第44話 焦げた葉
木々の深い影の中に身を潜め、私たちは息を殺して微動だにしなかった。
私は左手を出して、明石さんの肩をそっと制した。
明石さんは私の合図で立ち止まり、爛れた右腕の付け根を左手で強く押さえながら、息を吸い込んだ。
激痛が波のように押し寄せてきたときの、喉を震わせる苦痛の息遣いだった。
私は自分の右の人差し指を唇の前に当てた。
明石さんは自ら口を固く結び、鼻から細く、音を立てずに熱い息を吐き出した。
山を吹き抜ける風は、私たちのいる尾根の上から、斜面の下へと向かって吹き下ろしていた。
こちらが微かな物音ひとつ立てただけでも、その音は風に乗って下へ筒抜けに届いてしまう。
斜面のずっと下方に、生身の人間の姿があった。
距離は遠い。直線距離で二百メートル以上は離れている。
それでも、木々の隙間を通して、その男の異様な挙動のすべてがはっきりと見えた。
黒い防護服に身を包んだ男がひとり、あの白い着弾痕のすぐ真前に直立していた。
そこは、さっきまで私たちが歩き、マイクロ波の熱線に狙撃された、まさにその場所だった。
水分が蒸発して白い粉末になった帯状の土。
その周囲に散らばる、熱線で黒く縮れて焼け落ちた草木の葉。
男の足元の地面に、太い黒い金属筒が横たえられていた。
長さは大人の腕の長さほど。銃口の先端が太くラッパ状に広がり、そこから細い耐熱ケーブルが、地面の頑丈なバッテリーボックスへと通っていた。
四角い箱は角が丸く削られ、上部に持ち運び用の頑丈な金属把手がついている。
傍らに、折り畳まれた金属三脚が無造作に立てかけられていた。
男は箱の把手を右手で持ち上げ、腰の高さまで引き寄せてから、再び地面へと重く下ろした。
その瞬間、男の膝が一瞬だけ深く折れ曲がった。
見た目よりも、遥かに重いのだ。
生身の人間ひとりで担いで山を登るには重すぎ、軍用車輌で運搬するには軽すぎる兵器。
この険しい山道まで運び上げるために、最低でも三、四人の兵士の肩が必要だったはずだ。
私には、その凶悪な兵器の制式名称など何ひとつ分からない。
知っているのは、あの黒い筒から放たれた不可視の熱線が、私の頬の皮膚を灼き、明石さんの右腕の肉を無残に焼き爛れさせたという、絶対的な事実だけだった。
突然——男が、両の手のひらを胸の前で合わせた。
乾いた打撃音が、鋭く二度。
静まり返った山あいに、澄んだ音が響き渡った。
柏手だった。
神社で神仏を拝むときの、あの厳格な神前の作法。
人を撃ち殺そうとした凄惨な現場で、神を拝む男がそこにいたのだ。
男は二度の柏手を打ち鳴らしたあと、その場にゆっくりと膝を折って屈み込んだ。
そして、足元の地面から、何かを指先でそっと拾い上げた。
縮れた葉だった。
マイクロ波の超高熱によって、赤茶色に丸まり炭化した、あの一枚の草の葉。
男はその焦げた葉を、両の手のひらで恭しく包み込むようにして掲げ持った。
胸の高さまで静かに持ち上げ、両腕を天に向けて真っ直ぐに伸ばす。
それはまるで、神前の祭壇に神聖な玉串を捧げ持っているかのような、厳かな姿勢だった。
黒く焦げ爛れた、ただの草の葉を。
◆◆◆
私は無意識に、その光景を数えていた。
自分でも気づかないうちに、男の指先に拾い上げられた葉の数を、目で丹念に数えていたのだ。
——一枚。
港の過酷な帳場で、六年間毎日繰り返してきた検数の職能。
荷が動けば、必ず数を数える。数え上げなければ、その荷はこの世界に最初から存在しなかったことにされてしまうからだ。
今日、この山道で私と明石さんに向けて放たれた不可視の弾丸は、きっかり三発。
水分を奪われて白く乾いた土の帯が、二本。
皮膚を焼き爛れさせられた明石さんの右腕が、一本。
そして——狂信者の指先に掲げられた焦げた葉が、一枚。
だが、頭の中でどれほど正確に数を数え上げたところで、その伝票を提出すべき帳場は、この世界のどこにも存在しなかった。
私の手記の帳面以外には、この理不尽な暴力の記録を受け止めてくれる場所など、どこにも残されていないのだ。
◆◆◆
男の唇が、小さく動いた。
二百メートル離れた私たちの耳には、男の声は届かない。
だが、その口元の動きには、独特の抑揚とリズムが存在していた。
他人に話しかけているのではない。歌っているのだ。
低く、短く、同じ旋律の底へと何度も循環するように戻っていく歌。
