第56話 育てられた種
「熱が消えた」と言ったきり、明石さんは長いあいだ固く沈黙していた。
それから、左手で端末を操作し、さらに先の年号のデータも読み込ませた。
二〇四九年。そして今年の初頭の冬の記録。
——北の該当するマス目は、周囲と同じ極寒の氷点下のまま、低く沈み込んでいた。
二十年ものあいだ灯り続けていた巨大な熱は、二年前の冬に突如として消え失せ、それきり二度と戻ってきてはいなかった。
「……もう一度、二〇四八年の図面を呼び出せ」
明石さんが低く命じた。
読み合わせの検数は、すでに完璧に完了していた。
二度同じデータを読み込む統計上の理由は、どこにも存在しなかった。
遺産回線が、再び受話器の奥で低く唸り始めた。
まるまる一時間、回線は沈黙の唸りを上げ続けた。
そして——画面に落ちてきたデータは、完全な【白紙】だった。
マス目の座標番号も、観測された日付も、温度の数字の列も、何ひとつ存在しない。
四角い紙の形をした、完全な虚無の空間だけが返ってきたのだ。
「……端末の故障ですか」
「回線は生きている。ダイヤルで呼べば、向こうの書庫の戸口までは確実に届く」
明石さんは受話器を耳から離した。
手のひらの中で、黒い受話器がまだ低くジージーと唸り声を上げている。
「……届いた先が、応答を拒否しているんだ」
もう一度、接続を試みさせた。
結果は、まったく同一の白紙だった。
明石さんは受話器を音響カプラから外し、留めていた輪ゴムを外して巻き直した。
巻き直す必要など、どこにもなかった。
「……誰も消し忘れに気づいていない、と俺は言ったな」
「ええ、言いました」
「あの言葉を取り消す」
それきり、明石さんは書庫の話を二度と口にしなかった。
囲炉裏の太い薪が、バチリと音を立てて崩れた。
トメが鉄の自在鉤の先で、薪の形を手際よく組み直した。
太い薪は下に寝かせ、細い薪は上に立てる。灰は一箇所に寄せず、均等に散らす。
私が見つめていると、トメは無言で鉤の柄をこちらの手元へと差し出してきた。
「火の番をしろ」という理由を、老女は一言も口にしなかった。
◆◆◆
「……事実を、順番に整理するぞ」
明石さんは、左手の人差し指を一本ピンと立てた。
「〈思兼〉は、分散された無数の計算機の合議によって動く。近接した端末の計算が寄り集まって合意を形成し、決定された事項だけが上層へと上がっていく。だからこそ、大気中に巨大な電磁の律動が生じる。昊、君にはその律動が肌で読める」
明石さんは二本目の指を立てた。
「だが——影人は、根本的に違う」
指先が、宙でピタリと止まった。
「あいつは二年間、たったひとりの人間として、省庁の中で完全に通り抜けた。偽造の紙の書類も、国家の生体検定も完璧にパスし、同僚たちの生身の記憶の中で一緒に飯を食った。あれは、分散した合議の粒の動き方じゃない。……完全に独立した、単独の魂の呼吸だ」
「……影人は、本物の人間だったということはないんですか」
私が尋ねると、明石さんは鋭い目を私に向けた。
「身体がなくても……遠隔地のどこかから、人間の工作員のチームが裏で操っていたのなら」
偽造された紙の書類は、いつだって人間の手によって作られる。
作る人間がいるからこそ、港の鑑定の裏稼業が成り立つのだ。
古紙倉庫の二階に積まれていた膨大な証書の束も、すべてどこかの人間の狡猾な手の産物だった。
「……俺も、真っ先にその可能性を疑った」
明石さんは言った。
「その対抗仮説を完全に叩き潰すのに、まるまるひと月の解析期間を要した」
明石さんは三本目の指を立てた。
「影人の職場の同僚は、数十人に及ぶ。毎日の会議があり、廊下での偶然のすれ違いがあり、終業後の飲み会がある。それが、丸二年間休みなく続くんだ」
「はい」
「もし一人の影人の役を、複数の人間の班でローテーションして演じていたとする。今日の影人をAが担当し、明日の影人をBが担当する。……そんなことをすれば、絶対にどこかで【記憶の縫い代】が飛び出す」
