第47話 訊かない作法
この谷底の集落で、私たちは三日間の日々を静かに過ごした。
この場所では、誰ひとりとして他人の過去を訊ねようとはしない。
なぜこんな最果ての山奥にいるのか。
どこから逃げてきて、これからどこへ行こうとしているのか。
誰も何も訊かない。
港際の吹き溜まりの街と同じ、暗黙の生活の作法だった。
社会の底辺で傷つき、追われて集まってきた人間たちのあいだには、どこにでも「互いの素性を詮索しない」という厳格な礼儀が存在するのだ。
不適格者としての暮らしの中で身につけたその礼儀が、この未接続地帯(白地)の境界にも、寸分違わず息づいていた。
トメは毎朝、四時ちょうどに起き出して、土間で薪を割る。
硬い樫の木を叩き割る鉈の乾いた音で、私たちの目が覚める。
一日が、金属と木材がぶつかり合う生々しい衝撃音によって幕を開けるのだ。
目を覚まさせるその目覚ましの音の中に、電気の力は使われていなかった。
集落には、全部で六軒の家があった。
どの家にも腰の曲がった老人が一人か二人で暮らしており、若い人間の姿はどこにも見当たらなかった。
「……ここの人たちは、ずっと昔からここに住んでいるんですか」
私が尋ねると、トメは鉈の刃を研ぎながら短く答えた。
「政変の前から住み着いとる者もいれば、後から都市を追われて流れ着いた者もおる。……誰の来歴も、お互いに訊かんよ」
過去の来歴は訊かない。
だが、日々の生身の労働の姿は、訊かずとも目の前にすべて見えていた。
早朝に薪を割り、日中は山あいの段々畑を手入れし、夕暮れには沢から水を汲み上げる。
水は裏手の沢から木桶で運んでくる。台所には水道の蛇口があるが、水圧が極端に弱く、チョロチョロとしか流れない。
旧世紀の水道インフラの最末端の血管が、死にかけのまま辛うじて脈打っているだけなのだ。
二日目の夕方、私は水汲みの桶を運ばせてもらった。
並々と汲み上げた満杯の木桶は、片手ではとても持ち上がらなかった。
港の帳場でコンテナの荷の数を指先で数え上げる手と、重い水を全身で担ぎ上げる手とでは、使う筋肉の場所がまったく違っていた。
両肩の激しい筋肉痛の痛みが、翌朝になっても重く残っていた。
◆◆◆
毎日の食材の半分は、集落の段々畑で採れる芋や大根だった。
そして残りの半分は、月に一度、外の闇商人から裏ルートで届く物資だった。
「……闇食品だ」
明石さんが寝床から、小声で私に警告した。
錆びた金属缶に入っており、商品名も成分表のラベルも貼られていない。
統治機構の検閲を通さず、密輸ルートで流れてくる怪しい缶詰だった。
「これには気をつけろよ、昊」
明石さんは言った。
「昔、嘱託の研究室で非公開の調査資料を見たことがある。……白地に落ちたスマートダストの死骸は、土の虫や小動物に食われて濃縮される。闇業者はそのバイオマスをすり潰して、安い増量剤として闇食品に混ぜるんだ。認証市民は口にしないが、非認証の人間はそれを食って生きるしかない」
明石さんは、火傷の右腕を庇いながら、錆びた缶を顎で指した。
「微細なナノ回路の破片は、人間の消化器官じゃ分解されない。何十年もかけて、骨や神経の周囲に溜まっていく。……解剖すれば、骨の表面に金属の粉がびっしり沈着しているそうだ。健康上は問題のない、ただの無害な沈殿物として片づけられていたがな」
「……無害、ですか」
「普通の人間の身体なら、無害で終わる。ただ沈んでいるだけだ。だが……もしその身体の持ち主が、街の電磁波と同じリズムで脳を揺らす人間だったらどうなる」
明石さんは私の顔をじっと見た。
「鉱石ラジオと同じだ。骨や神経に散らばった金属の破片が、高周波を拾って整流してしまう。……君が二十四年間食べてきた粗悪な飯が、知らず知らずのうちに、骨の中に受信機を敷いてしまったんだよ」
——根。
その言葉の重みが、私の喉の奥に重く沈んだ。
朝に食べたあの安いフェイク・プロテインの、塩気の底から立ち上る金属の後味。
監視車輌を狂わせた夜、口の中でいつもより濃く広がったあの味。
あれは不純物の味などではなく——二十四年間、私の骨の奥底へと沈み込んできた、微細な回路そのものの味だったのだ。
私は缶詰の蓋を開けた。中身は大粒の大豆と山菜の煮物だった。
味付けは薄く、豆の粒は不揃いに大きかったが、噛み締めると素朴な大地の甘みが広がった。
決して、不味い味ではなかった。
◆◆◆
二日目の夜、トメが囲炉裏の火の番をしながら、ポツリと口を開いた。
「……山の向こうの奥に、人がおるという話を聞いたことがあるかい」
手記を書いていた私の手が止まった。
「人、ですか」
「ただの集落ではない。もっと大勢の人間が集まっとる場所だ。……寺のような巨大な建物がある、と言う者もおるよ」
トメは爆ぜる薪の火を見つめていた。
「白地のさらに奥深く、国家の網が完全に途絶えた未開の山奥に、独自の掟で生きとる者たちが群れを作っとるという噂は、昔からずっとあるのさ」
「……」
