうじきというのは、あと何日ですか」
「残りのこの一把で、せいぜい五日だ。……五日も、保たんかもしれん」
外からの買い出しの日まで、あと十日。
「……診療所へ、行かせてください」
私が言うと、明石さんは藁布団から煤けた天井を見つめたまま答えた。
「婆さんの話は、何年も前の古い噂だぞ」
「分かっています」
「山を二日越えて辿り着いたとしても、薬棚がとっくに空っぽかもしれん」
「ここで待っていても、間に合いません。十日は、五日のあとにやって来ます」
「往復で丸四日だぞ。……もし、何も無かったらどうする」
「何も無かったとこの目で確かめて、走って戻ってきます。棚が空っぽだと分かるだけでも、四日の命を賭けて買いに行く価値があります」
明石さんの視線が、初めて私の顔を真っ直ぐに捉えた。
「……誰の口真似だ、それは」
「明石さんの口真似です」
「……そうか」
明石さんは静かに両目を閉じた。
「行ってこい。四日で戻れよ。もし戻らなかったら、俺は勝手に死んでるからな」
「明石さん」
「冗談だ。この頑固な婆さんがいる」
トメは何も言わなかった。
黙って土間へ下りると、前夜から用意してあった塩干し飯の布袋を、私の手元へと差し出した。
二日間の険しい山道を歩き通せる若い足は、この六軒の限界集落の中に、私のほかに一人も存在しなかった。
誰もそれを口には出さなかった。
差し出された干し飯の重みが、言葉の代わりにその事実を雄弁に伝えていた。
◆◆◆
翌朝の夜明け前、私はトメの家を出立した。
トメは土間の戸口の木柱に人差し指を押し当てて、進むべき山道を教えてくれた。
「まず、集落の裏の炭焼きの山道を真っ直ぐ上がっていきな。古い炭焼き窯の跡が三つある。三つ目の窯を過ぎたところで、踏み跡は完全に消える」
「消えたら、どうすれば」
「沢へ下りるんだ。沢を三つ数えて、三つ目の沢で水筒に水を汲め。四つ目の沢の水は鉄の味がする。飲めんことはないが、胃袋をやられるよ」
トメの指先が、柱の上をスーッと滑った。
「その沢の先に、前世紀の森林軌道の跡がある」
「軌道……鉄道の線路ですか」
「昔、山奥から木材を切り出すために敷かれたトロッコの線路だ。鉄のレールはとうに盗まれて一本もないが、平らな盛り土の跡はそのまま残っとる」
トメの指が止まった。
「その軌道跡に乗るんだ。人間が敷いた鉄道の線は、山の中で一番傾斜の緩い、楽な場所を選んで通っとる。道に迷ったら、一番平らな方角へ進め」
「診療所は、そのどこにあるんですか」
「軌道の行き止まりだ。木を集める飯場と、怪我人を診る診療所は、昔から同じ場所にあったからね」
山へ行ってどうなるのか、という不安は一言も訊かれなかった。
この老女は、余計な詮索をしない代わりに、命を繋ぐための確かな沢の番号だけを教えてくれたのだ。
◆◆◆
夜明け前の冷たい霧の中を、私は登り始めた。
炭焼きの小道は、人間ひとりがやっと通れるほどの細い獣道だった。
三つの窯の跡はどれも崩れ落ち、丸く積まれた石だけが苔むして残っていた。
三つ目の窯を越えると、踏み跡は深い草むらの中へと完全に消え去った。
私は斜面を下り、沢を渡った。
ひとつ、ふたつ。
三つ目の澄んだ沢で、腰の水筒を満水にした。
四つ目の沢の水は、トメの警告通り赤茶色に濁っており、指をつけると爪の際が鉄錆の色に染まった。
歩くあいだじゅう、私の身体の奥底は、驚くほど静まり返っていた。
前腕の皮膚にも、後頭部の開頭痕にも、何の電磁波も触れてこない。
