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第54話 藍染めの三角巾

紙の切符を、再び四枚買い求めた。


行きと同じ非認証の鉄道路線を、逆向きに辿って山奥へと戻るための四枚だった。


改札を抜けるたびに、駅員の金属鋏が硬い音を立て、厚紙の縁に半円形の切り欠きをひとつずつ刻んでいった。


丸二日間、私は一睡もしていなかった。


眠っていない生身の肉体は、電磁の律動を異様なほど鋭敏に拾い上げる。


列車の座席の背もたれに後頭部をあてがっていると、車両の下の線路で自動制御の経路が切り替わる微小な衝撃が、背骨を通して頭蓋へとダイレクトに伝わってきた。


三本目のディーゼル列車を降り、山あいのマイクロバスへと乗り換えた。


バスの汚れた車窓ガラスに、私自身の疲弊した顔が薄く映り込んでいた。


外の山並みの風景と二重露光のように重なり合い、輪郭だけがぼんやりと浮かんでいる。


眉間のあたりを、険しい山の稜線が横切っていた。


あの地下二階の面会室のガラス窓も、まったく同じ映り方をしていた。


机を挟んだ私の顔と、向こう側の母の顔が重なり合い、どちらも薄っぺらく透けて見えていた。


どちらが本物の顔で、どちらがガラスに映った幻影なのか、途中で分からなくなるほどに。


——開かれた面会の窓は、一度きりだった。


バスを終点で降り、私たちは再び歩き始めた。


山道へ足を踏み入れると、全身に絡みついていた都市の電磁律動が、一枚ずつ急速に剥がれ落ちていった。


街の中で皮膚にへばりついていた不可視の膜が、坂道を登るにつれて浮き上がり、冷たい山風の向こうへと綺麗に吹き飛ばされていく。


行きは、母を救うために、あの暴力的な電磁の震えの渦中へと飛び込んでいった。


そしていまは、その震えから遠ざかる、完全な静寂のほうへと歩いている。


どちらの向きへ進むにしても、私の両足は鉛のように重かった。


バスの終点の草むらに、見慣れない濃紺の塗装が施された不気味な車輌が一台、無人で停まっていた。


私はそれを見なかったことにして、足早に通り過ぎた。


養父母を、あの地下室から連れ戻すことはできなかった。


ただ、母が教えてくれた通りの「三行の約束」だけを懐に抱いて、私はこの山奥へと帰ってきたのだ。



   ◆◆◆



谷底の集落へ辿り着いたのは、山あいに夜の帳が完全に降りきった後だった。


六つの屋根は、私が出発したときと寸分違わぬ姿で寄り添っていた。


夕餉の時間を疾うに過ぎているにもかかわらず、トメの家の煙突からだけ、細い煙が立ち上っていた。


引き戸を開けて土間へ上がると、獣油と木炭の煤、そして薬草を濃く煮出した強い匂いが、順番に鼻腔を突いた。


囲炉裏の火は弱く落とされ、自在鉤は天井高く引き上げられて、鍋は掛かっていなかった。


明石さんは、奥の藁布団の上に横たわっていた。


「……戻ったか、昊」


その声は、驚くほど掠れて薄かった。


枕元へ駆け寄って、私は息を呑んだ。


明石さんの両頬が土気色の中に赤く火照り、目の縁だけが乾燥して異常な光を放っていた。


——高熱だ。


「……面会の窓は、どうだった」


明石さんが掠れた声で尋ねてきた。


「一度だけ開きました。二人の顔をこの目で確かめました。……ですが、連れ戻すことはできませんでした」


「君自身は、無事だったのか」


「捕まりませんでした。Kが遠隔で錠を開けてくれました。……ただ、監視カメラに私の顔を完全に録画されました。装置の映像は、外部のネットワークには流れていません」


明石さんは静かに両目を閉じた。


「映像を解析するのは、ずっとあとの人間だ。向こうが気づいた頃には、君はもう完全に網の外にいる」


男は苦しそうに、一度だけ深く息を継いだ。


「人質としての二人の価値は、むしろ跳ね上がったぞ。君が命がけで取り返しに来る人間だと、情報局の連中は骨身にしみて知ったわけだからな。……二人が殺されることはない。均衡は生きてる。上出来だ」


