第45話 三キログラム
尾根から斜面を半分ほど駆け下りた山道の真ん中に、ひとりの男が静かに直立していた。
黒いダークスーツ。
胸の前で両腕を組み、冷たい山風の中に微動だにせず立っている。
仕立ての良い上着には、埃ひとつ、皺ひとつ存在しなかった。
ただ、ピカピカに磨き上げられた革靴だけが、乾いた赤土を踝の上まで白く被っていた。
尾根の道路のぎりぎりまで最新鋭の公用車で乗りつけ、そこから先だけのわずかな山道を、自らの生身の足で歩いて下ってきた男の身なりだった。
「……物部さん」
男が静かに口を開いた。
「少し、お話をさせていただけますか」
聞き覚えのある、抑揚を完璧にコントロールされた声だった。
あの丘の上の古紙倉庫で、紙の地層の真ん中に完璧な直立で立っていた男。
獣道の紙の山を一枚たりとも踏み荒らすことなく、静かに立ち去っていった男。
明石さんの作業場の空気を、名刺一枚で瞬時に凍りつかせた、あの男だった。
「……鵜飼さん」
私はその名を呼んだ。
あの真っ白な活版印刷の名刺の筆跡が、鮮烈に脳裏に蘇った。印刷された肩書は何ひとつなく、ただ手書きの数字の電話番号だけが細い万年筆で記されていた紙。
鵜飼は静かに頷いた。その能面のような表情筋は、微動だにしなかった。
「……明石さんを、あの熱線で焼き爛れさせたのは、あなたの部隊ですか」
「あれは、私の指示による作戦行動ではありません」
鵜飼は淀みなく答えた。
「防衛省技術廠と保安省特務の合同管轄です。私の情報局の指揮下ではない。……このような事態に至ったことについては、私個人として、深く申し訳なく思っています」
管轄が違う。
同じひとつの国家の中に、山の上から私たちを撃ち殺そうとする狂信者の手と、山道で静かに礼を尽くす官僚の手が、別々に存在しているのだ。
あの柏手を打ち鳴らしていた狙撃手の系統と、このダークスーツの男の系統。
「……明石さんの怪我の治療を、いま直ちに私が手配することができます」
鵜飼の冷徹な視線が、私の背後で立ち止まっている明石さんへと向けられた。
明石さんは私のすぐ後ろで、太い木の幹に左手を突き、荒い息を繰り返していた。
焼け爛れた右腕を胸元に抱え込むその不自然な角度に、肉体を苛む激痛の凄まじさが生々しく滲み出ていた。
「その火傷を放置すれば、感染が進んで皮下組織まで深く侵されます」
鵜飼は言った。
「高濃度の抗生物質の投与と、特殊な冷却再生処置が不可欠です。……私が無線で一本連絡を入れれば、十分以内に最新の医療ドローンをこの座標へ呼び寄せることができます」
「……その治療の、見返りの条件は何ですか」
鵜飼は胸の前で組んでいた腕を、ゆっくりと解いた。
◆◆◆
「あなた自らが国家に出頭し、〈思兼〉(思兼〉の起源に関わるすべての生体情報を、国家に開示していただくことです」
鵜飼の声は、どこまでも平坦で静かだった。
風の吹き荒れる屋外ではなく、防音の密室の中で淡々と職務を遂行しているかのような声。
「その対価として、明石氏への最高水準の先進医療、港湾の物部ご夫妻に対する生涯の生活安全保障、そして……物部昊、あなた自身の生身の肉体の完全な保護を、国家が公式に保証します」
「……保護、ですか」
「ええ。あなたを敵国に売り渡すのでも、研究のモルモットとして解体するのでもありません」
鵜飼は一歩、私のほうへと足を進めた。
革靴の下で、乾いた赤土と砂利が擦れ合って重い音を立てた。
「あなたを……この世界から、完全に《《隠す》》のです」
隠す。
その言葉の意味なら、私は紙の記録の中で嫌というほど読んできた。
二〇二七年、日向澪というひとりの科学者の名前が、国家の台帳から跡形もなく消去された。
逮捕令状の被疑者欄に一度だけ手書きで記され、その後のあらゆる公文書の中から、その名を入れるべき枠そのものが外科手術のように削り取られた。
「物部さん。あなたの生体脳の秘密が世界に漏洩すれば、地球上のあらゆる大国が軍事介入に動きます」
鵜飼は真摯な目で私を見つめた。
「あなたの頭蓋骨の中に収まっている脳組織は——あなたご自身がどう自覚されているかは別として——この地球上で最も価値のある【三キログラム】なのです。……あなたを世界から完全に隠匿することは、次の世界大戦の勃発を未然に防ぐことそのものなのです」
冷たい山風が吹き抜けていった。
尾根から吹き下ろす、誰の管理も受けていない野生の風。
鵜飼の論理は、嘘ではない。
私の生体脳から〈思兼〉(思兼〉のアーキテクチャが生成されたという事実が公になれば、世界の軍事大国は、私という存在を力尽くで奪い合おうとするだろう。
生きたまま捕獲されるか、あるいは死体となって解剖されるか。
私がこの世界の表舞台から完全に消え去れば、世界はいまの平和な秩序のまま続いていく。