解読すべき機械のシグナルが何ひとつ存在しない土地で、私の身体は、ただ背負い袋を運ぶためだけの「歩く足」と同化していた。
そのあまりの静寂の心地よさに慣れそうになる自分を、私は強く警戒した。
◆◆◆
昼過ぎ、視界の先の谷が急激に大きく開けた。
人工のスギの植林地が途切れ、手つかずの広葉樹の雑木林へと植生が変わった。
大気の匂いが、針葉樹の鋭いヤニの匂いから、湿った腐葉土の甘い香りへと移り変わる。
私の足元が、唐突に真っ平らな感触へと変わった。
幅二メートルほどの平坦な土の帯が、森の奥へと真っ直ぐに伸びていた。
草むらを掻き分けると、足元に真っ黒な角材が規則正しく並んでいた。
苔に覆われ、湿気で半ば土へと還りかけている木材の列。
——枕木だ。
鉄のレールは、一本たりとも残されていなかった。
金になる金属は、政変後の混乱の二十年間で、すべて山を降りて売却されてしまったのだ。
足元にかがみ込むと、四角い頭を持つ鉄の犬釘が、枕木に半分だけ深く打ち込まれたまま錆びついて残っていた。
引き抜くには大掛かりなバールが要り、わざわざ苦労して回収するほどの鉄の重さもない。
そうした「中途半端な物」だけが、この世界の時間の底に取り残されるのだ。
私は立ち上がり、枕木の上を歩いた。
驚くほど歩きやすかった。
人が敷いた鉄路は、列車を走らせる効率のために、山の中で最も傾きの少ない滑らかな曲線を選び抜いて作られている。
この鉄路を敷いた大昔の工夫たちのことを、私は少しだけ想った。
何十年もあとに、見知らぬ若者がこの廃線を命がけの逃走路として歩くことになろうとは、誰も想像していなかったに違いない。
◆◆◆
軌道跡が深い沢を鉄橋代わりに渡る手前で、一本の巨大な柱が横倒しになって道を塞いでいた。
木製の給電柱だった。先端に二本の腕木が、まだしっかりと残っている。
その根元を見て、私は息を呑んだ。
地面から膝の高さまでの部分が、まるで帯のように【真ん丸い輪の形】に真っ黒に焼き焦げていたのだ。
焦げた輪の上下の木肌は、まったく焼け焦げのない元の木の色のまま残されている。
輪の上下の境界線に、カチカチに乾燥した灰色の泥が、細い帯となってこびりついていた。
爪で引っ掻くと、パリパリと硬い殻になって地面へと落ちた。
湿った泥を上下に塗り固めることで、燃え広がる火の幅を厳密に制限したのだ。
根元には消し炭が落ちており、柱の胴体に、太い麻縄で引っ張った斜めの擦れ跡が一本残っていた。
焼け口の中心は、まるでナイフで削った鉛筆の先のように尖っていた。
火の番をしながら、芯まで炭化するのを半日以上かけてじっくりと見届け、最後に縄で引き倒したのだ。
ただ給電柱を倒すだけなら、鉄の鋸を使えば十分で足りる。
鋸で引けば数分で終わる作業を、この山奥の何者かは、泥と火と縄を使い、丸半日の時間をかけて焼き倒したのだ。
これは、柱を倒すための火ではない。
この道を通る何者かに向けた、無言の【見せるための火】だったのだ。
◆◆◆
給電柱の腕木の先端に、白いものが大切そうに結びつけられていた。
解いて掌に載せると、指の関節ひとつの厚みがある、見事な和紙の巻物だった。
紙の筒の胴回りに、細い紙の紐が一本、固く巻きつけられている。
その紐もまた、別の麻紐などではなく、この和紙の右端を下から途中まで細く切り裂いて作られたものだった。
上端は本体に繋がったまま残されており、この紙は、自分自身の身体の端で自分自身を縛り上げていた。
