第46話 火のある家
谷底の集落へ降り立ったのは、西の山あいに日が傾き始めた頃だった。
古い民家の木の屋根が六つ、互いに身を寄せ合うように並んでいた。
どの家も政変前の古い木造建築で、屋根の棟木には青々とした苔が生えていた。
六軒のうち、三軒の煙突から細い煙が上がっていた。
空を見上げると、一本の細い黒い電線が、山を越えて集落の端へと辛うじて引き込まれていた。
旧い送電網の、死にかけた最末端の細い血管だった。
手前から二軒目の家の障子窓が、音もなく数センチだけ細く開いた。
人の顔が半分だけ覗き、こちらを見つめると、すぐに奥へと引っ込んだ。
だが、窓は閉められなかった。
板戸を閉めれば、その摩擦の音が集落の静寂に響いてしまうからだ。
細い砂利道の入口に、一人の老女が立っていた。
小柄で、腰が丸く曲がり、右手には研ぎ澄まされた鉈を固く握りしめていた。
鋼の刃先が、上を向いていた。
「……港の関口さんの名前を伺って、山を越えて参りました」
私が頭を下げて言うと、老女は鋭い目で私をじっと見据えた。
それから、私の背後で肩を落としている明石さんを見た。
明石さんの、赤黒く焼け爛れた右腕を見た。
鉈の切っ先が、ゆっくりと地面の下を向いた。
「……入れ」
老女は低く嗄れた声で言った。
「何よりも先に、その男の腕を見せな」
◆◆◆
土間を上がると、家の中は薄暗く、そして驚くほど温かかった。
板の間の真ん中に大きな囲炉裏が切られ、太い薪が赤々と爆ぜていた。
三時間以上、極度の緊張の中で山を歩き続けてきた足で敷居をまたぐと、心地よい熱気が足元からじんわりと這い上がってきた。
外の山風は冷たく乾燥しており、そこを逃げ惑ってきた私の皮膚は、まだ縮み上がったままだった。
その縮んだ皮膚の毛穴の奥深くまで、本物の薪の火の熱が染み込んでいく。
染み込んで身体の芯が温まるまでに、少しの時間がかかった。
見上げる天井は、何十年もの煙の煤で真っ黒に染まっていた。
煤の黒い染みが幾重にも重なり合って、どこまでが一度ぶんの火の煙なのか、その境目は誰の目にも見分けがつかなかった。
「……っ、ぐ……ッ」
明石さんの焼け焦げた作業着の袖をハサミで切り開くとき、男は歯を食いしばって声を殺した。
老女は爛れた皮膚の生々しい火傷をじっと見つめ、余計な詮索は一言も口にしなかった。
どうしてこんな重傷を負ったのか。
誰にどんな兵器で撃たれたのか。
どこから逃げてきて、これからどこへ向かうのか。
何ひとつ訊かない。
老女は裏手の沢から汲んできた冷水で、火傷の表面を丹念に洗い流した。
桶の水は、触れた指先がキーンと痺れるほど冷たかった。
それから、口の欠けた古い陶器の小瓶を取り出してきた。
木栓を抜くと、独特の獣脂の重い匂いが部屋に立ち込めた。
その油の匂いの上に、松脂の爽やかな清涼感が、薄い層となって重なっていた。
老女は荒れた指の腹でその軟膏をたっぷりと掬い取り、明石さんの爛れた皮膚の上に、手際よく薄く伸ばしていった。
包帯として巻かれた白い布は、何度も洗って天日で干し、繰り返し使い古されたものだった。
布の端がほつれ、縫い糸の色が褪せていたが、その手当ての所作には何の迷いもなかった。
「……手伝います、沢へ水を汲みに行きましょうか」
私が申し出ると、老女は即座に首を横に振った。
「一日目の客に、水汲みなどさせんよ」
明石さんを寝かせたのは、囲炉裏から二間ほど離れた板の間だった。
乾いた藁を厚く敷き詰め、その上に重い綿の布団を敷く。
火から遠すぎれば夜の寒さで傷口が冷え、近すぎれば火の粉と熱気で火傷が悪化する。
その絶妙な距離感を、老女は自らの歩幅だけで正確に測り取っていた。
「……あんた、医者なのかい」
明石さんが寝床から嗄れた声で訊いた。
「違うさ」
老女は鉈の刃を布で拭きながら言った。
「ただの山奥の婆だよ。この界隈じゃ、火傷の手当てくらい誰でもできる。毎日、薪を燃やして暮らしてるんだからね」