上出来、という男の言葉は、熱病のせいでいつもの統計屋の乾き方をしていなかった。



   ◆◆◆



トメが土間から上がってきて、明石さんの額に自分の手の甲をそっと当てた。


「……昼過ぎから、一気に熱が上がったよ」


私はトメの横に膝をつき、明石さんの右腕の包帯の巻き直しを手伝った。


布を剥がされた右腕を、私は直視することができなかった。


水ぶくれの破れた皮膚の表面が、赤黒い色からどす黒い紫色へと広範囲に変色していた。


指先は微かにピクピクと動いているが、肘から先の前腕には、まったく力が入っていない。


トメの手つきは、熟練の職人のように迷いがなかった。


布の端をつまみ、火傷に貼りついた部分は熱湯を浸した手拭いで慎重にふやかしてから、皮膚を傷つけないようゆっくりと剥がしていく。


「……完全に膿んでおるな」


トメが低く言った。


「沢の水で洗い、薬草の湿布で腫れを抑えてはいるがね。……皮膚の下の肉の奥深くで燻っとる炎症の火は、外からの塗り薬じゃ絶対に消せんよ」


「……抗生物質ですか」


「それがあれば、一発で治る」


トメは新しい白い布を巻き終えると、膝の上に散らばった糸屑を手で払った。


「その膿が、骨の髄に届く前ならまだ間に合う。……だが、骨まで腐ってしまってからじゃ、腕を肩から丸ごと切り落とすしかなくなるよ」


明石さんは、煤で黒ずんだ天井を見つめたまま呟いた。


「……随分と、はっきり現実を突きつける婆さんだな」


「はっきり言わんヤブ医者のせいで、昔、大事な人間を死なせかけたことがあるんでね」


トメは素っ気なく言い捨てた。


土間の壁を見上げると、梁に吊るされていた乾燥薬草の束が、わずか三把にまで減っていた。


私が出発する前には、十把以上あったはずの薬草が、この二日間の明石さんの治療のために、ほとんど使い果たされていたのだ。



   ◆◆◆



トメは奥の部屋の古い柳行李を開け、中から綺麗に畳まれた一枚の布を取り出してきた。


息を呑むほど深い、藍色の木綿布だった。


何十年も前の古い布地のはずなのに、その色彩は少しも褪せていなかった。


藍色というよりも、深い夜空の闇そのものを染め抜いたような、神秘的な色合い。


トメはその布を対角線に三角に折り畳み、明石さんの負傷した右腕を下から通して、首の後ろで固く結び合わせた。


三角巾だった。


「……動かすなと言っても、あんたはどうせ腕を動かそうとする。だから、こうして首から吊るのさ」


「……見事な、藍染めだな」


明石さんが首元の布を見つめた。


「わしが若い娘の頃に、自分の手で染めた布だよ。本物の藍は虫を寄せつけんし、血や膿の汚れも目立たん」


「……医学的な効能はあるのか」


「ただの気休めだよ」


明石さんは鼻からフッと短く息を吐いた。


男が熱病の中で微かに笑ったのだと、少し遅れて分かった。


「……トメさん、藍を建てるための甕(かめ)は、どこにあるんですか」


私が尋ねると、トメは囲炉裏の灰を均す手を止めずに答えた。


「とっくに割れたよ」


トメは言った。


「本物の藍というのは、生きた命そのものでね。木灰から取った灰汁を落とし、藁を焚いて温度を保ち、三ヶ月もかけてじっくりと建てるんだ。建ったあとも、毎日手を入れてかき混ぜて、機嫌を伺わなきゃならん」


