第52話 母の嘘
「……帰ってきなさい、昊」
母のその言葉に、私は即座に「はい」と答えることができなかった。
喉の奥に言葉が詰まり、息を呑んでいるそのわずかなあいだに——廊下の向こうのコンクリートの床から、重い足音が近づいてきた。
席を外していた情報局の監視官が、面会室へと戻ってくる足音だった。
Kが開いてくれた「三分間」の電子の窓が、いま、無情にも閉じようとしていた。
◆◆◆
養母が、勢いよくパイプ椅子から立ち上がった。
壁の高い位置で赤く光る監視カメラのレンズへと、一度だけ鋭く目を上げた。
そして迷うことなく鉄扉へと歩み寄り、自分の身体ひとつぶんだけ扉を開けて廊下へと滑り出ると、後ろ手で扉を素早く引き閉めた。
古い鉄扉の隙間から、母の声が廊下へと鮮明に響き渡った。
「……すみません、監視官さん!」
母の声だった。
手習い塾で生徒たちに語りかけるときの、あの一語ずつ言葉を置くように喋る母ではなかった。
いまの母は、まったく言葉を置こうとしていなかった。
「主人の、お薬のことなんです……ッ!」
「え……?」
若い監視官の戸惑う声が返ってきた。
「血圧の薬です! 毎朝十時までに絶対に飲ませないといけないお薬なんです! お医者様からも、時間を過ぎたら危険だとあれほどきつく言われていて……!」
「あ、奥さん、薬なら後でこちらの手配で——」
「あの人、自分からは絶対に飲もうとしないんです!」
母の声は、怒涛の勢いで止まらなかった。
「飲むのを忘れるんじゃないんです、飲まなくても自分は平気だと思い込んでいるんです! 昔からずっとそうなんです! 何年か前にも、近所の坂の途中で血圧が上がって座り込んで動けなくなったことがあって、あのときも私が慌てて……!」
「奥さん、ちょっと待ってください」
「二階の、私たちが泊まっているお部屋の、黒い鞄の内ポケットに入れてあります! 白い紙袋です! いえ、白い袋は胃薬のほうで、血圧の薬は青い帯のついた——」
十分前、この面会室の中で母が話していた世間話。
桜の開花と、養父の高血圧と、祝儀袋の話。
あの無害な世間話の殻の一枚を、母はいま、監視官を欺くための盾としてそのまま利用していたのだ。
養母は、嘘をつくのが絶望的に下手な人間だ。
何かを隠そうとするとき、不安のあまり言葉数が無駄に多くなってしまう。
だが——いま母が激しく捲し立てている言葉の洪水の中で、事実と曲がっている部分は、たった一箇所しかなかった。
「いま、この瞬間に飲ませなければ手遅れになる」という、その一箇所だけ。
薬は部屋に実在する。養父が高血圧で薬を嫌がるのも完全な事実だ。
監視官が後からシステムで照合したとしても、その嘘は絶対に崩れない。
母の足音が、廊下の奥へと遠ざかっていった。
上階へと続く非常階段の方向へ、足早に歩き出している。
「……私、自分で部屋へ取ってきます! 置いてある場所は私が一番よく知っていますから!」
「ちょ、奥さん! 勝手に動かないでください、待ちなさい!」
若い監視官の焦った声が裏返った。
そして、母の背中を追って小走りに駆け出していった。
監視官の任務は、扉の前の見張りではない。
収容されている二人の老人の「人数の管理」なのだ。
上層部へ通報すれば、鵜飼統括官が到着する前に「保護対象の老人を廊下で見失った」という最悪の失態を報告することになってしまう。
だからこそ、男は自分の手で老人を連れ戻す道を選んだのだ。
この地下二階にいる三人の人間のうち、国家の名簿に載っているのは、養父母の二人だけ。
私は、国家のどの名簿にも載っていない。
数に入っていない人間は、煙のように消え去ることができる。
だが——数に入ってしまっている二人は、この部屋から逃げ去ることが絶対にできないのだ。
◆◆◆
養父が、無言で立ち上がった。
かけていた老眼鏡を外し、丁寧に二つに折り畳むと、スーツの内ポケットの奥深くへと仕舞い込んだ。
夕食のあとに私の答案の文字を読み耽るときにかけ、読み終えると外していた、あの眼鏡。