「街の神さんとは、まったく別の神さんを拝んどる集団だ」
街の神さん。
思兼の人工知能の託宣を神の声として崇める、この国の主流派の信仰のことだ。
その国家の神とは相容れない、別の神を拝む者たち。
「……土地の古株は、そいつらを【国津派】と呼んどるよ」
トメが言った。
「だが、あいつらはこの集落のような境目までは決して下りてこん。山の向こうの、完全な闇の奥深くだ。……あんたのような若い人間が、関わるような話じゃないよ」
トメの声には、それ以上の会話を冷酷に遮断する意志が込められていた。
これ以上は詮索するな、という山奥の掟の合図だった。
詮索しない作法が、この老女の言葉の端々にも厳格に行き届いていた。
私は帳面に目を落とし、それ以上は何も訊かなかった。
◆◆◆
三日目の朝、港の関口さんからの極秘の伝言が届いた。
届いた、というのは正確ではない。
集落のひとりの老人が、月に一度の買い出しで管理境界の端まで出向き、その帰りに、昔ながらの秘密の伝言板の仕組みを使って受け取ってきた手書きのメモだった。
紙の切れ端が、二枚。
一枚目は、関口さんからの直筆だった。
〈港際は変わりなし。
砂川が膝を悪くした。
梅干しはまだある〉
わずか三行。
港の吹き溜まりの変わらない日常が、関口さんの太い鉛筆の筆跡で記されていた。
砂川さんの古傷の膝の痛み。大切に漬けられた梅干し。
あの埃っぽい帳場の時間が、いまもあそこで静かに流れているのだ。
そして——二枚目は、関口さん経由で託された、別の人物からの走り書きだった。
青いボールペンの、少し右上がりの繊細な筆跡。
その字を見た瞬間、私の胸がドクンと跳ね上がった。
黄詩文の、筆跡だった。
〈生きてるならいい。
帰ってきたら、あなたに見せたい仕事の話がある。
——あと、靴紐が切れた。
替えを買うお金がない。〉
——靴紐。
出立の前夜、あの薄暗い路地で、彼女が上着のポケットから取り出して私に渡してくれた、あの二本の靴紐。
新品などではなかった。
だが、丁寧に蝋が引かれ、ほつれひとつない、彼女が香港から渡ってきたときから大切に鞄の底に仕舞い込んでいた、唯一の替えの紐。
海を渡ってきた人間は、命を預ける靴の替え紐を、肌身離さず持っているものなのだ。
そのかけがえのない大切な替え紐を、彼女はあの夜、私の足元にしゃがみ込んで、私の足へと託してくれたのだ。
そして——自分自身の靴の紐が、切れてしまった。
私は思わず吹き出しそうになり、そして次の瞬間に、胸を締め付けられるような激しい痛みに襲われた。
彼女は、滞在許可の期限が切れた不法滞在の難民なのだ。
靴紐の一本すら買い直す金がないということは、港での仕事の枠を完全に失い、追い詰められているという証拠だった。
私の足元には、いまも彼女が結んでくれたあの靴紐がある。
輪を二重にくぐらせたあの固い結び目が、一度も解けることなく、私の両足をしっかりと支え続けている。
いますぐ、港へ駆け戻りたかった。
だが、いまの私には、戻るべき道がどこにも残されていなかった。
◆◆◆
明石さんの病状は、日を追うごとに悪化していった。
火傷の激痛そのものはトメの軟膏で最悪の峠を越えていたが、焼け爛れた右腕は完全に麻痺して動かず、水ぶくれの下の皮膚が、赤黒い色から不気味な紫色へと変色し始めていた。
トメは朝夕に包帯を取り替えるたびに、固く口を噤んでいた。
そして三日目の夜、囲炉裏の火を見つめながら、重く告げた。
「……抗生物質が要る」
「この集落には、ひとつもないんですか」
「ここにはないよ」
トメは言った。
「この山をさらに越えた向こうの谷に、政変前の古い廃診療所が残っとる。運が良ければ抗生剤の瓶が残っとるかもしれんが……あれは白地のもっと奥深く、危険な場所だ」
明石さんは板の間に横たわったまま、煤で黒く染まった天井をじっと見つめ続けていた。
天井の黒い染みの数を、ひとつずつ数えようとしているかのようだった。
私もその染みを見上げた。
だが、数えることはできなかった。
一度ぶんの火の煙と、次の一度ぶんの火の煙の境目は、この世界のどこにも残されていなかったからだ。
◆◆◆
そして——四日目の早朝のことだった。
トメの家の奥の薄暗い小部屋に、一台の黒い旧式電話機が置かれていた。
政変前の遺産。受話器と本体が黒い螺旋コードで繋がっている、ダイモンを一切経由しない純粋な銅線の回線。
——遺産回線。
港際のあの辻の公営端末と同じ、国家の網をすり抜けた生き残りの地下ケーブルの最末端だった。
滅多なことでは鳴ることのない、死んだはずの電話だった。
その黒電話の乾いた金属ベルが、早朝の静寂を切り裂いて鳴り響いた。
トメは無言で鉈を板の間に置き、奥の部屋へと入っていった。
数十秒の沈黙のあと、トメが重い足取りで戻ってきた。
「……あんた宛てだ」
トメは黒い受話器を、私に向けて差し出した。
誰からかかってきたのか、なぜこの電話番号を知っているのか。
トメは、その理由を何ひとつ訊こうとはしなかった。




