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第53話 三行

旧庁舎の裏路地を三つ曲がり、ようやく立ち止まった。


コンクリートの壁に右手をつき、荒い息を静めようとしたが、肺の動悸は一向に収まらなかった。


全速力で走るあいだじゅう、作業着の懐に仕舞い込んだ手記の硬い角が、同じ場所で肋骨をコツコツと小突いていた。


そこだけが、体温を吸い込んで熱を持っていた。


——二人を、あの冷たい地下室に置いてきてしまった。


もし、二人が最初から私を「本物の人間だ」と信じてくれていたなら、私の心はどれほど軽かっただろう。


人間だと信じられないまま、それでも命がけで私を守ってくれたというその重みが、いま、私の両肩の上にずっしりと載りかかっていた。


明石さんは、あの山奥の集落の布団の上で言った。


——国家が養父母を保護したのは、君をおびき寄せて呼び戻すためだ、と。


獲物を呼び戻すための餌として生かされている限り、二人の命が今すぐ奪われることはない。


(……「餌」だなんて、自分の親を物のように考えている)


そう自覚した瞬間、私は壁からパッと手を離した。


だが、いまの私には、そうやって冷徹に計算する以外に、その場に立っている術がなかった。



   ◆◆◆



私は旧市街の雑踏へ向けて走り出した。


集落へは、まだすぐには戻れない。


戻る前に、どうしても果たさなければならないことが、たったひとつだけ残されていた。


古い集合住宅の一階の入口の前で、作業着の袖で顔の汗と涙を乱暴に拭った。


涙で目を腫らした男の顔は、あとから街の監視カメラや住民の記憶に残りやすいからだ。


薄暗い廊下の奥に、一台の公営端末が据え付けられていた。


港際の吹き溜まりの端末とは違い、頭上の蛍光灯がしっかりと生きていて、廊下の突き当たりまで白い光で照らしていた。


端末の金属筐体の脇のコンクリート柱に、紙の貼り紙が一枚、画鋲で留められていた。



〈二十日、水道設備の点検があります〉



定規で鉛筆の直線を几帳面に引き、その線の上に黒マジックで文字が並べられていた。


払いの線が短く、決して上手な文字ではない。


だが——誰かに読まれるつもりで、丁寧に書かれた温かな人間の字だった。


私は暗証番号を打ち込んだ。


テンキーのプラスチックの窪みに、見知らぬ住民たちの指の脂の艶が残っていた。


十個のキーに、五十音の行が割り振られている。


同じキーをポン、ポンと押すごとに、あ、い、う、と画面の文字が送られていく旧世紀の入力方式。


だからこそ、キーの窪みの擦り減り具合は、その行がこの街で押されてきた回数を物語っていた。


一(あ行)と、五(な行)と、六(は行)のキーが、一番深く擦り減っていた。


黒い表示窓に、新着の短信が一通浮かび上がった。



〈出口を開けた。次はない。急げ〉



たった一行。


下の七行の空間は、完全な黒い闇のまま静まり返っていた。


Kの送ってくる言葉は、いつも氷のように乾いている。


今日のメッセージには、送信者を示す「——K」という署名すら添えられていなかった。



   ◆◆◆



私は【新規送信】のキーを選んだ。


走ったあとの汗で指先が滑るのを、作業着の太ももでゴシゴシと拭った。


テンキーを叩いて、かな文字を打ち始めた。


宛先は、港の口入れ屋の関口さんの端末番号だ。そこからの転送を頼む。


あの帳場は、港の紙と言付けの結び目だ。


集落への地図も、山まで届いたあの手紙も、すべてあの人の手書きの紙を通して運ばれてきた。


それでも、いま打つ言葉が、あの地下室の母に確実に届くかどうかは分からない。


二人がまだあの面会室に残されているのかどうかすら、誰にも分からないのだ。


私の指先が、キーの上でピタリと止まった。


