第39話 綱引き
〔Kの記録〕
最高機密【国家存立事案】の指定が下りた翌朝から、省庁間を往復する紙の公文書の数が爆発的に跳ね上がった。
密室の会議の映像記録は存在しない。
盗聴の音声ログも残されていない。
歴史の闇の中に残されているのは、官僚たちが交わした手書きの受領印付きの、写しの束だけである。
公文書の論理で縄張りを争うとき、役人たちはまず、相手の使っている「名詞」を自らの都合の良い言葉へと書き換える。
その名詞の書き換えの生々しい痕跡は、書類の束を日付順に並べ直せば一目瞭然だった。
指定の翌日、まったく同じ日付で作成された二枚の公文書がある。
情報局が起案した文書は、この事件をこう呼称した。
〈鏡像事案(当局主導捜査)〉
だが、防衛省が提出した文書は、まったく同一の事案をこう書き換えていた。
〈新型系統開発計画に対する敵性浸透事案〉
ひとつの事件に、二つの相容れない名前。
事件の名称が二つに分裂すれば、管理番号も二つに割れる。
公文書の束の中で、同一のターゲットが、二つの異なる役所によって別々に採番されていた。
情報局にとって、影人は国家の認証体制を欺いた侵入者であり、事件の本質は治安捜査の対象である。
だが防衛省にとって、影人は自らが極秘裏に進める新型兵器の調達網を脅かす敵国スパイであり、事件は即座に軍事防衛の対象となるのだ。
事案の呼び方が違えば、指揮権の在り処が違う。
主導権の在り処が違えば、国家から注ぎ込まれる巨額の軍事予算と特権の流れる先が根本から変わってくる。
国家存立事案という最高ランクの指定は、それまで眠っていた国家の巨大な省庁群を、いっせいに権力の配分テーブルへと叩き起こしたのだ。
同じ日付の紙が、もう一枚存在していた。
保安省から提出された、わずか一枚の極秘通達である。
そこには、たった一行しか記されていなかった。
〈所要の措置を執る〉
事件の名前も、標的のコードネームも、一切書かれていない。
省庁間の主導権争いのテーブルにも、最初から参加していない。
この冷酷な一行だけが、机の上の言葉の議論を完全に拒絶していた。
保安省が提出した紙は、この膨大な束の中で最も枚数が少なかった。
だが、その裏に添付された経費の請求書だけは、他のどの省庁よりも桁違いに膨れ上がっていた。
作戦車輌の特殊燃料費。
工作員の現地宿泊費。
そして、特殊実動部隊への特別危険日当。
他の省庁が庁舎の中で紙の喧嘩に明け暮れている隣で、保安省というひとつの暗黒の実動組織だけが、すでに現場の街へ飛び出し、物理的な武力を行使して金を使い始めていたのだ。
そして四つ目の紙は、国家検定庁から提出されていた。
縄張りの争いには、一切加わっていない。
〈国家検定AI〈神盾〉の判定精度において、構造的な瑕疵は一切認められない〉
〈八洲通商事案は認証アルゴリズムの突破ではなく、物理的な非電子経路の不法悪用と解する〉
神盾の判定は、過去から未来に至るまで絶対に誤っていない、と検定庁は強弁する。
機械の判定が誤り得る不完全なものだと一度でも公文書に書き記してしまえば、この国の「精度百パーセント」という統治の絶対公理が、その瞬間にガラガラと音を立てて崩壊するからだ。
三つの巨大省庁が事件の獲物を奪い合っているすぐ隣で、検定庁だけは、自分たちの面目を保つために、事件そのものを「最初から存在しなかった」ことにしていた。
◆◆◆
防衛省側の提出文書には、二人の高官の署名が繰り返し登場していた。
防衛省長官、鹿島武臣。
そして、技術廠長、天目。
鹿島長官の名で出された合議文書は、極めて端的に本質を突いていた。
〈影人事案は新型系統の調達網に対する敵性浸透であり、本質は高度防衛事案である〉
〈また、起源児童なる特異個体は、思兼系の全システムに強力な干渉痕を残している。思兼系のあらゆる電磁・無人装備が一切通用しない標的の出現は、次世代新型系統の存在意義そのものに関わる重大事態である〉
