第55話 段差
明石さんは、翌朝から直ちに解析作業を開始した。
動かなくなった右腕の代わりに、左手だけを激しく駆使して。
布団の周囲にノート端末と手記の方眼紙が所狭しと広げられ、トメの家の薄暗い奥の間は、わずか半日で前世紀の小さな気象観測所のような様相を呈していた。
奥の部屋の遺産回線の黒受話器が、ノート端末の音響カプラにしっかりと噛み合わされていた。
外れないように、輪ゴムが二重三重に固く巻きつけられている。
政変前の古い設計の銅線は、人間の音声信号と一緒に、ごく微弱な電力を運んでいた。
明石さんは端末の内蔵バッテリーの消耗を極度に恐れ、その銅線から流れてくる細い電力を端末へと分け与えて駆動させていたのだ。
「……トメさん、電話回線を拝借するぞ。夜のあいだ中、ずっと塞がることになる」
「構わんよ」
トメは囲炉裏の灰を火掻き棒で均しながら、こちらを振り返りもせずに答えた。
「その黒電話が鳴ったのは、この十年でたったの三度きりだ。三度とも、他所の集落の急用だったよ」
「かける先のあては」
「ないね」
それだけの短い会話で、回線の夜間占有の合意は成立した。
回線の通信帯域は、現代の高速通信網とは比べものにならないほど細かった。
政変前の旧式銅線の細い管を、人間の肉声の代わりに、膨大なバイナリの数字データが少しずつ通り抜けていく。
衛星の地上温度観測図をたった一枚ダウンロードするだけで、まるまる一時間の時間が費やされた。
その一時間のあいだじゅう、受話器の奥から「ピー、ガー」という低く唸るような電子音が鳴り響き続けた。
夜の山あいの虫の声に紛れて、時折かすれて聞こえなくなるほどの細い糸。
「……前世紀の、防災観測アーカイブのデータだ」
明石さんが言った。
「地球周回衛星から地上表面の温度を丹念に測り続けた記録が、四十年ぶん手つかずで眠っている公的な電子書庫がある」
「国家の管理網を介さずに、そんなものを外部から引けるんですか」
「都市の最新の認証が必要な書庫は、この谷底の電波環境からは絶対に引けん。だが、このアーカイブは古すぎるんだ。電話の時代の古いアクセスポートを、いまだに無防備に開けたまま放置している。……銅線のダイヤルで呼び出せば、銅線のデータでそのまま返してくるのさ」
「閲覧するのに、身分証明の登録は」
「要らん。読むだけなら、世界中誰でもタダで読める。……派手な国家機密のデータベースよりも、こういう退屈で誰も見ないような観測記録のほうが、何十年も長生きするものだ。役所の人間も、消し忘れていることにすら気づいていない」
「……この国の山を、端から全部見ていくんですか」
「そんなことできるわけがないだろう」
明石さんは、顎で受話器の先を指し示した。
「一枚落とすのに一時間だ。夜どおし粘っても、せいぜい八枚しか手に入らん。四十年ぶんの全国のデータを端から総当たりしていたら、俺の残りの寿命のほうが先に尽きちまう」
男は左手で、紙の上に一本の短い直線を引いた。
「だからこそ、あの爺さんの証言が絶対に不可欠だったんだ。北へひと月。その方角と、生身の人間の足で歩いた日数。……その範囲から推定されるマス目を切り出せば、調べるべきデータはほんの数十枚にまで絞り込める」
「もし、証言の場所が外れていたら」
「外側へ順にマス目を広げていくまでだ。だが、まずは一番怪しい内側の芯から潰す。……確かな見当のない捜索なんぞ、捜索とは呼ばん」
◆◆◆
明石さんが画面の数字を読み上げ、私が手記の方眼紙に鉛筆で書き写していった。
右腕の自由を失った元国家統計官と、国家のどの検定にも通らない透明人間の帳面。
この山奥の民家にある武器は、それだけだった。
マス目の座標番号。西暦の年号。観測された月日。そして、真冬の深夜の地表温度。
一画素の大きさが山ひとつ分(数キロメートル四方)もある、極めて粗い解像度の衛星写真だった。
「……一晩のデータを見ただけでは、何ひとつ見えてこないぞ」
明石さんが言った。