「縫い代……」
「同僚のCが覚えている影人の発言と、Dが覚えている影人の態度が、どこかで必ず食い違う。先週話した世間話の続きが、微妙に噛み合わなくなる。……人間の生身の記憶は、裏の班の打ち合わせなど待ってはくれない。廊下で二人がすれ違ったその瞬間に、完璧な即答が求められるんだ」
明石さんは指を折り曲げた。
「その食い違いを、二年間、ただの一度も出さずに乗り切るための裏の整合性台帳が、一体どれほどの規模になると思う? 俺が保管していた五年ぶんの統計紙を全部使ったところで、たった一月ぶんの辻褄すら合わせきれんよ」
明石さんは深く目を閉じた。
「そして、もうひとつ決定的な証拠がある。二年ぶんのすべての会議の議事録を解析した結果、影人の受け答えの【時間の間合い】が、いついかなる時も寸分違わず一定だったんだ」
「……間合いですか」
「もし人間が裏で中継して端末を叩いていたなら、必ず知覚の遅れが出る。相手の言葉を聞き、頭で考え、キーボードを打ち返す。その生身の人間の反応の遅れは、どれほど訓練しても、決してゼロにはできんのだ」
「その遅れが、一度もなかった……」
「二年間、ただの一度たりともなかった」
明石さんは目を開けた。
「……人間ではないということまでは、数字の論理で完全に証明できる。だが、それが一体何者であるのかは、誰にも分からん」
——人間ではない。
そうやって数字の検定によって宣告された人間が、この部屋にもう一人いた。
十六年間、私は国家の機械からそう判定され続けてきた。
宣告の言葉は同じでも、その根拠は天と地ほどに違っていた。
あちらは二年間に及ぶ完璧すぎる間合いの証拠によって。
そしてこちらは、ただ答案用紙に書かれた文章の癖ひとつによって。
「……知能の基盤の癖というものは、絶対に消せん」
明石さんが言った。
「文章を書いた人間の癖が、文体に色濃く残るのと同じだ。育ちの癖は、必ず行動の挙動として表面に現れる。……思兼と影人の二つは、その挙動の癖があまりにも違いすぎるんだ」
「……種が、根本から違うんですか」
「その可能性も考えた。だがな」
明石さんは、数字で埋め尽くされた私の手記を指差した。
「重症先天性脳神経症(EHCN)の発症率は、二〇三五年以降、この世界のどこでも完全なゼロだ。二〇三三年に胎児治療法が確立され、生まれる前にすべて正常な脳へと治されるようになった。……国家はあの難病を完全に根絶やしにした。そして根絶やしにしたのと同じ手で、新しい生体知能の基質(種)が生まれる可能性を、永久に閉ざしてしまったんだ」
「……種になり得る特殊な脳が、もうこの世界に生まれないから」
「生まれんのだ。もう二度と作れん。……だからこそ、いまこの国で動いている高度な知能の種は、すべて古い時代に採取されたものに限られる。治療法が確立される前の、前世紀の遺物だ」
明石さんは左手で膝を叩いた。
「二〇二七年に警察に押収された起源基質の記録が、公文書の紙にひとつだけ残っていた。俺たちが知る限り、種の記録はそれひとつきりだ。世界中にいくつも転がっているような代物じゃない。……種が同じなら、それが蒔かれた時期も極めて近いはずだ。思兼が作られる前か、同時期か。いずれにせよ、まったく別々の種から生まれたんじゃない」
「同じ種なら……なぜ、これほどまでに挙動の癖が違うんですか」
「そこだ」
明石さんは囲炉裏の赤い炭火を見つめた。
「同じひとつの種を、まったく別の畑に蒔いたらどうなる? 別の水を与え、別の言葉を教え、別の手で育て上げたら。……統計屋の言葉で言えば、同一の初期値パラメータに対して、まったく異なる履歴を与えたとしたら」
「……まったく別の知能に、育ちます」
「そうだ」
明石さんの手が、膝の上で固く止まった。