一枚の紙の上で、影人と昊という二つの異端は、防衛省の「軍事兵器開発の問題」として冷酷に一本化された。
そして、天目技術廠長の名で添えられた技術所見は、わずか二行しかなかった。
そのうちの一行に、戦慄すべき記述があった。
〈新型系統の基盤における挙動原理については、解釈班による仕様書の整備が現在も継続中である〉
自分たちが製造したはずの兵器の動作原理の仕様書を、いまこの瞬間に後から手探りで書いている。
作った側の人間が、自らが作り出してしまった怪物の正体を理解できず、後から必死に説明をでっち上げているのだ。
完成してしまった制御不能の怪物を目の前に置き、後から慌てて設計図を逆算して描き起こしているような、狂気の手つきだった。
「解釈班」という謎めいた研究組織の名は、この膨大な公文書の束の中で、その一行の中にしか現れない。
◆◆◆
三日目、情報局から激しい反論の公文書が叩き返された。
〈本件は国家認証体制の捜査事案であり、軍事装備の実験に供する性質のものではない〉
四日目、防衛省は情報局の文章をそのまま引き写し、文末だけを強引に書き換えて突き返した。
〈国家認証体制の事案であるからこそ、現行認証の効かない未知の対象に対する軍事的対処能力を要する〉
まったく同一の文章が、二度目には銃口の向きを反転させて返ってくる。
役人たちの紙の戦争とは、常にそういう冷酷な形をしている。
誰ひとりとして大声を荒らげる者はいない。
相手の主張を正面から否定することもしない。
相手の論理の骨格をそのまま奪い取り、最後の一句だけを自らの欲望の側へと力任せに折り曲げるのだ。
この醜悪な綱引きの決着は、五日目の統合決定書に記されていた。
〈捜査の全体主導権は情報局が保持する〉
〈ただし、対象(起源児童)が都市の認証網の希薄な境界区域へと移動した場合、防衛省は新型系統の【限定的運用試験】を実施できる〉
たったひとつの条件が付与されただけの、一見すると情報局への譲歩の形をとっていた。
——限定的運用試験。
この七文字の無機質な言葉の中に、一体どんな恐るべき破壊の力が込められているのかを、この紙は一切語らない。
国家の最も巨大な運命を決定する紙ほど、文字の行数は短くなる。
文章が長くなるのは、官僚が言い訳を並べ立てるときだけなのだ。
綱の両端を激しく引き合っていた二つの巨大省庁は、この一枚の合意書によって、獲物を狩る方向を完全に一致させた。
綱の真ん中に括りつけられている「生身の人間」について、防衛省側の書類は、何ひとつ記していなかった。
年齢も、過去の経歴も、家族の存在も、その背負ってきた孤独も。
書類に印刷されているのは、無機質な【作戦符牒】と、監視衛星が割り出した【目標座標】の欄だけだった。
情報局が九枚の稟議書を費やして詳細に数え上げた一人の青年の生活のすべてが、防衛省のシステムの中では、ただの二つのパラメータへと圧縮されていた。
国家存立事案の「区画管理」とは、現場の兵士たちに標的の生身の顔を見せないための、完全な非人間化のシステムなのだ。
引き金を引く側の人間は、自らが撃ち殺そうとしている対象が、一体どんな息遣いをした人間であるのかを、知る必要すらないのだ。
公文書の束の最後に、防衛省技術廠の内部起案の控えが一枚だけ挟まれていた。
新型系統の実戦投入の理由を述べた箇所に、こう記されていた。
〈対象は思兼系の観測・誘導・制圧のいずれに対しても未知の干渉波を放つため、既存の軍事装備による捕獲・排除は確実性を著しく欠く〉
〈翻って、新型系統は思兼系とはアーキテクチャの系統を完全に異にする〉
そして、技術廠の技術官が書き残した、結びの戦慄の一行。
〈思兼系が一切通用しない未知の対象——新型系統の真価を実証するための、最も理想的な実験場である〉