父親は、我が子の文章を「読む人」であることを、自ら静かにやめたのだ。
そして——私の右腕を、力任せにガシッと掴んだ。
この面会のあいだ、養父はただの一言も声を発しなかった。
だが、私の腕を掴み上げるその握力は、痛いほどに強かった。
正しい水路に水を通し、不当な水門を閉ざすための公印を、丸四十年捺し続けてきた男の手。
養父は私を椅子から強引に立たせ、面会室の最奥の壁へと力任せに押しやった。
緑色の非常口マークが光る、小さな鉄扉の前へと。
それは、水路を二つに分けるときの、熟練の治水官の手つきだった。
どちらへ水を流すべきかを心の中で冷徹に決断し、一度決めたら、何の迷いも見せない。
「……行け」
十八年間、一度も聞いたことのない、低く絞り出すような父親の命令の声だった。
私は非常扉のレバーを押し下げた。
扉の向こうに、真っ暗な細い非常階段が、上へ向かって伸びていた。
敷居のコンクリートの上に分厚い埃が溜まっており、扉が開いた弧の形に沿ってだけ、その埃がサッと掃き清められた。
何年ものあいだ、誰も通ったことのない死んだ非常口。
私は階段に足をかけ、最後に一度だけ振り返った。
養父は廊下側の鉄扉の前に仁王立ちになり、頑丈な金属把手を両手で固く握りしめ、自らの体重のすべてを扉の板へと押し当てていた。
廊下から誰かが把手を回そうとしても、その扉は、父親の生身の肉体によって内側から完全にロックされていた。
「……父さんッ!」
養父は、二度とこちらを振り返ろうとはしなかった。
ただ、背中越しに、魂の底から怒鳴りつけた。
「——行けッ!!」
◆◆◆
私は非常階段を一気に駆け上がった。
階段の踊り場を通過する瞬間、建物の遥か上方から、養母の甲高い叫び声が一度だけ響いてきた。
——白い袋のほうです!
それきり、声は完全に途絶えた。
母は、自分自身の命を削りながら、私に逃げるための秒数を買い与え続けてくれていたのだ。
階段を駆け上がった先に、重い鉄扉があった。
体当たりするように押し開けると、冷え切った段ボールと埃の匂い——さっき侵入してきた、地下一階の荷下ろし場だった。
〈出口は入口と同じ〉
Kが引いてくれた本来の脱出ルートは、あの廊下と中央階段だった。その道はすでに塞がれた。
だが、父親が開けてくれた死んだ非常口が、私をまったく同一の脱出地点へと吐き出してくれたのだ。
内扉の電子錠が、鮮やかな【緑色】に光っていた。
——K。
私はくぐり戸を抜け、コンクリートのスロープを無我夢中で駆け上がった。
スロープを抜け出すと——そこは、眩い朝の光に満ちていた。
裏通りの路地に出ると、角のパン屋の換気口から、焼きたてのパンの白い湯気がモクモクと立ち上っていた。
新聞配達の自転車が、乾いた音を立てて新聞をポストへと放り込んでいく。
民家の玄関先に、透明な牛乳の空き瓶が二本、綺麗に揃えて出されていた。
午前八時十分の、どこにでもある、あまりにも平和で残酷な都市の朝の風景。
私は走った。
作業着の袖で顔を拭いながら、涙をボロボロと流して走り続けた。
部屋の隅の、あの赤い監視カメラの目は、二人の行動のすべてを冷酷に録画していたのだ。
母の必死の嘘も。
父が体全体で扉を押さえつけ、私を逃がしたあの背中も。
あとからその映像を観るエリート官僚たちがやって来る。
二人が、その報復の恐ろしさを知らないはずがなかった。
養母は監視カメラの目の前で国家に嘘をつき、養父は監視カメラの目の前で私を外の世界へと押し出したのだ。
すべてを録画されていると知りながら、二人は私を逃がしてくれた。
信じてもらえなかった。
物心ついてから十八年間、私はあの人たちから「人間である」と信じてもらえたことなど、一度たりともなかった。
だが——あの人たちは、私のことを信じられないまま、自らの命を賭して私を逃がしてくれたのだ。
——信じられないということと、それでも命がけで守りたいという愛の気持ちは、まったく別のものなのだ。




