第49話 窓は一度だけ
翌朝、奥の部屋の遺産回線の黒電話が、再び短く鳴った。
受話器を取った。
耳を澄ませたが、人間の肉声は聞こえてこなかった。
代わりに、壁に据え付けられた金属筐体の小さな表示窓に、文字が灯った。
手のひらほどの黒い液晶画面の上に、緑色の四角い文字が、一文字ずつパチパチと光を放ちながら浮かび上がっていく。
横に二十字、縦に八行。
地下回線の向こう側で叩かれているテンキーの信号が、その小さな枠の中に、規則正しく文字を送り込んでくる。
送信者は——Kだった。
〈面会の窓は明後日の朝。
一度だけ。
——K〉
わずか三行。
下の五行の空間は、完全な黒い闇のまま静まり返っていた。
私はテンキーを叩き、問いを返した。
〈場所は〉
数十秒の沈黙があった。
Kが向こうの端末で、二十字×八行という極小の枠の中で、削ぎ落とすべき言葉を慎重に選んでいる間だった。
やがて、返信の文字が流れるように表示窓を埋めた。
〈施設は逓減帯外縁の旧庁舎。
正面は認証。
搬入口は地下一階。
食料搬入の物理ルート。
認証なし。旧い設計のまま〉
続けて、間髪を入れずに二通目が届いた。
〈養父母は地下二階の面会室。
搬入口から階段一つ。
出口は入口と同じ。
窓は一度だけ開く。次はない〉
さらに、決定的な三通目。
〈搬入口の内側に緑の電子錠。
施設側から施錠。
0800に遠隔で解く。
窓は三分。
——これ以上は言えない〉
五行、四行、そして五行。
極限まで無駄を削ぎ落とした二十字の短文の連打が、要塞のような国家施設の唯一の抜け穴のすべてを克明に描き出していた。
Kという人物が一体何者であるのか、私はいまだにその素顔すら知らない。
声を聞いたこともない。
ただ、この狭い液晶の緑色の文字の向こう側でしか繋がったことがない存在。
その素性も意図も分からない謎の他人が開けるという、わずか「三分間」の電子の隙間を信じて、私は単身で敵の巣窟へと飛び込むのか。
表示窓の緑色の文字が、上の行から順にフッと消え去り、元の冷たい黒いガラスへと戻っていった。
◆◆◆
板の間に戻ると、明石さんが寝床から身を起こそうとして、左手を床に突き、激痛に顔を歪めて声を殺した。
「……一人で行く気か、昊」
「明石さんのその腕では、足手まといになります」
「速さの問題じゃない! 国家が仕掛けた見え透いた罠の中に、丸腰の人間が一人で飛び込んでどうする!」
「明石さんだって、あのとき一人で私の前に現れたじゃないですか」
私の言葉に、明石さんは言葉を失って口を噤んだ。
Kからの極秘依頼を受け、学会を追放された身でありながら、国家に嵌められると百も承知で私の前に現れたあの日、この男もまた完全な一人きりだったのだ。
「……君は、Kを信じているのか」
明石さんが低く問うてきた。
「信じてなどいません」
私は即座に答えた。
「ただ——あの人が差し出してきた道具を、私が最大限に《《使う》》だけです」
明石さんは土壁に深く背をもたれさせた。
そして、左手だけでノート端末を引っ張り出した。
電波の遮断されたこの谷底では、外部のネットワークから新しいデータを引くことはできない。
だが、都市から逃亡する直前に男がローカルストレージへと落としておいた、大量の公文書の図面データが生きていた。
明石さんは左手の人差し指だけでキーを叩き、旧庁舎の地下構造図を画面に呼び出した。
読み上げる口の動きと、キーを叩く左手。
動かない右腕の機能を、男の生身の口が半分肩代わりしていた。
やがて、画面に青白い地下構造図が表示された。
「……手記の方眼紙を出せ、書き写すぞ」
紙に図面を模写する段になって、明石さんは鉛筆を左手に持ち替えた。
だが——不器用な左手で引かれた線は、小刻みに激しく震えた。
搬入口を示す四角い枠が、どうしても綺麗な四角形にならなかった。
二度書き直し、三度目に線が大きく歪んだところで、明石さんは自ら鉛筆を放り出した。
「……読めるか、この図面」
「読めませんね」
「だろうな。……これは、俺の字じゃない」
鉛筆が、私の手元へと差し出された。