——「六」の窪みの上だった。


このキーを二度押せば、「ひ」という文字が立ち上がる。


三行の返信枠のうちの一行を使えば、ずっと私の胸の奥に刺さっていた、あの最大の問いを打つこともできた。



〈僕の旧い姓は、日向でしたか〉



港を出発したあの朝、私はその問いを親には訊かないと心に誓った。


誓ったまま、ここまで逃げてきた。


そして今日、母は私の逃げ道を作るために、命がけで監視官に嘘をついた。夫の持病の薬の名前を、私の命を救うための盾にしたのだ。


いまここでそんな問いを投げかければ、母はまた、自分自身を削って何かを差し出そうとしてしまう。


私は「六」のキーから指を離した。


三行で想いを届けると決めたのなら、使うべき言葉はそこではない。


私は迷いを捨てて、テンキーを力強く押し込んだ。


一文字ずつ、表示窓の最上段に緑色の文字が光っていく。


「読」という漢字を呼び出すために、私は変換キーを二度押した。


この古い機械は、その尊い文字を二番目の候補に置いていた。



〈読ませます。

必ず帰ります。

昊〉



本文が二行。


そして、私の名前の署名が一行。


合わせて、きっかり三行。


下の五行の空間は、完全な黒い静寂のまま残された。


——短いほうが相手に届く。長く書くのは、自分のためだ。


そうやって文字の書き方を教えてくれたのは、他ならぬあの母だった。


七行の悲鳴を寄越してくれた母に対して、私は、母が教えてくれた通りの三行の真実で返すのだ。


母は私と距離を置くことで、私の自由を守り続けてくれた。


だから私も、短く、凛とした言葉で返す。


港の帳場で、私は六年間、毎日コンテナの受領票に自分の名前を署名してきた。


荷物の数と書類の数字が合っているという証拠のための、ただの記号のような名前。


あんな署名を、本気で読んでくれる人間など誰ひとりとしていなかった。


数字さえ合っていれば、誰も私の名前など見ようとはしないのだ。


だが——今日のこの三行目の署名は。


この世界でたったひとり、私の書いた文字を涙を流して待ってくれている「読む人のいる名前」だったのだ。


背後の廊下で、カサリと足音が止まった。


買い物袋を提げたひとりの女性が、壁際に身を寄せて立ち、廊下の先を見つめて待っていた。


この回線を使う人々の、暗黙の作法。


順番を待つあいだ、他人が打っている表示窓を決して覗き見ようとはしない。


私の書く文章を覗きに来る人間など、生まれてから二十四年間、この世界に一人もいなかった。


その「覗かない作法」を守る見知らぬ他人が、いま、私の後ろで静かに待ってくれている。


私は【送信】のキーを力強く押し込んだ。


端末の画面に、一秒で「送信完了」の文字が灯った。


私は壁際の人に軽く会釈して場所を譲り、足早に廊下を出た。



   ◆◆◆



建物の外へ出ると、冷たい朝風が、汗の乾いた私の背中を撫でていった。


身体の奥底で、都市の巨大な電磁律動がジリジリと震えていた。


自動配送車の脈動。


交差点のセンサーの光。


街の冷酷な律動が、私の身体を通り抜けていく。


だが——今日の私の身体の奥には、その冷たい機械の震えの奥底に、もうひとつの温かな拍動が確かに息づいていた。


押し入れの奥の、あの古い行李の底に、年の順に重ねられている十六年ぶんの紙の束。


いちばん下にある、あの八歳の秋の感想文。


十歳の冬から、誰も読もうとしなかった私の文字。


——読ませてちょうだい、と。


私の書いた言葉を読ませてくれと懇願されたことは、二十四年間の人生の中で、今日が初めてだったのだ。


私は歩き出した。


山奥の集落へ戻る帰路、私の身体の奥底には、二つの激しい震えが鳴り響いていた。

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