「猛烈に冷え込んだ夜もあれば、厚い雲に覆われて地表が見えない夜も混ざっている。ただの雑音の海だ。……だが、二十年ぶんの冬のデータを重ね合わせると、その雑音の海の中で、決して沈まない一点の異常値だけが、水面にプカリと浮かび上がってくる」
「重ね合わせることで、初めて見えるんですね」
「重ねてしか、見えないものがあるんだ」
明石さんは左手で紙を送った。
「数字は絶対に嘘をつかない。嘘をつくのは、いつだって生身の人間だ。……だから昊、おまえはただ数字だけを几帳面に写せ。余計な感想や主観は一切書くな」
——感想は書くな。
そんな指示を受けたのは、生まれてから二十四年間で初めてのことだった。
データを書き写し終えるたびに、明石さんは読み合わせの照合を求めてきた。
「……港の検数の要領でやれ」
船から降ろされたコンテナの荷番号と、手元の受領書類を突き合わせる手つきそのままに。
私は空から降ってきた数字と、手記の帳面を照らし合わせた。
声に出して読み上げる。人差し指で数字の列を追う。
二つの値が寸分違わず一致したら、爪の先で紙をコツンと軽く叩いて、次の行へと視線を移す。
港の吹き溜まりでこの検数の手つきを叩き込まれたとき、私が突き合わせていたのは、埃っぽい埠頭の棚の上に積まれた木箱やドラム缶だった。
三晩のあいだに、土間の梁に吊るされていたトメの乾燥薬草の束が、また一把減って「残り二把」となった。
トメは毎晩、囲炉裏で薬草を濃く煮出し、明石さんの化膿した右腕を丁寧に洗い清めていた。
煮出すたびに、壁の束が目に見えて痩せ細っていく。
部屋の中に薬草の煮汁の匂いが立ち込めるあいだ、私の鉛筆の音はピタリと止まる。
衛星図が一枚落ちてくるのに一時間。夜通しで八枚。
その八時間のあいだじゅう、明石さんの皮膚の下の炎症の火も、休みなく肉を苛み続けていた。
手記の左側のページに、黒い鉛筆の数字の列が、整然と育っていった。
毎晩、鉛筆が紙を擦る音と、通信回線の低い唸り声と、そして囲炉裏の薪が爆ぜる音だけが、この静寂の家の中に響いていた。
◆◆◆
三晩目の早朝、東の空が白む前に、私はひとり家を出た。
次の衛星図が完全に落ちてくるまで、まだ一時間近くの間があったからだ。
急な山坂を登っていくと、下草の夜露が作業着の脛から下をしっとりと濡らした。
夏の山草は、夜明け前のこの時間帯が一番重く水分を含んでいる。
尾根の頂上に出た。
東の空の縁だけがうっすらと白く明けており、その淡い光が、ゆっくりと天空へと広がっていくところだった。
谷底の集落はまだ深い夜の闇の底に沈み、民家の煙突からは煙ひとつ上がっていない。
私の足元の山の土は、湿り気を帯びて柔らかかった。踏みしめるとフッと沈み、足を離すと静かに元に戻る。
前腕の皮膚や頭蓋骨の奥には、何の電磁信号も届いてこない。
ここには、解読すべき都市の電磁律動が存在しない。
読み取るべき機械の波形が存在しない土地で、私の身体は、どこまでも静かに空っぽになっていた。
私は北の方角へと身体を向けた。
眼前には、果てしない山の尾根が連なっていた。
その尾根の向こうに、さらに別の尾根が重なり合っている。
三つ目の尾根からは朝霧の中に輪郭が霞み、山並みと空の境界線が青白い光の中に溶け合っていた。
あの爺さまが言った「歩いてひと月の先」は、その霞んで溶け去った山々の、さらに遥か彼方にあるのだ。
肉眼で見えるはずなどないことは、この尾根に登る前から最初から分かっていた。
それでも——私は、しばらくのあいだそこに立ち尽くしていた。
人工の煙はない。道路の痕跡もない。送電線の鉄塔も、建造物の屋根も、何ひとつ見えない。
坂道を下りながら、私はこのことを明石さんには黙っておこうと決めた。
「見えるわけがないだろう」と呆れられる前に、わざわざ自分の目で確かめに行きましたなどとは、気恥ずかしくて言えなかったからだ。
◆◆◆
そして——その三日目の夜、ついに決定的なデータが見つかった。
北の山奥の、特定のマス目。
真冬の、上空に雲ひとつない快晴の夜。
周囲のすべてのマス目がマイナス十度以下の氷点下へと深く沈み込んでいく中で、決まって、決して氷点下に沈みきらない【特異な一マス】が存在していた。