そして——その紐の上を横切るように、一本の黒い墨の直線が引かれていた。
墨の線は、紐の上を通り抜け、筒の本体の和紙の上へと滑らかに連続している。
雨に打たれて墨の色は薄くなっていたが、線は確かに一本に繋がっていた。
私は結び目に指を差し入れようとした。
だが、山雨の湿気で固く締まりきっており、結び目は解けず、細い紐のほうがプツンと無情に千切れてしまった。
和紙が、掌の中でハラリと解け広がった。
——文字は、どこにも書かれていなかった。
西日の光に透かして見た。
紙の繊維の目の隙間に、ごく微かに、淡い青色の染みが残っていた。
爪を立てて擦ると、私の指の腹に、青い粉が微かについた。
雨の水で綺麗に流れて消え去る、露草の汁を墨の代わりに使っているのだ。
水で流れる文字を使う者が、この山奥に潜んでいる。
私は紙を元の筒状に巻き直そうとした。
だが——私の両手は、ピタリと止まった。
本体に引かれた墨の直線が、完全に途切れてしまっていたのだ。
紐が巻かれていた下側の紙の表面だけが、真っ白なまま残されている。
この墨の直線が一本に繋がって見えるのは、元と寸分違わぬ太さに紙を巻き、寸分違わぬ位置に紐を重ね合わせたときだけなのだ。
線の太さが僅かでも狂えば、墨の線は無惨にズレてしまう。
私は指先で紙を巻いた。太すぎた。線が指一本ぶんズレた。
もう一度巻き直した。今度は細すぎた。逆の方向へとズレた。
二度試みても、線は二度と繋がらなかった。
正しい巻きの太さを、生身の指の感覚だけで完全に記憶している「主の手」が存在するのだ。
私には、その太さを再現することができなかった。
千切れてしまった紙の紐を、掌の上に載せた。
一枚の和紙から作られた紐である以上、二本目の替え紐はこの世に存在しない。
私は消えた文字を読もうとした代償として、この暗号の【封を完全に破いてしまった】のだ。
私は和紙を丸め、千切れた紐で縛って腕木へと結び直した。
墨の直線は、千切れたまま二度と元には戻らなかった。
◆◆◆
日が沈む前、私は軌道跡を離れ、尾根寄りの切り立った岩陰の窪みへと身を潜めた。
夜風の吹き込まない、安全な場所。
枯れ枝を集め、小さな焚き火を熾した。
太い枝を下に寝かせ、細い枝を上に立てる。トメに教わった通りの火の組み方。
水筒の湯で干し飯を戻して口に運んだ。素朴な粗塩の味しかしなかった。
焚き火に翳した指先は温まるが、背中は夜の山冷えの冷気に晒されたままだった。
私は手記の帳面を開き、白紙のページを一枚、慎重に破り取った。
紙の下端を細く切り裂き、上端を残して一本の紐を作った。
筒に巻き、その紐で括って、焚き火の縁の木炭で一本の黒い直線を引いた。
そして結びを解き、もう一度巻き直してみた。
——墨の線は、無惨にズレた。
三度巻き直しても、三度とも線が合わなかった。
私は破り取ったその紙を、手記のページのあいだへと静かに挟み込んだ。
〈枕木は残る。鉄は残らない。〉
ふと顔を上げた。
遥か谷底の暗闇の中に、ポツンとひとつの【赤い灯火】が灯っていた。
民家の窓ガラスの灯りではない。
夜風にゆらゆらと揺らめく、剥き出しの生身の焚き火の炎だった。
診療所は森林軌道の行き止まりにあると、トメは言った。
だが、あの灯火の場所は、まだ軌道の途中の深い森の中だ。
私は手記の帳面をパタンと閉じた。
そして、足元の山の土を両手で力強く掻き寄せると、自分が熾した小さな焚き火の上へと、一気に被せて消し去った。




