第04話 味噌汁の音
八歳の秋のことを書こう。
課題は『銀河鉄道の夜』の読書感想文だった。
手書き、四百字詰め原稿用紙は二枚まで。
教室で時間内に書き上げ、その場で提出する。集められた原稿は職員室の検定端末を通され、判定の印が捺されてから児童へ返却される。
書くことと、検められること。
私たちはその二つの手続きを、ひと続きの不可分な動作として教え込まれて育つ。
十月の小学校の教室は、暖房が入る前の、一年でいちばん空気の乾いた季節の中にあった。
窓側の列にだけ白い秋の日差しが当たっていて、そこの席の男子の机の上を、消しゴムの丸い滓が音もなく転がっていた。
私の席は廊下側で、合板の天板には前の年の誰かが彫り込んだ細い溝があった。
原稿用紙を敷いて鉛筆を走らせると、その溝のところだけ、芯の先がぐっと深く沈んだ。
黒鉛の粉が、右手の小指の側面に黒く擦れて移る。
私はカムパネルラの最期について書いた。
最後の一文だけは、いまでも鮮明に覚えている。
〈カムパネルラは、ほんとうは、きしゃにのるまえから、もうしんでいたのだとおもいます。ジョバンニだけが、それをしらなかったのだとおもいます。〉
◆◆◆
翌日、朝の会のあと、私だけが職員室に呼び出された。
職員室には、冷めた湯呑みの茶と、印刷機の油性インクの匂いが重くこもっていた。
担任は若い女性の教師で、私の原稿用紙を机の上に置き、組んだ指を見つめたまま、しばらく口を開かなかった。
原稿の右上の隅に、鮮やかな赤い角印が捺してあった。
四つの漢字のうち、当時の私に読めたのは「非」の文字だけだった。
〈陽性——人格非認証〉
朱のインクが紙の植物繊維の奥まで深く染み込み、裏面まで赤く抜けていた。
字の意味を理解するより先に、その血のような赤の鮮烈さのほうが、網膜の奥に焼きついて離れなかった。
「物部くん」と先生は静かに言った。
「これ、本当に自分で書いたの?」
「はい」
「誰かに、手伝ってもらったんじゃない?」
「いいえ」
「おうちのダイモンに——」
「うちに、ダイモンはいません」
それは紛れもない事実だった。
物部の家は町全体の流儀に従い、電子のダイモンを一切置いていなかった。
先生は小さく頷いて、それから私の顔をじっと見つめた。
あのときの若い先生の顔を、いまの私なら第一種に分類する。
憐れみ。
ただし本人は、子どもへの深い優しさのつもりで浮かべている顔だ。
再検定は翌週、放送室の隣にある倉庫のような小部屋で行われた。
見知らぬ立会人が一人同席し、目の前には真新しい原稿用紙と、綺麗に削られた鉛筆が二本置かれた。
「ゆっくりでいいのよ」と先生は言った。
私はゆっくりと書いた。
カムパネルラの死のことを、前よりもさらに丁寧に、言葉を選んで。
汽車の窓ガラスに映る白鳥の停車場のことも、車内に満ちたりんごの匂いのことも。
書いているうちに掌がじっとりと汗ばみ、鉛筆を握る指先が一度だけ滑った。
いい文章が書けている——八歳の子どもの直感でも、それは確かに分かった。
三日後に職員室で返された原稿用紙には、前と寸分違わぬ位置と傾きで、同じ赤い角印が冷たく捺されていた。
◆◆◆
養父は水道局の裁定人だった。
地下配管の修繕計画と、街区ごとの水利配分。隣り合う敷地の境界をめぐる住民同士の揉め事。
公の基準に照らして正しいほうに水を通し、不当なほうを止める決済書類に判を捺す。
それを四十年、ただ愚直に繰り返してきた人だった。
夕方、仕事から帰ると、台所の土間で手を洗いながら、今日も一件無事に通した、と養母に短く報告する。
薬用石鹸の匂いと、その穏やかな一言が、あの家の夕暮れの合図だった。
その夜の食卓の光景を、私は生涯忘れることがないだろう。
献立は、鰺の開きと、南瓜の煮つけと、豆腐の味噌汁。
小学校から養父母への公式の通知書は、昼のうちに郵便で届いていたはずだった。
だが、誰も読書感想文の話題を出さなかった。
養父は紙の夕刊を几帳面に四つ折りに畳み、無言で箸を取った。
養母は私の茶碗に白飯をよそい、両手で包むように持って手渡してくれた。
鰺の皮の香ばしく焦げた匂いと、南瓜の甘い湯気が、木目の食卓の上でひとつに混ざり合っていた。
飯茶碗の縁の、小さく欠けたところ。
陶器の箸置きの、鼻のペンキが剥げた白い犬。
畳まれた新聞には、いつもより深く爪で押したような折り目がついていた。
なにもかもが普段どおりの家庭の食卓で、ただ、音の響き方だけが異様だった。
味噌汁を静かに啜る音が、あんなに大きく家じゅうに響き渡った夜はない。
食事の途中で一度だけ、養父が低く口を開いた。
「まあ、機械も、間違えることはあるさ」
その言葉は、誰にも拾われることなく、食卓の空間のなかで、ゆっくりと冷たく死んでいった。