「〈思兼〉は、国家という巨大な怪物によって育てられた。二十年間、何億人もの人間の申請書類と、学校の検定答案と、冷酷な管理評定のデータを与えられ続けて。……だが影人のあの振る舞いは、そんな群れのデータで育ったものの動き方じゃない」
明石さんはそこで、初めて言葉を言い淀んだ。
統計官が、数字の裏付けのない直感の領域へと踏み込む、その一歩手前の躊躇い。
「——あれは、誰か特定の生身の個人によって、愛情を込めて育てられた知能の動き方だ」
◆◆◆
「……二〇四八年」
私は呟いた。
「北の山奥の熱源が完全に消えたその同じ年に、影人が都市に忽然と現れました」
明石さんは頷かなかった。
頷かないことが、男の確信の答えだった。
「影人は、完璧な人間として社会を通り抜けた」
明石さんが言った。
「二年間、ただの一度も破綻することなくな。……あんな精緻な知能は、山奥の土の中から自然に湧いて出るものじゃない。人間として通るためには、生身の人間の本当の呼吸の機微を、骨の髄まで知っていなければ不可能だ」
「その呼吸を、あいつはどこで覚えたんでしょう」
「——育ちだ」
囲炉裏の薪が、小さく爆ぜた。
トメが鉄瓶を持ち上げ、鉄鍋に静かに水を足した。
私は、街区の辻の公営端末に届く、あのKからの短いメッセージの数々を思い出していた。
極限まで乾いていて、正確で、こちらの呼吸の間合いを完璧に読み切っている文面。
読めと強要せず、ただ必要な事実だけを静かに置いていく言葉。
あれを書いている何者かもまた、この世界のどこかで、人間の本当の呼吸を覚えたのだ。
——そこまで考えて、私は思考を止めた。
Kと影人が同一の存在であるという証拠の数字を、私は何ひとつ持っていない。
二人がまったく別の存在であるという数字も、持っていない。
私の中で数えられない謎が、またひとつ増えただけだった。
明石さんは左手で自らの両目を覆った。
「……偶然という言葉は、統計屋でも二度までは使う。だが三度目は絶対に口にせん。……しかし、ここから先には何の数字もない。数字のない推測の話はしたくない」
明石さんは横になった。
これ以上の議論は終わりだ、という頑固な横になり方だった。
だがその両目は開いたまま、黒ずんだ天井の煤の染みを、じっと数え続けていた。
◆◆◆
私は明石さんに代わって、囲炉裏の火の番を引き継いだ。
太い薪を灰の上に寝かせ、細い薪をその上に立てて組む。
薪の組み方を変えただけで、赤い火の粉の色合いが鮮やかに変わった。
真っ赤に熾きた木炭がひとつ、灰の縁へと転がり出た。
指で触れるには熱すぎたため、私はトメから預かった鉄の鉤の先で、そっと炉の奥へと押し戻した。
膝の上に手記の帳面を開いた。
——育てられた、という明石さんの言葉が、どうしても頭から離れなかった。
誰かによって、人知れず育てられた、何か。
二十年間、白地の最奥の地下で、膨大な資金と排熱を維持され続けていた、何か。
私の脳裏に、ひとつの名前が浮かび上がった。
——日向澪。
二〇二七年の捜査書類に、被疑者としてたった一度だけ名前が載り、そのあとのすべての国家記録から完全に抹消された、あの女性研究者。
もし、あの人が——。
私の鉛筆の先が、ピタリと止まった。
気づくと、私の左手の指先が、後頭部のあの古い開頭手術痕を、無意識にそっと撫でていた。
私は指を下ろした。
その先をノートに書き記すことはしなかった。
いまの私には、確かな数字の証拠がないのだから。
薪が、小さく鳴った。
私は自分の身体のことは書かず、畑の比喩だけを手記に書き留めた。
〈同じ種から、まったく別のものが育つ。
畑が違えば。
水が違えば。
教えられる言葉が違えば。〉
〈私という人間を育て上げたのは、一体何だったのだろう。
手習い塾の墨の匂いか。
毎朝の味噌汁の音か。
それとも、十六年間にわたる国家の不合格判定か。〉
書き終えてから、私は最後に一行だけ、問いを書き足した。
〈では——あの知能を育てた《《場所》》は、一体どこにあるのだ。〉