「……二〇二八年の冬からだ」
明石さんが低く呟いた。
「その前の年の冬の記録には、影も形もない。……だが、二〇二八年の冬から、忽然として現れている」
政変が起きる前の年だ。
旧政府が統治していた時代から、その熱はすでに存在していたのだ。
そしてその一マスは、二〇二八年以降、毎年の冬のデータに必ず規則正しく現れ続けていた。
熱が観測されるマス目の座標は、二十年間のあいだ、まったく動いていなかった。
「……山の中に、二十年間、雪の積もらない場所が実在する。あの爺さんの目は、完全な本物だった」
明石さんの声は、極限まで乾いていた。
「勘違いするなよ、昊。そのマス目全体が丸ごと温かいわけじゃない。一画素は山ひとつぶんの広さがある。どこか一点の強烈な熱源が周囲の雪を溶かし、その排熱が画素全体の平均温度を押し上げているんだ。……周囲が極寒の氷点下に沈む夜にだけ、その一点の熱が、水面に浮かび上がるように観測される」
「……地熱の温泉などでは、ないんですか」
「自然の地熱なら、始まりというものがない。アーカイブの四十年ぶんのデータすべてに最初から出ていなければおかしい。山火事なら、翌年の冬には完全に消えているはずだ」
「……爺さまが言っていた、昔の鉱山の坑内火災の可能性は」
私は、藪の中に残されていたというあの廃坑の口を思い出していた。
「石炭の鉱山では、地下の石炭層に引火した火が何十年も燃え続けることがあると、本で読んだことがあります」
明石さんは、少しのあいだ沈黙した。
「……筋のいい着眼点だ」
そして、静かに首を横に振った。
「だが、坑内火災なら大量の有毒な煙が噴き出す。地面が大規模に陥没し、強烈な硫黄の異臭が谷じゅうに立ち込める。冬に谷へ入った猟師が、そんな異常に気づかないはずがない。……それに、自然の火というのは、燃え広がるか、燃え尽きるかのどちらかだ。二十年ものあいだ、同じマスの中で、寸分違わぬ一定の温度を保ち続けてくれるはずがない」
明石さんは左手の人差し指で、空中に四角い枠を描いた。
「大雪を溶かし尽くすだけの巨大な熱が、二十年間、一定の出力で出続けている。……これは間違いなく【人工設備の排熱】だ」
「……どのくらいの熱量なんですか」
「桁で教えてやろう」
明石さんは目を閉じ、暗算を始めた。
「爺さんが言った沢の水量がどれほどかは正確には分からん。だが、冬の極寒の山水だ。その沢水を、冬じゅう氷点下の上に温め続ける熱量というのは……この囲炉裏の薪の火の、【一万倍の桁】になる」
「……一万倍」
「そうだ。この囲炉裏の火が、一万個集まった熱量だ」
明石さんは顎で、目の前で燃える囲炉裏を指した。
太い薪が三本、赤々と燃えている。
その火が、一万個。
「個人の竈や炭焼き小屋の火では、天地がひっくり返っても届かん。町の規模なら届く。だが町を作るには、物資を運ぶ道路と、高圧の送電線が絶対に要る」
「……その山奥には、道路も電線もありません」
「ない。……そして、それが二十年間休みなく続いているんだ」
明石さんはカッと目を見開いた。
「もし外部からの燃料補給が必要な火力なら、二十年ぶんの膨大な燃料を誰かが運び込み続けなければならん。トラックが通れば道ができる。道ができれば、宇宙の衛星写真にクッキリと写り込む。……だが道はない。つまり、これは【外部からの燃料補給を一切必要としない火】なんだ」
「そんな火が、この世界に存在するんですか」
「旧政府の末期、極秘の軍事基地や僻地の深海観測所向けに開発された特殊な動力炉がある。一度地下に据え付けてしまえば、十年から二十年のあいだ、一度も燃料交換をせずに自律運転を続ける……【完全封じ切りの小型原子炉】だ」
明石さんは、すぐに自らの言葉を補正した。
「……いや、それが原子炉だと断定しているわけじゃない。そう仮定しなければ、熱量の勘定がどうしても合わないと言っているだけだ」
保守の手が入っている。
膨大な資金が流れている。
つまり——国家の誰かが、二十年間、その巨大な勘定を払い続けているのだ。
「そして、問題はその距離だ。マス目で数えれば、とてつもない奥地だ。白地の、最も深い最奥部だぞ」