私は鉛筆を受け取り、手記の余白のページに図面を引き直した。
地下一階の食料搬入口。そこから伸びる一本のコンクリート階段。地下二階の直線廊下。そして、突き当たりに並ぶ三つの面会室。
描くべき線の数は驚くほど少なかった。
迷う余地のない、あまりにも単純すぎる一本道。
単純すぎるがゆえに、私は描き終えたあと、鉛筆の先を紙から離すタイミングが一瞬遅れた。
「……地下二階の廊下に、面会室が三つある」
明石さんが言った。
「Kの情報には、三つのうちのどの部屋に養父母がいるのか、書かれていないぞ」
「訊いても無駄です。あの人のことですから、どうせ『現場に行けば分かる』としか返してこないでしょう」
明石さんの指先がピタリと止まった。
「……君たちは、ずっとそうやって言葉を交わしてきたのか」
「ええ、二十四年間ずっとです」
明石さんは深く息を吐き出し、私が描いた図面へと目を落とした。
そして、三つの四角い部屋のマークの上を、左手の人差し指で順に軽く叩いた。
「制限時間は、きっかり三分間だ。扉を三つ開ける時間はない。間違いの部屋を二回引いたら、その瞬間にタイムオーバーで警備員に囲まれて終わるぞ」
「……」
「最初の一発で、本物の部屋を当てられるのか」
「当ててみせます」
明石さんはそれ以上、何も言わなかった。
何も言わないことで、私の覚悟を確かに受け止めていた。
◆◆◆
荷物を必要最小限に選別した。
持っていくのは、トメが作ってくれた干し飯と、水筒の水、そしてあの四枚の紙の切符だけ。
肩掛けの鞄は、この集落に置いていくことにした。
肩に荷物を掛けている人間は、施設の荷下ろし場では一瞬で監視カメラの目に留まってしまうからだ。
服装は、港の帳場で六年間着古してきた、油と泥の染みついた検数の作業着を選んだ。
両肩に、コンテナの荷擦れで擦り切れた生々しい跡がある。
この使い古された作業着を着ていれば、早朝の食品搬入の現場において、私はただの「背景の風景」と同化することができる。
手記の帳面だけを鞄から抜き取り、作業着の内ポケットへと深く滑り込ませた。
「……手記は置いていけ」
明石さんが言った。
「万が一捕まったら、その記録のすべてが国家の手に渡るぞ」
「手記が取られるときは、私自身も一緒に捕まっているときです」
「……それもそうだな」
上着の内側で、硬い手記の角が、私の肋骨にコツリと当たった。
一歩を踏みしめるたびに、そこに紙があるという確かな重みが、私の生身の骨を通して伝わってきた。
◆◆◆
面会の約束の時刻は、明後日の朝八時ちょうど。
徒歩での山越え、バス、そして半日に及ぶ非認証列車の旅。
管理境界の端で一夜を明かし、翌朝一番の始発列車で逓減帯へと突入するしかルートはなかった。
出発は、明日の早朝と決めた。
その夜、トメは囲炉裏で炊き上げた白米を平たい竹笊に移し、薄く均一に広げた。
粗塩を指先でひとつまみ取り、パラパラと三度、丹念に振りかける。
囲炉裏の脇の温かい灰のそばに置き、床に就く前にもう一度だけ、しゃもじで静かに掻き混ぜた。
翌朝、夜明け前の光の中で、その米はカラカラに乾ききった見事な保存食(干し飯)へと仕上がっていた。
トメはその乾いた飯を清潔な木綿の布に包み、口を丈夫な麻紐で固く縛って私に手渡した。
トメは土間の門口に立っていた。
右手には、あの研ぎ澄まされた鉈を持っていなかった。
「……沢を二つ渡りきったら、右の尾根へ真っ直ぐ上がっていきな」
トメは言った。
「左のほうに歩きやすい道が見えるが、あれは遠回りだ。左を行ったら、昼のバスに間に合わんようになる」
私がどこへ向かい、何のために命を賭けようとしているのか。
老女は、その理由を何ひとつ訊こうとはしなかった。
その代わりに、生き延びるための確かな山道だけを教えてくれた。
「……死ぬんじゃないよ」
私は布包みを固く受け取った。
布の奥で、カサリと乾いた干し飯の粒が、小さく音を立てて鳴った。
私は一度も後ろを振り返ることなく、早朝の冷たい霧が立ち込める山道を、力強く歩き始めた。
——ただ一人で。




