第48話 七行
私は黒い受話器を耳に当てた。
銅線の向こうから聞こえてきたのは、Kの声ではなかった。
聞いたことのない、見知らぬ男の低い嗄れ声だった。
早口で、途中で一度も息を乱さず、暗記した書類を一気に読み上げるような無機質な口調だった。
「……関口の伝手でこの回線に繋いでもらった。Kからの至急の伝言を預かっている」
受話器の向こうで、ペラリと紙をめくる乾いた音が響いた。
読み上げる男の声のトーンは、途中で一度も上がらなかった。
文章の意味を自分自身で理解しようとせず、ただ言われた文字をそのまま音へと変換している読み方だった。
伝言は、二つあった。
ひとつ目は、冷酷な事実の報告だった。
私の養父母——物部夫妻が、国家情報局の管轄する施設へと連行され、収容されているという知らせ。
形式上は、任意の「保護」という名目。
拒否することは法的には可能だが、拒否した場合に老夫婦の身に何が起きるかについては、何ひとつ説明されていないという。
そして、二つ目の伝言は——養母からの直筆のメッセージだった。
男は、紙に書き写された文字を、淡々と読み上げた。
〈お父さんもわたしも元気です。
心配いりません。
ここの人たちは親切です。
食事もちゃんと出ます。
あなたはずっと自分のことだけ考えなさい。
お父さんが体に気をつけろと言っています。
——母より〉
——七行。
本文が六行。
そして、差出人の署名が一行。
合わせて、きっかり七行の文章だった。
いつも母が寄越す短信の署名は、「母」という漢字一文字だけだった。
それが今日に限って、「——母より」という丁寧な結びになっている。
あの人は、誰かに手紙を書くときに宛名など書かない。
公営端末の識別番号さえ合っていれば、宛先の指定などそれで十分に足りるからだ。
それなのに、名乗り方だけが不自然なほど余所余所しく丁寧になっている。
情報局の監視員の目の前で、監視カメラに覗き込まれながら打たされた文字なのだ。
他人の視線に晒されながら書かされた文字は、無意識のうちに硬く丁寧になってしまうものだからだ。
養母の短信は、私が物心ついてから十八年間、常にきっかり【三行】だった。
「元気です。心配いりません」で一行。
「体に気をつけて」で一行。
そして最後に、署名の「母」で一行。
どんな時でも、三行の枠の中にすべてを収める人だった。
貧民街の手習い塾で、子どもたちに「言葉は短いほうが、相手の心に真っ直ぐ届く」と教え続けてきた人だった。
その人が——今日は、七行も書き連ねている。
記憶の中にある、公営端末の小さな液晶画面が脳裏に浮かんだ。
八行の表示窓のうち、上の三行だけに緑色の文字が灯り、下の五行は真っ黒な闇のまま。
それこそが、あの人の十八年間の揺るぎない平常の姿だった。
だが今日のメッセージは、下の黒い余白がたった一行分しか残されていない。
「心配いりません」という言葉は、人間が心の底から激しく心配しているときにしか口にしない言葉だ。
本当に何の心配もない平穏な日々には、人間はそんな言葉を口に出すことすらしない。
十八年間、あの人の背中を見て生きてきたからこそ、私にはそれが痛いほど分かった。
「ここの人たちは親切です」——自分たちが自由のない収容施設に閉じ込められているという告発。
「食事もちゃんと出ます」——外部への出入りが完全に禁止されているという事実。
養母は、嘘をつくのが絶望的に下手な人間だった。
何かを隠そうとすればするほど、不安のあまり言葉の数が無駄に増えてしまう。
三行で足りるはずの人が、七行も書いた。
——増えてしまったあの四行の言葉こそが、養母の魂の血の滲むような悲鳴だったのだ。
私は受話器を静かに置いた。
手記の帳面を取り出し、いま読み上げられた七行の言葉を、一行ずつ鉛筆で書き写した。
書き写しながら、左端の行頭を几帳面に揃えた。