「その甕が……」


「政変のあった年の大冬にな、厳しい寒波で凍りついて真っ二つに割れちまったのさ。……中の藍の命も、全部死んだよ」


トメは鉄の火掻き棒で、灰の上に一本の直線をスーッと引いた。


「甕を建て直すには、大量の藁が要る。だがこの山から田んぼが消えちまったから、藁の束ひとつ手に入らん」


囲炉裏の赤い火の粉が、明石さんの胸元の深い藍色の布の上で、ゆらゆらと揺らめいていた。


明石さんを撃ち倒したものは、音も閃光もない最新鋭の不可視の熱線兵器だった。


そしていま、その傷口を優しく包んで吊っているのは、この世界で二度と建て直すことのできない、滅び去った過去の藍の布だったのだ。



   ◆◆◆



「……さっき言った、診療所の話だがね」


トメが囲炉裏の鉄瓶に水を足しながら、こちらを見ずに言った。


「この山をさらに越えた、奥の深い谷底にある。政変の前は、国の営林署の詰所と一緒になっとった場所だ。……あそこの薬棚に抗生剤の瓶が残っとるという噂は、何年か前にも耳にした」


「ここから、どのくらい遠いんですか」


「足腰の達者な若い衆が歩いて、丸二日。……いまの弱り切ったあんたら二人じゃ、三日はかかるだろうね」


明石さんの化膿した右腕と、険しい二日間の山道の光景を、私は頭の中で並べ合わせた。


だが、いまこの場で即答できる答えなど、どこにも存在しなかった。



   ◆◆◆



夜も更けた頃、トメが囲炉裏で熱い白湯を沸かしていた。


コト、と土間の引き戸が外から鳴った。


入ってきたのは、集落の一番奥の家に住む、足の悪い古老の爺さまだった。


敷居をまたぐ際、痛む膝を庇うようにして土間の框に片手をついた。


その小脇に、太い薪が四本、大切そうに抱えられていた。


火傷の重傷人が担ぎ込まれてきたという噂は、わずか六軒の限界集落の中を、半日で筒抜けに伝わっていたのだ。


爺さまは薪を土間にコトリと置き、明石さんの右腕をじっと見つめた。


深い藍色の三角巾と、その下で腫れ上がっている腕の輪郭を。


どこで撃たれたのか、誰にやられたのか、なぜ追われているのか。


爺さまもまた、何ひとつ訊こうとはしなかった。


「……酷く、膿んどるな」


「ええ、膿んでますよ」


トメが短く答えた。それだけで、二人のあいだの会話はすべて成立していた。


爺さまは囲炉裏の端に腰を下ろし、痛む自分の膝を手のひらでさすった。


トメが鉄瓶を囲炉裏から持ち上げると、白い湯気がボワッと大きく立ち上り、煤で黒ずんだ梁の闇の中へと消え去っていった。


爺さまが、その立ち上る湯気の軌跡を、じっと目で追っていた。


「……湯気か」


トメの鉄瓶を持つ手が、ピタリと止まった。


「……爺さま。あんた、若い頃に北の山奥の飯場におったね」


「ああ、おったよ」


「あの時の話をしてやりな。……あの、冬の湯気の話をさ」


爺さまは、しばらくのあいだ沈黙していた。


そして、囲炉裏の赤い炭火に向けて、節くれ立った両手をゆっくりとかざした。


「……国有林の、営林の飯場だ。春の造林と、秋の木の伐り出し。雪の降る前に山に入って、春の雪が完全に消えるまで山を下りられんかった」


「北の山って、ここからどのくらい離れているんですか」


私が尋ねると、爺さまは静かに答えた。


「ここから北へ真っ直ぐ、生身の足で【ひと月】は歩く場所だ」


ひと月。


歩いて、丸一ヶ月の未踏の山奥。


「冬の間はな、土地の猟師について深い山に入った。あの界隈の男たちは、冬になると獣の毛皮を追うんだ」


爺さまは右手の指を三本立てて、また下ろした。


「……ある年の冬から、山の中に、妙な谷ができたんだよ」


「妙な谷……ですか」


「雪が……降っても降っても、絶対に積もらなくなったんだ」


囲炉裏の薪が、小さく爆ぜた。


「山には『雪線』というものがある。この標高から上は全部真っ白に雪が積もるという、厳格な境界線だ。……それがな、その谷の場所だけ、まるで巨人がくり抜いたみたいに、真ん丸く雪線が欠けとったんだよ」