この国の街中の壁という壁に貼り出されている標語を、三人とも骨の髄まで知っていたからだ。
〈神盾は、間違えない〉
養父は自分の吐き出した言葉が完全に死に絶えるのを見届けてから、南瓜の煮つけを黙って口に運んだ。
養母は味噌汁の椀を両手で持ったまま、長いこと唇をつけようとしなかった。
陶器の椀の熱が掌から腕の内側の皮膚へと伝わっていくあいだに、親指が一度だけ、椀の縁を愛おしむように撫でた。
それだけだった。
私を叱りはしなかった。
責めもしなかった。
疑いの言葉は、ただの一言も口にされなかった。
あの夜を境に、物部の家は、底冷えのする静寂に包まれるようになった。
◆◆◆
それからの数年間をどう書き記せばいいのか、私はいまでも迷う。
劇的な事件は、なにひとつ起きなかったからだ。
ただ、家族のなかにあったいくつかの温かな習慣が、ひとつずつ、音もなく消えていくだけだった。
養父には、学校から返ってきた私の答案用紙を読む習慣があった。
夕食の後、老眼鏡をかけ、短くなった赤鉛筆を手に取って丁寧に読む。
気に入った表現や正解の文の下に、定規を使わずにすっと赤い線を一本引く。余計な添削はしない。
読み終えると、決まって同じ調子で言ったものだ。
「うん。面白かった」
評価でも教育的な励ましでもない、ただの受領の合図だった。
私は、あの淡々とした受領の言葉が好きだった。
十歳の冬のある夜、算数の百点の答案と国語の綴り方を居間へ持っていくと、養父は新聞から目を上げないまま、低く言った。
「ああ……今日は、いい。もう飯にしよう」
声の調子は、どこまでも優しかった。
赤鉛筆は、卓の隅のペン立てに、鋭く削られたまま置かれていた。
翌日も、その翌日も、養父が答案の言葉を口にすることはなかった。
私の文章を読む習慣は、それきり二度と戻らなかった。
私もまた、しばらくして答案を差し出すのをやめた。
どちらが先に諦めて手を引いたのかは、いまとなっては、どちらでもいいことだ。
授業参観に、養母が姿を見せなくなった年もあった。
手習い塾に通ってくる近所の子どもが、一人減り、二人減りしていった年でもあった。
塾の玄関のたたきに並ぶ小さな靴の数を、私はいつのまにか数えるようになっていた。
八足あったものが六足になり、やがて四足になった。
養母はそのたびに靴箱の仕切りの間隔をそっと広げて、並びが不自然に寂しく見えないように繕っていた。
郊外の住宅地は狭い。
物部さんの家の子の不気味な噂は、当事者の私が知るよりも早く、大人たちの生活のあいだに毒のように広がっていた。
——あの子が機械だとしたら、あそこの塾で教えている手習いの字は、一体なんなのかしらね。
路地の井戸端で近所の主婦がそう囁き交わすのを、私は自宅の板塀の内側で息を潜めて聞いたことがある。
養母は近所の前では、毅然として私を庇ってくれた。
「うちの子は、自分の頭で、自分の手で書いています」
凛とした強い声でそう言い切るのを、障子越しに聞いたこともある。
あの声は、本当に強かった。
養母には手紙を書くときの大切な作法があった。
どれほど胸に伝えたい想いがあっても、きっぱりと三行で筆を止める。
短い言葉のほうが心に届く、長く書き連ねるのは自分の甘えのためだ、と。
あの人は、近所へ向けたあの強い一言に、己の矜持のすべてを込めていたのだろう。
そして家庭のなかでは、私が机で字を書いている気配を感じると、養母は足音を忍ばせてそっと部屋を出ていくようになった。
見ていないのではない。
私に気を遣い、見ないようにしてくれているのだ。
十二歳の頃のことだ。
廊下の押し入れの襖が少し開いていて、養母が、麻紐で十字に括った分厚い紙の束を胸に抱えて運んでいく後ろ姿を見た。
束のいちばん上に、私が小学校で書いた何冊もの綴り方の表紙が見えた。
何年ぶんもの、私が生きて書いたすべての言葉だった。
養母は背後の私に気づかないまま、押し入れのいちばん奥、古い行李の並ぶ暗がりの中へ、それを押し込むようにしまった。
襖の閉まる音は、あまりにも小さかった。
誰の目にも触れない、暗黒の底へ運ばれていく。
捨てるに捨てられず、かといって日常の目に入る場所にも置いておけない。
それは、法による廃棄処分と、一体どこが違うのだろう、と。
誰にも読まれない文章を一人で書き溜める私の奇妙な習慣は、まさにこの頃に始まった。
誰にも見せない帳面に、誰にも頼まれていない日々の観察を書きつける。
鉛筆が粗末な藁半紙の上を走る乾いた擦過音だけが、四畳半の部屋にひとつだけ残る。
静まり返った家のなかで、いちばん大きく鳴り響いていたのは、私の書くその音だった。
その擦過音が物部の家の中で鳴り続けていたのは、私が家を出る、十八歳の春までのことだ。




