第50話 搬入口の三分間
管理境界の最果てにある無人駅のベンチで、浅い仮眠の一夜を明かした。
夜明け前の暗闇の中で、冷たい風に吹かれて目が覚めた。
私はトメが持たせてくれた干し飯の布包みを開き、乾いた米粒を口に含んで奥歯でガリガリと噛み砕いた。
乾燥しきった米は、唾液を含ませて噛み締めるほどに、奥から素朴な甘みが染み出してくる。
水を含ませずにそのまま噛んだのは、近くに清潔な水場がなかったからだ。
硬い米粒を力任せに噛み砕き続けたせいで、朝のうちから両顎の筋肉が酷く疲労していた。
始発の非認証列車に乗り込み、途中で二本目の支線へと乗り継いだ。
ポケットの中の、あの四枚の紙の切符を使って。
列車の車窓を、あの静かな集落の方角の山並みが遠ざかっていくのを、私はあえて見つめないようにした。
振り返ってしまえば、あの何もない温かな静寂の世界へと、無性に逃げ帰りたくなってしまうからだ。
列車が都市の逓減帯へと突入したのは、二本目の車両が走り出してから間もなくのことだった。
その瞬間——私の身体の奥底で、後頭部が悲鳴を上げるように激しく痛んだ。
丸五日間のあいだ、私の身体には何の電磁波も触れていなかった。
囲炉裏の火の粉と、夜空の無数の星屑と、そして完全な「無音」だけが存在していた。
知能機械の網膜から遠く切り離されていたあの五日間のあいだ、私の肉体は、ただの空っぽの器になっていたのだ。
その空の器の縁に、再び都市の巨大な電磁の拍動がドッと触れた。
自動配送車の加減速の脈動。
交差点の信号の高速な切り替わり。
巨大な高層ビルのインテリジェントシステムが応答する、高周波の微振動。
それらの不可視の電磁の奔流が一瞬にして私の皮膚から流れ込み、頭蓋骨の奥を稲妻のように貫いた。
寒気でもないのに、奥歯が激しく噛み合わなかった。
——あの巨大な怪物の都市が、私の身体の中へと、暴力的に戻ってきたのだ。
降り立った駅の改札口には、青い光を放つ認証センサーの柱が二本と、その端にひとつだけ、木製の小さな手動扉が残されていた。
私が持っている紙の切符は、最新の電子ゲートを通ることはできない。
木製扉の小窓の内側に初老の駅員が座っており、差し出された私の切符を無言で受け取ると、足元の木箱の中へと放り込んだ。
箱の底に、まったく同じ長方形の厚紙の切符が、十数枚ほど溜まっていた。
今日この街で、電子の台帳に名前を刻まず、紙の切符だけで移動した人間の数だった。
駅員は、切符を差し出した私の指先を一度も見ようとはしなかった。
男が見つめていたのは、ただの紙の切れ端だけだった。
作業着の肩に残る荷擦れの跡も、誰の目にも留まらなかった。
「誰の目にも見られないための服」を着てきた私は、計算どおり、誰の視線にも引っかかることなく改札を通り抜けた。
歩き出しながら、作業着の懐に手を当てると、手記の硬い角が私の肋骨を内側から突いてきた。
◆◆◆
目的地である旧庁舎の建物は、逓減帯の最外縁の区画にひっそりと佇んでいた。
政変前の古い官庁建築で、周囲に立ち並ぶ最新の高層ビル群に押し潰されるようにして、不気味に低く構えている。
重厚な石造りの外壁。
都市のビルを覆い尽くしている派手なホログラム広告膜は一枚も貼られておらず、認証番号のない黒ずんだガラス窓が整然と並んでいる。
建物の正面玄関には、侵入者を瞬時にスキャンする生体認証のゲートが何重にも聳え立っていた。
だが、Kの極秘指示は、最初からその正面突破を完全に捨て去っていた。
〈搬入口は地下一階。
食料搬入の物理ルート。
認証なし。旧い設計のまま〉
午前七時四十五分。
私は建物の裏手の路地へと回り込んだ。
建物の背面に、大型トラック一台分がようやく通れる幅のコンクリートのスロープが、地下へと向かって深く口を開けていた。
スロープの底に、食料配送車が車輪の尻をつけて荷物を降ろすための、小さなコンクリートの平場がある。
地上からは巨大なコンクリートの庇が覆いかぶさっているため、上空の監視ドローンのカメラからは完全な死角になっていた。
大気中のスマートダストの散布密度が、この薄暗い一角においてだけ、極端に薄くなっていた。
近代化の改装予算が届いていない、前世紀の古い設計構造がそのまま放置されているのだ。
私は物陰に身を潜め、深く息を吐き出しながら、建物の電磁律動を丹念に読み解いていった。
集落にいた五日間には決して使えなかった、私自身の耳の知覚。
建物の脈動が私の身体を通り抜けるたびに、この巨大な構造物の「呼吸のリズム」が手に取るように見えてきた。
スロープを昇り降りする無人トラックの間合い。
荷台からコンテナが降ろされる金属音。
それは、私が港の帳場で六年間毎日繰り返してきた、検数の手つきと完全に同一のものだった。
搬入される荷の数と、運び出される空コンテナの数を、頭の中で正確に読み上げる。