「雪が、地熱で溶けていたんですか」


「溶けるどころじゃない、積もらんとだ。空からどれほど猛吹雪が降っても、地面が熱を食うようにして一瞬で消えちまう」


爺さまは陶器の湯呑みを両手で包み込んだ。


「沢の水も凍らん。真冬の寒波でも、川底の石に氷が一枚もつかん。……冷え込みの厳しい真冬の朝ほど、水面からモクモクと白い湯気が立ち上っとった。……いま、そこの鉄瓶が吹いた湯気と、まったく同じようにな」


「……獣たちは、どうなったんですか」


「集まるさ。真冬の極寒の山の中で、凍らない水と温かい地面がある場所なんて、そこだけなんだからな。山じゅうのウサギも、テンも、シカも、全部その谷底へ下りてくる」


爺さまは、今日初めて、皺だらけの顔を綻ばせて笑った。


「猟師にとっちゃあ、夢のような宝の谷だったよ」


「誰か、他の人にその場所を教えたんですか」


「教えるわけがなかろう」


爺さまは湯呑みを膝の前に置いた。


「自分の極上の餌場を他人に教える猟師なんて、この世に一人もおらんよ。他人に教えちまえば、次の冬からは一匹も獲れんようになるからな」


そのとき——奥の寝床の上で、明石さんがカッと両目を見開いていた。


いつから二人の話を聞いていたのか、まったく分からなかった。


「……爺さん。その谷の雪が積もらなくなったのは、一体【いつの冬】からだ」


爺さまは煤けた天井を見上げた。


「……旧政府の、最後の頃の冬だ。まだ、あの政変が起きる前の年だった」


「……その現象が終わったのは、いつだ」


「それは知らん」


爺さまは痛む膝をさすった。


「膝を悪くしてからは、山には入っとらん。もう二十年、足を踏み入れておらんからな。……いまどうなっとるかは、誰にも分からんよ」


「その谷には、一体何があったんだ」


「大昔の、鉱山跡だったそうだ。生い茂った藪の奥深くに、古い坑道の入口がぽっかりと残っとった。……とっくに死に絶えた廃山だよ。獣が出入りして、糞を散らかしとったくらいだ」


明石さんは、しばらくのあいだ固く沈黙していた。


「猟師の土地鑑の話なんぞ、山ひとつぶん平気でズレるからな」


「ズレるもんさ」


爺さまは怒ることもなく、穏やかに言った。


「わしらは山を、役所の座標や番号で呼んだりはせんからな」


「……だが、始まった【年】だけは、絶対にズレん」


明石さんが言った。


「谷の物理的な位置が多少ズレていたとしても、その熱が立ち上がり始めた年号だけは、絶対に誤魔化せん。……二〇二八年という年号さえ特定できれば、当時の宇宙衛星の地上温度の観測ログと、完璧に突き合わせることができる」


明石さんが、私の方へと熱い顔を向けた。


高熱に浮かされた瞳の奥底で、熱病とはまったく別の、冷徹な光がギラリと点っていた。


統計屋が、巨大な真実の数字を掴み取ったときの、あの獲物を射抜く目。


私は、手記の帳面を膝の上に伏せたまま、息を呑んだ。


昼間、私は命がけで養父母の顔を見てきた。だが連れ戻すことはできなかった。


その同じ日の夜に、見知らぬ他人の谷の奇妙な噂話を聞いて、私の身体の奥底の知覚が、激しく疼き始めていた。


「爺さんの話が真実かどうかは、いまの俺には断定できん。だが——」


明石さんは、深い藍色の三角巾で吊られた右腕ごと、上体を無理やりに起こそうとした。


トメが無言で手を伸ばし、男の肩を力強く布団へと押し戻した。


吊られた腕は、まだどこへも動くことはできない。


だが——男の鋭い眼差しだけは、すでに遥かなる北の山奥の暗闇へと、真っ直ぐに突き刺さっていた。



「——【熱源】だ」



明石さんが低く呟いた。


私と明石さんの視線が、囲炉裏の赤い炭火を挟んで、真っ向から交錯した。

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