第51話 行李の奥
鉄扉を開けると、狭い面会室の机を挟んだ向こう側に、養父と養母が並んで座っていた。
部屋の中には、机がひとつと、パイプ椅子が四脚。
二人は手前の二脚の椅子に、互いの肩が触れ合うほど間を空けずに身を寄せて座っていた。
養父は私を見つめた。
見つめて、何も言わなかった。
八歳の秋から、この人はずっとそうだった。
言いたいことが何もないのではない。
国家の知能機械が出した判定結果に、生身の人間の手で公印の判を捺し続ける仕事を丸四十年務め上げてきた人が、どうしても判を捺すことのできない事態に直面したときの、あの痛ましい黙り方だった。
養母は私の姿を見るなり、小さく口を開いた。
一度閉じた。そして、震える唇をもう一度開いた。
「……痩せたわね、昊」
泣きそうになった。
喉の奥が熱く焼けるように痛んだが、私は必死に涙を呑み込んだ。
私たちに残された時間は、三分間しかないのだ。
「……二人とも、身体は大丈夫ですか。怪我はありませんか」
「ええ。ご飯もちゃんといただいてるし、お部屋も暖かいわ」
公営端末に届いた、あの七行の短信に書かれていたことと、まったく同じ言葉を繰り返している。
その声は、驚くほど平坦だった。
平坦を装い、感情の昂ぶりを押し殺すほうに、全身の力を使い果たしている声だった。
◆◆◆
私は二人の向かいのパイプ椅子に腰を下ろした。
コンクリートの壁の高い位置に、監視装置の小さな赤いレンズの点が灯っていた。
映像が内部ストレージに録画されている。
だが、私の身体の奥の知覚は、静寂を保っていた。
あの赤い光点から、建物の外部ネットワークへと送信されていく電磁の波形は何ひとつない。
録画データは、機械の内部のメモリに残っているだけだ。
前世紀の古い独立設計。
いまこの映像をリアルタイムで監視しているはずの人間は、廊下の見張りの椅子を空にして席を外している。
だから、まだわずかに猶予がある。
決して、長くはない時間。
養母は、不自然なほど明るい調子で世間話を始めた。
今年の春は近所の公園の桜の開花が早かったこと。
先月の健康診断で、養父の血圧が高いと医師に注意されたこと。
血圧の薬は毎朝十時までに飲むよう指示されているのに、あの人はいつも飲むのを忘れてしまうこと。
そして、手習い塾の昔の教え子が、今年の秋に結婚すること。
「……祝儀袋の表書きにね、名前を書いてあげたのよ」
養母の右手の親指が、人差し指と中指の爪の際を、無意識に何度も擦り合わせた。
半紙に墨をする手習い塾の仕事で、薄い墨の染みが皮膚の奥深くに染みついている場所だ。
「筆が見当たらなかったから、そこらの人から借りた油性ボールペンで書いたの」
養母は言った。
「でも、あれはいけないわね。ボールペンの線には、太いところも払いの強弱もひとつもないから……人の名前が、本物の名前に見えないのよ」
養父の白い眉が、ピクリとわずかに動いた。
私は黙って母の言葉を聞いていた。
養母はすべてを理解しているのだ。
部屋の隅のカメラに、一挙手一投足を録画されていることを。
だからこそ、レンズの目の前で、桜と、血圧の薬と、祝儀袋の無害な世間話をしているのだ。
無害な世間話の殻で、外側を一重ずつ丁寧に包み込んでいる。
その安全な殻の奥底で、二人が本当に伝えたかった言葉の本体が、いま、ゆっくりと私に向かって近づいてきていた。
養父は終始、一言も発しようとはしなかった。
膝の上に両手を静かに重ねて、ただじっと座っている。
太い青筋の浮き出た、無骨な老人の手。
手の甲に、昔の書類綴じの針で引っ掻いた古い切り傷が、幾筋も白く残っている。
夕食が終わったあとの居間で、私の検定答案の余白に、真っ赤な色鉛筆で無言で線を引いていた、あの厳格な手だった。
「……お父さんはね、最近、同じ階の入居者の方に、碁の打ち方を教えてもらってるのよ」
養父は母の言葉を、否定も肯定もしなかった。
◆◆◆
だから——その次の言葉が放たれた瞬間、私は何の身構えもできていなかった。
「……あのね、昊」
養母が言った。
「なんですか、母さん」
「あなたの書いたもの……私、本当は全部取ってあるのよ」
養母の両目が、真っ直ぐに私の瞳の奥を射抜いていた。
「一枚も、捨ててないの。押し入れのいちばん奥にある、柳行李の底に……年ごとに、古い順から綺麗に重ねてあるの」
私は息を呑んだ。
知っているつもりだった。
十二歳の春、一度だけ襖の隙間から見た光景。
紐で固く括られた分厚い紙の束を胸に抱えて、養母が薄暗い廊下を歩いていったあの日のこと。
束のいちばん上に、私が小学校で書いた綴り方の表紙が見えていた。
そしてその束は、押し入れの奥深く、埃を被った古い行李の暗がりの中へと仕舞い込まれたのだ。