行頭を揃えると、普段の三行からはみ出した四行ぶんの過剰な言葉たちが、紙の右端へと痛々しく飛び出していった。
◆◆◆
明石さんは藁布団に横たわったまま、私の青ざめた表情を見つめていた。
「……親御さんのことか」
「情報局の施設に、連行されました」
「……罠だな」
明石さんの声は低く、苦々しさに満ちていた。
男は包帯でぐるぐる巻きにされた右腕を庇いながら、上体をゆっくりと起こした。
「国家が君の養父母を人質に取ったのは、君を都市へおびき寄せるためだ。面会を持ちかけ、出頭を迫り、自ら網の中へ飛び込ませるための古典的な誘い水だぞ」
「分かっています」
「分かっていて、行くつもりなのか」
明石さんの問いに答える前に、私には伝えなければならない重大な事実が、もうひとつあった。
電話の男は、最後に一言だけ、恐るべき情報を付け足していたのだ。
「……養父母の取り調べの場で、戸倉時雄さんの名前が出されたそうです」
明石さんの目が、凍りついたように止まった。
——戸倉時雄。
あの高齢者居住区の片隅で、見えない両目を細めながら、指先で紙の本の凹凸を愛おしそうに撫でていた、九十一歳のあの老人。
私たちが会いに行ったあの日から、きっかり十日後に、完璧な「老衰」としてこの世を去った人。
あの日、丘の上の作業場で、明石さんは四つの湯呑みを洗いながら吐き捨てるように言ったのだ。
——完璧な老衰だ。九十一の老人が老衰で死んで、誰が警察を疑う。
投薬のタイミングを、毎日三十分ずつ遅らせる。
夜間のエアコンの室温を、規定値より一度だけ下げる。
食事の塩分濃度を、管理基準の最も低い限界値へと設定する。
そのすべてが国家の正常値パラメータの内側に収まっており、システムのどこにも暗殺の痕跡は残らない。
その冷酷な暗殺の現実を、国家は私の養父母の目の前に、見せしめとして直接突きつけてきたのだ。
——おまえたちの息子が接触した人間は、全員こうして人知れず死んでいくのだ、と。
「……完全な見せしめだな」
明石さんは天井を見上げたまま、低く呻いた。
「老夫婦を恐怖で完全に支配し、君を売らせるための脅迫だ」
囲炉裏の灰が、サクリと音を立てて崩れた。
埋められていた薪の炭の芯がひとつ、赤黒い光を妖しく灯した。
「……母さんたちは、何ひとつ知らなかったんです」
私は震える声で言った。
「私が港で何をしていたのか。なぜ国家から追われているのか。戸倉さんから何を聞き出したのか。何ひとつ知らされずに生きてきました」
「……」
「それを、いま初めて、脅迫される形で知らされているんです」
明石さんは何も言わなかった。
「……もし、母さんたちがいなくなってしまったら」
私は机の上の手記を見つめた。
「私は、一体何のために、誰に向けてこの手記を書いてきたのか……その意味のすべてを失ってしまいます」
「昊……」
「母さんたちは、私のことを一度も信じてくれませんでした。国家の検定AIが言うとおりの『偽物の人間』を見る目で、ずっと私を見てきました」
「……」
「それでも……私は、あの母さんたちに向けて、この文字を書き続けてきました。どうせ読まれないと分かっていながら、母さんたちに届くことを信じて書いてきました」
私の声が震えた。
「あの母さんたちがこの世界のどこかに生きているからこそ、私が文字を書くことには、確かな意味があったんです」
明石さんは自らの右腕の包帯を見つめた。
左手の指先が、動かない薬指の付け根を、無意識にそっと撫でていた。
七行の文章が、手記の帳面の上に刻まれている。
悲鳴のように溢れ出した、あの四行の余白の言葉たち。
「……行きます」
私は立ち上がった。
「国家に出頭するためではなく」
明石さんが顔を上げた。
「……あの施設へ潜入する伝手が、君にあるのか」
「ひとつだけ、あります」
私は土間の奥の薄暗い部屋にある、あの黒い受話器をじっと見つめた。