帳簿の数がピタリと合えば、次の配送便がやって来るまで、現場の物理は完全に静止する。
早朝の定期搬入作業が一巡すれば、この地下搬入口は、完全な深い眠りへと落ちるのだ。
そして搬入口が眠りについているあいだ、国家の監視システムは、このゴミ捨て場のような死角を決して見にこない。
午前七時五十八分。
最後の大型トラックが、スロープの坂道をガラガラと音を立てて登り、地上へと去っていった。
重い鉄製のシャッターが、ガシャンと大きな音を立てて完全に降りきった。
そのシャッターの右端に、人間ひとりが屈んで通れるサイズの、小さな「くぐり戸」が切られていた。
電子のオートロックなど存在しない。
旧世紀の設計そのままの、鉄の掛け金だけで留められた手動の扉。
私はスロープの傾斜を、足音を殺して一気に駆け下りた。
コンクリートの壁に、自分の荒い息遣いだけが跳ね返ってくる。
私は鉄の掛け金を静かに跳ね上げ、身体を低く折り曲げて、くぐり戸の闇の中へと滑り込んだ。
荷下ろし場の内部は、完全な薄暗がりに包まれていた。
冷え切った段ボールと埃の匂い。圧迫感のある低い天井。
その奥の壁にひとつだけ、庁舎の内郭へと通じる頑丈な鉄扉が存在していた。
その重い鉄扉のノブの上に、小さな電子錠が取り付けられていた。
暗闇の中で、ひとつの赤いLEDの光点が、警戒のサインを灯している。
午前八時〇〇分。
その赤い光点が、チッと微かな電子音を立てて、鮮やかな【緑色】へと切り替わった。
——Kだ。
電磁ロックが、遠隔操作によって解除された。
開かれた逃げ道の窓は、きっかり三分間。
◆◆◆
私は鉄扉を押し開け、内部へと侵入した。
目の前に、冷たいコンクリートの階段が一本、地下深くへと伸びていた。
何十年も換気されていない、カビと石灰の古い空気の匂い。
〈養父母は地下二階の面会室。
搬入口から階段一つ〉
Kの短信の通り、階段の数はきっかりひとつだけだった。
この階段を一気に駆け下りれば、そこが地下二階だ。
踊り場の天井の高い位置に、監視センサーの小さなカメラの目が赤く光っていた。
だが、私の皮膚の知覚には、何の警告も走らなかった。
私に触れた不可視のセンサーの光線が、何の反応も示さずに、そのまま素通りして離れていく。
ダイモンの生体IDを最初から持たない私の肉体は、国家の警戒リストのどこにも存在しないのだ。
台帳に登録されていない人間は、システムにとって「存在しない透明人間」と同義である。
国家の知能機械にとって、いま階段を駆け下りている私は、ただの壁の振動やネズミの足音と何ひとつ変わらないのだ。
十六年間、国家の名簿からゴミとして弾かれ続けてきた私の孤独な肉体が。
いま、この極限の戦場において、最強の不可視の盾となって私を守っていた。
地下二階に降り立った。
細長い直線のコンクリート廊下。
左右の壁に、分厚い鉄の扉が三つ並んでいた。
そして廊下の突き当たりに、上階の警備室へと続く非常階段の出口が見える。
三つ並んだ扉のうち、真ん中の部屋の前に、木製のパイプ椅子が一脚だけポツンと出されていた。
警備の見張りのための椅子。
いま、その椅子は完全な空席だった。
そして——その椅子の背もたれに、一着の黒い上着が無造作に掛けられていた。
皺ひとつない、完璧に仕立てられた最高級のダークスーツの上着。
警備員や末端の刑務官が身につけるような布地では、断じてなかった。
私はその上着の仕立ての美しさを、過去に二度、この目で目撃している。
明石さんの古紙倉庫で、紙の山を一枚も踏まずに歩いた男。
そして昨日の山道で、完璧な角度のお辞儀をして去っていった男。
この上着が鵜飼慎一のものであるのかどうかは、私には分からない。
だが、あの国家情報局のエリート側の人間が身に纏う、血の通わない布地そのものだった。
今朝、情報局の誰かが、私の養父母に重大な用件があってこの部屋を訪れているのだ。
正式な取り調べか、それとも出頭を迫るための最終確認か。
だからこそ、この朝八時という時刻に、養父母はこの地下の密室に連れてこられているのだ。
尋問が始まる前の、ほんのわずかな空白の隙間に、Kは侵入の窓をこじ開けたのだ。
早朝搬入の眠り。
見張りの一時的な不在。
そして、上着の主の到着の遅れ。
その奇跡のような三つの偶然の隙間が、いま、この瞬間に重なり合っていた。
Kが仕組んだのか、それとも冷徹に確率を読み切っただけなのか。
どちらにしても、開かれた窓は、すでに閉じかけていた。
私は椅子の横をすり抜ける際、掛けられた上着の袖に、右手の指の背をそっと滑らせた。
——まだ、温かい。
上着の主の生身の体温が、布地の繊維の奥に確かに残っていた。
私は迷うことなく、その部屋の鉄扉の金属把手を力強く握りしめた。
冷たい金属の感触が、私の掌の体温を一瞬にして奪っていった。