家族の目に触れない、暗黒の場所へと隔離されたのだと思っていた。
捨てるに捨てられず、手元に置いておくこともできず。
それは、ゴミとして処分されることと一体どこが違うのだろうと、当時の私は絶望の中で自分を責め苛んできたのだ。
「……いちばん下にあるのはね」
養母の声が、微かに震えかけた。
だが、すぐに塾の先生の凛とした声へと戻した。
「あなたが八つのときに書いた、あの感想文よ。……初めて、学校から赤い判が捺されて返ってきた、あの一枚」
養母の手が、養父の膝の上の手の甲を、そっと優しく撫でた。
——『銀河鉄道の夜』の感想文。
カンパネルラは最初から汽車に乗る前から川で溺れて死んでいたのだと、ただ事実だけを几帳面に書き連ねて、全校生徒の中で私ひとりだけが職員室に呼び出された、あの一枚。
原稿用紙の右肩に、鮮血のような赤いゴム印が捺されていた。
〈陽性——人格非認証〉。
赤いインクは紙の繊維の奥深くまで染み渡り、裏面まで黒ずんで突き抜けていた。
——年の順に、重ねてある。
ただ暗闇の中に放り込んで、二度と見ないように放置していたのではなかったのだ。
紐を解き、日付の欄を確かめ、一枚ずつ、成長の順に重ね直していたのだ。
十六年ぶんの、膨大な私の答案のすべてを。
私は思い違いをしていた。
机の上の紙を順番に並べ直すというのは、いつかそれを「読む」人間の行う仕事なのだ。
ゴミとして捨てる人間は、書類の日付の順番など絶対に揃えたりはしない。
◆◆◆
「……私ね」
養母が言った。
「字の形は、ずっと見ていたのよ」
手習い塾で子どもたちに教科書を音読させるときの、あの静かで澄んだ速度になっていた。
一語一語を、魂の底から置くように。
「毎年、並べて見比べていたの。あなたが八歳のときの字と、九歳の字と、十歳の字と……」
「……」
「身体が大きくなるにつれて、字の大きさも変わったわ。ペンの傾きも変わった。あなたが九歳の春に、一度だけ字がひどく細くなって……そのあと、また元の力強い字に戻ったの」
養母は真っ直ぐに私を見た。
「——でもね。あなたの字は、十六年間、ただの一度も乱れなかったのよ」
港の薄暗い集合住宅の廊下の端で、公営端末の受話器越しに聞いた、母のあの言葉。
——あなたの字はね、昊。乱れなかった。
十六年間、国家の知能機械から幾度となく偽物だと判定され、人間性を否定され続けても、それでも一度たりとも乱れなかったと。
あの日、なぜ母にそんなことが断言できたのか、私には分からなかった。
いま、すべてが分かった。
この人は、私が生まれてから書いたすべての文字を一枚も捨てずに手元に残し、毎年、自らの生身の眼で見比べてくれていたのだ。
「……でもね」
養母の唇が小さく震え、そして止まった。
「中身の文章は……私、読まなかったの」
「……え?」
「一枚も、読めなかったのよ」
「……」
「——怖くて」
母の言葉の数は、増えなかった。
何かを隠そうとするときに言葉が多くなるこの人が、ここでは一言も言葉を増やそうとしなかった。
「……もし、その中身を読んでしまって……そこに書かれている言葉が、本当に機械の言葉でしかなかったら……そう思ったら、怖くて、どうしても読めなかったのよ……ッ」
母の声が、そこで途切れた。
続きの言葉は、もう出てこなかった。
代わりに養母は、膝の上で重ねていた両手を固く握り直した。
爪の先が、真っ白になるほど強く。
手習い塾の先生は、生徒の書く「字の形」を見る。
払いの角度を見て、筆を入れる起筆の力を見て、行の曲がりを見る。
だが——それは、文章の魂を「読む」こととは違うのだ。
十六年間、この人は私の書いた文字をずっと見守り続けてくれていた。
だが、恐怖のあまり、その中身を一行たりとも読むことができないまま。
読まずに、それでも我が子を愛し続けるために、あの暗い行李が必要だったのだ。
十歳の冬から、私の書いた文章を本気で読んでくれる人間は、この世界のどこにもいなかった。
机の上の赤鉛筆は削られたまま卓の隅に転がり、二度と私の答案を赤く染めることはなかった。
その文章を読めなかった母が、いま、机の向こうで私を見つめている。
母さんは、行李を捨てなかった。
読むことのできない我が子の魂の記録を、年の順に丹念に並べ直して、暗闇の底で大切に守り続けてくれていたのだ。
だからこそ、私の十六年間の魂の束は、いまもあの押し入れの奥深く、古い行李の底に静かに眠っている。
いちばん底にあるのは、あの八歳の秋の感想文。
養母は涙を拭い、私に向けて、今日いちばんの強い声で言った。
「——帰ってきなさい、昊。今度こそ、あなたの書いたものを、私に全部読ませてちょうだい」