だが、私がひとりの人間として生き続けようとすれば、この世界の偽りの調和は根底から壊れてしまうかもしれないのだ。
◆◆◆
「……隠す、というのは」
私は乾いた唇を開いた。
「一体、どこに私を閉じ込めるつもりなんですか」
鵜飼は即座には答えなかった。
答えを出し渋っている表情ではない。
その答えのデータそのものを、自分自身が保持していない男の顔だった。
「……私のような統括官クラスの人間にも、その最終所在地の詳細は知らされてはいません」
やがて、鵜飼は重い口を開いた。
「私が最高機密の文書の中で目にしたのは、索引ファイルの一行だけです。……〈無間〉と——」
そこで、鵜飼の声がピタリと止まった。
自らの意志で言葉を止めたのではない。
自分の口から無意識に滑り出たその禁忌の単語の音に、男自身の耳が半拍遅れて追いつき、戦慄したのだ。
鵜飼の能面のような表情が、今日初めて、微かに動いた。
動いたのは目ではない。唇の端だった。
わずかに、苦々しく引き結ばれた。
ほんの一瞬の動揺。
だがその一瞬の隙に、このエリート官僚が持つ知識の限界の輪郭が、鮮明に浮かび上がっていた。
索引の一行だけを見たというのは、紛れもない事実なのだ。
もしこの男がその〈無間〉と呼ばれる施設の凄惨な実態まで知り尽くしていたとすれば、動揺の質がまるで違っていたはずだ。
地獄の中身を知る人間は、口を滑らせた瞬間に、その恐るべき光景を想像して顔面を蒼白にするものだからだ。
だが、この男の顔にあったのは、その恐怖の色ではなかった。
触れてはならない神聖な禁忌の見出しに、うっかり指先が触れてしまったことに対する、官僚としての純粋な失態の顔だった。
索引の文字列だけを知っていて、本文の中身を何ひとつ知らされていない男。
「……無間」
私はその奇妙な音の響きを、口の中で静かに反復した。
意味は分からない。
だが、分からなくてよかった。鵜飼が固く結んだその口元の形こそが、その言葉の恐ろしさを雄弁に物語っていたからだ。
「……いまの言葉は、お忘れください」
「忘れられませんね」
鵜飼はしばらくのあいだ沈黙し、山あいの木々を見つめた。
「私は、あなたに対して嘘をつくつもりはありません。ですが……私自身の権限でもお答えできない領域が存在するのもまた、事実です」
「……では、私の答えも、いまここであなたに差し上げることはできません」
鵜飼は静かに頷いた。私を責めるでもなく、感情を一切交えない、冷徹な頷きだった。
だが、男の革靴の爪先が、半歩だけ後ろへと下がった。
交渉の決裂を受け入れ、立ち去るための準備動作だった。
「最後にひとつだけ、お伝えしておきます」
鵜飼は言った。
「あなたは敵国の工作員などではない。私は統計的にも、心理プロファイルの上でも、それを確信しています。……しかし、物部昊、あなたの存在そのものが、この国家にとっての最大の脅威なのです。あなたがそれを望んでいなかったとしても。……それだけは、どうかご理解いただきたい」
鵜飼は深く頭を下げた。
山土の上で、角度の寸分も狂わない、完璧な礼をした。
あの日、紙の巣窟の玄関先で見たのと、まったく同一の角度のお辞儀だった。
そして男は踵を返し、尾根の道路へ向けて歩き去っていった。その背中は、二度とこちらを振り返ることはなかった。
◆◆◆
明石さんが木の幹から左手を離し、ズルズルと座り込んだ。
「……昊、すまんが、水を……」
私は急いで駆け寄り、水筒を手渡した。
明石さんは震える左手で水筒を受け取り、冷水を一口含んで——そのまま地面へペッと吐き出した。
人間というものは、極度の激痛と脱水に見舞われると、水の一滴すら喉を通らなくなるほどの乾き方をするのだ。
二口目で、男はようやく喉を鳴らして水を飲み干した。
「……国家への出頭の話は、どうした」
「断りましたよ、当然です」
「……そうか」
明石さんは水筒を返してきた。
水筒のアルミニウムの表面が、男の体温で生温かく熱を持っていた。
去っていった鵜飼の黒い背中は、すでに尾根の草むらの向こうへと完全に消え去っていた。
祈りを捧げながら人を撃つ狂信者の男と、礼を尽くしながら人間を世界から消し去ろうとする官僚の男。
そのどちらもが、私の頭蓋骨の中に眠る秘密の価値を、正確に知悉していたのだ。
山から吹き下ろす冷たい風が、私の後頭部の髪をふわりと持ち上げた。
あの幼少期の手術痕に、冷気がチクリと触れた。
私の首の骨の上に、ずっしりとした頭蓋の重みが載っていた。
一歩を踏み出すたびに、その重さが、ほんの少しだけ遅れて私の身体についてくる。
——三キログラム。
国家が喉から手が出るほど欲しがっている、この地球上で最も重い、私の魂の質量だった。