あの爺さまが、歩いてひと月と言った方角の、さらにその奥。
今朝、私が夜明けの尾根に立って見つめた、あの青白い霞の彼方で。
誰かが、二十年間、途方もない国家の機密を維持し続けていたのだ。
◆◆◆
「……二〇四四年」
明石さんが読み上げ、私が方眼紙に写した。
写して、人差し指で数字の列をなぞった。
私の爪の先が、ピタリと止まった。
数字は合っている。書き写しのミスではない。
合っているのに——これまでの二十年間の数字の並びと、決定的に揃っていなかった。
「……どうした、昊。手が止まったぞ」
「いえ……数字は合っています」
「なら、何を見つけた」
言葉が、すぐには喉から出てこなかった。
港の検数の現場で、私はこの奇妙な感覚を幾度となく味わってきた。
コンテナの封蝋に、爪の先ほどの微細な剥離があったとき。
書類の記録を調べ直すと、中継の港で一度だけ、庫内温度が〇・四度だけ跳ね上がり、すぐに元に戻っていた。書類の記述にはどこにも間違いはない。だが、完璧な書類の数字の裏側で、何者かが一度だけ、確実に荷に手を触れていたのだ。
「……下がっています」
私は言った。
「二〇四三年までの二十年間と、この二〇四四年からのデータで。……熱が消えたわけではありません。ですが、明らかに温度がガクンと下がって、その下がった一段低いレベルのまま、翌年以降もずっと続いています」
明石さんは手記の帳面をグッと手元に引き寄せた。
左手の指先が、私が書いた数字の列を二度、三度となぞった。
長い沈黙があった。
「……【段差】だ」
明石さんは顔を上げなかった。
「……よくぞ拾ったな、昊」
「検数の要領でやれ、と言われた通りにしただけです」
「言ったが……まさか、こんな微妙な温度変化まで見つけ出すとは思わなかったぞ」
「衛星のカメラの経年劣化や、観測精度のズレということはないんですか」
「ある。観測衛星の世代交代が行われた年は、データに段差が出ることがある」
明石さんは端末で衛星の運用履歴を呼び出し、照らし合わせた。
受話器の奥で、回線がまた一時間にわたって低く唸り続けた。
「……衛星の世代交代が行われたのは、二〇四一年と、二〇四九年だ。……この二〇四四年には、衛星の側には何の変更も起きていない」
明石さんは画面を見つめたまま言った。
「これは、観測する側の機械の段差じゃない。……観測されている【向こう側の施設の運用実態】に、決定的な段差が生じた証拠だ」
向こう側。
人が住んでいないはずの白地の最奥で起きた、巨大な運用の変化。
二〇四四年。
その年号をノートに書き記すとき、私の鉛筆の先が、微かに震えた。
——私が、すべての試験に落ちた年。
不合格の赤い判が捺された通知が、数日おきに自宅に届いた年。
そして、私が鞄ひとつだけを抱えて、物部の家を出ていった年。
喉の奥が、強く締め付けられた。
ただの偶然の一致にすぎない。世界のどこかでは、毎年、無数の出来事が起きている。
二〇四四年に変化のあった記録など、探せばいくらでも見つかるはずだ。
そうやって自分を納得させようとしたが、私の胸の奥のざわめきは、どうしても収まらなかった。
◆◆◆
「……先を読むぞ」
明石さんが言った。
二〇四五年。低い温度のまま、熱源は継続している。
二〇四六年。ある。
二〇四七年。ある。
そして——明石さんの読み上げる声が、次の行で突然、完全に途切れた。
明石さんは画面の再読み込みを二度繰り返させた。
遺産回線の細い唸り声だけが、暗い部屋の中に長く響き渡った。
囲炉裏の傍らで、あの足の悪い爺さまの言葉が、私の脳裏に蘇った。
——終わりは、知らん。膝をやってからは、山には入っとらんからな……。
爺さまが山を見に行かなくなってからも、その谷底の一点は、温かい熱を放ち続けていたのだ。
二十年ものあいだ、凍らない沢と雪のない地面を維持し続けてきた巨大な熱が。
一度だけ、二〇四四年に謎の段差を刻んで。
明石さんは、帳面のいちばん新しい行の数字を、震える左手で指し示した。
「——二〇四八年。熱が、完全に消えた」