老女の名は、トメといった。
港の帳場の関口さんとの過去の関係については、それ以上何も語らなかった。
「昔の話だよ」とだけ短く呟き、囲炉裏の傍らで黙々と鉈を研ぎ続けるだけだった。
◆◆◆
夕飯は、囲炉裏の自在鉤に吊るされた鉄鍋から配られた。
煮崩れた里芋と、太い大根と、名前も知らない山菜の葉。
汁は白く濁っており、粗塩の他には何の調味料も入っていなかった。
里芋は芯まで柔らかく煮え、木のお椀の底で箸を入れるとホロリと崩れた。
息を吹きかけて口に運ぶと、素朴な土の香りと甘みが、鼻腔を抜けていった。
港の帳場で毎日食べていた合成食品には、この生命の匂いが存在しなかった。
人工の味付けは完璧でも、土と太陽の匂いだけは、どんな高度な化学合成でも再現できなかったのだ。
私はお椀をおかわりして二杯食べた。
明石さんは無事な左手でお椀を持ち、温かい汁だけをゆっくりとすすり込んだ。
トメは明石さんのお椀の中に、鍋から掬い上げた里芋をひとつ、無言で足して入れた。
「食え」という余計な言葉は、一言も添えなかった。
食事が終わると、トメは囲炉裏の灰を火掻き棒で深く掘り起こし、生のサツマイモを三つ、その穴の底へと埋めた。
上から温かい灰を被せ、自らの手のひらでパンパンと二度押さえた。
「……明日の朝、掘り出すよ」
明日の朝食の仕込みを、今夜の火の温もりの中へと預けておく。
私たちが眠っているあいだも、火が休むことなく働き続けてくれるのだ。
この家には、時計や電子タイマーのような機械はひとつも存在しなかった。
囲炉裏の薪の灰の減り方と、炭の色の移り変わりだけが、この世界の唯一の時間だった。
◆◆◆
夜更け、私はひとり土間を出て、外の冷気を吸った。
空を見上げた。
満天の星が、息を呑むほど鮮烈に夜空を埋め尽くしていた。
都市の空では決して見ることのできない、無数の星々の瞬き。
大気中のスマートダストの光の散乱も、地上からの巨大な電磁の照り返しも、何ひとつ存在しない本物の大宇宙。
漆黒の闇の中に、星の光だけが鋭く降っていた。
——音が、なかった。
耳の奥を苛み続けてきた、人工知能の不可視の囁きも。
都市の合意形成が発する、微細な電磁の振動も。
この大気は、国家のどのコンピュータからも管理されていない。
気温も、湿度も、この谷の囲炉裏の煙と、夜露の風だけで決まっている。
電球の光に狂って飛び回る蛾の姿もなかった。電磁波の狂気が、ここには存在しないからだ。
そして——私の身体の奥底で、生まれてから二十四年間一度も止まらなかったあの生体微振動が、完全に消滅していた。
列車の窓辺で薄れ、バスの終点で遠のき、山道で糸一本まで痩せ細ったあの共鳴が。
この場所で、ついに【完全なゼロ】に達していたのだ。
生まれてから、初めての体験だった。
港の吹き溜まりの四畳半にいたときでさえ、都市の電磁の残骸は、微かな潮騒のように私の頭蓋の奥で鳴り響いていた。
だが、この未接続地帯の谷底には、それすらも存在しない。
国家の判定アルゴリズムが届かない場所の、これが本物の世界の静寂だったのだ。
明石さんはトメの家の奥で、藁布団に包まって静かに眠っていた。
トメが囲炉裏の傍らで、静かに火の番を続けている。
私は土間の框に腰を下ろし、手記の帳面を開いて鉛筆を削った。
指先が、まったく震えていなかった。
港で帳面を書くとき、常に指先を苛んでいた微小な電磁の揺れが、嘘のように消え去っていた。
鉛筆の芯が、白い紙の上でピタリと止まっている。
止まっているのに、紙の上に刻まれる文字の線が、驚くほど細くなっていった。
知能機械の重圧と戦うための力の入れ方を、私の肉体が、静かに忘れかけていた。
囲炉裏の赤い火の粉だけが、土壁の上で小さく爆ぜていた。
〈この世界に何もないということが、これほどまでに静かで温かいものだとは、今日まで知らなかった。〉