古代の祝詞を詠唱しているかのような、不気味な抑揚だった。
私たちを殺そうとした場所で、焦げた葉を神に捧げ、男は祝詞を歌い続けている。
やがて男は腰の小型無線機に右手を伸ばした。
そして、無線に向かって、たった一言だけを呟いた。
唇の動きだけで、その言葉を正確に読み取ることができた。
——もう一度。
それだけだった。
男は無線機を腰に戻し、あの白く乾いた着弾痕の帯に沿って、ゆっくりと歩き始めた。
靴の爪先で、粉になった赤土の感触を確かめる。
男が踏みしめた足元に、靴の足跡は残らなかった。
土の水分が完全に飛んで粉末状になっているため、踏み込んだ端から、周囲の白い粉が窪みへとサラサラと流れ込んでしまうからだ。
男が通り過ぎたあとの白い帯は、通る前とまったく同じ、傷痕の形を保ち続けていた。
それは、完璧な仕事の検分の動作だった。
そして同時に、神聖な祭祀の検分でもあった。
標的を狙い、引き金を絞り、着弾の破壊を確かめ、そして神を拝む。
その一連の残虐な殺戮のプロセスが、男の中ではひとつの完成された宗教的作法へと昇華されていたのだ。
◆◆◆
尾根のすぐ脇の斜面に、もう二人の人影が潜んでいた。
男のいる場所から三十メートルほど上方。木々の隙間から、黒い戦闘服の上半身だけが見え隠れしていた。
微動だにしない。
歌うことも、祈ることもない。
着弾痕の前で男が焦げた葉を掲げて祈りを捧げているあいだ、その二人の兵士は、視線をずっと明後日の方向へと逸らし続けていた。
祈りを捧げる狂信的な指揮官の姿を、あえて見ないようにしているかのような、冷え切った態度。
同じ場所に立ち、同じ黒い服を身に纏い、同じ方向からやって来たはずの三人の部隊が、その異様な一点においてだけ、決定的に足並みを乱していた。
◆◆◆
あの男が一体何者であるのか、私には何ひとつ分からない。
名前も、所属する軍組織も、そしてあの男が胸の奥で何を狂信しているのかも。
これまで十六年間、私の人生を社会の底辺へと弾き続けてきた国家のシステムには、生身の「顔」が存在しなかった。
不合格通知に審査官の氏名はなく、解雇通達に差出人の署名は存在しなかった。
私はそれらの理不尽を、ただの冷たいコンクリートの「壁」と同じものとして受け止めてきた。
壁に悪意や感情が存在しないように、国家の判定機械にも感情など何ひとつないのだ、と。
だが——いま、斜面の下に、生身の「人間の顔」が存在していた。
今日、体温を持ったひとりの人間が、自らの意志で私に向けて引き金を引いた。
そしてその生身の人間が、自らが焼き爛れさせた大地に向かって、狂気の祈りを捧げている。
敵に、本物の顔がある。
それは、無機質な壁よりも恐ろしいということではない。
壁は、人間を拒絶する理由を持たない。
だが——あの男は、私を撃ち殺すための確固たる理由を、己の信仰の形として強烈に抱え込んでいるのだ。
◆◆◆
男がピタリと歩みを止めた。
ゆっくりと顔を上げた。
私たちのいる場所を直接見上げたのではない。私たちが逃げ込んだ、あの深い草むらの方向へと顔を向けた。
まるで獲物の匂いを嗅ぎ分けるかのように、男の首が右へと不自然に傾いだ。
そして、男は喉の奥から声を発した。
今度は、その声が私たちの耳に、はっきりと届いた。
木々の枝を揺らす風の向きが、突如として変わっていたのだ。
風が反転し、谷底から尾根の上へ向けて、一気に吹き上がり始めていた。
私たちの足音が下へ届かなくなった代わりに、斜面の下の男の肉声が、風に乗って鮮明に耳朶を打った。
「——祓いは、まだ済んでいません」
誰かに呼びかけるようであり、同時に、世界全体へ向けて冷酷に宣言するかのようでもあった。
私個人に向けて言ったのではないだろう。二百メートルも離れた深い茂みの中の姿が見えるはずがない。
だがその不気味な言霊は、氷の針のように私の胸の奥深くまで突き刺さった。
明石さんが私の作業着の袖を強く引いた。
私たちは足音を一切立てないよう細心の注意を払いながら、尾根の反対側の斜面の裏側へと身を滑り込ませた。
谷底の集落へ向けて駆け下りながら、私は最後に一度だけ、後ろの山を振り返った。
男はまだ、あの白い傷痕の前に、彫像のように直立していた。
マイクロ波で焼き爛れたあの一枚の黒い葉を、天に向けて高く掲げ持ったまま。
——たった、一枚の葉を。




