第40話 引鉄は肉で
〔Kの記録〕
防衛省が起案した【限定的運用試験】の七文字には、恐るべき続きが存在していた。
公文書の束の最後に綴じられていたのは、実戦試験の実施要領と、極秘の人事編成書類だった。
実施要領の第一項。
〈新型系統における発射権限の最終段は、必ず人力とする〉
印字された活字のすぐ脇に、決裁者である鹿島防衛長官が、太い万年筆で自筆の手書き注記を残していた。
〈引鉄は肉で〉
わずか五文字。
標的の発見と観測を機械にやらせる。
攻撃の最適弾道の計算と照準を機械にやらせる。
そして、未来予測による精密追尾を機械にやらせる。
だが——最後の引き金を引く指の運動のたった一動作だけを、システムは冷酷に生身の人間の肉体へと委ねるのだ。
「指」とは書かれていない。
指と呼べば、それは機械の交換可能な末端部品の名称になってしまう。
人間の生身の「肉」は、決して無機質な部品などには成り代われない。
寒さに震え、過酷な任務に疲れ果て、そして命を奪う瞬間に激しく迷う。
その生身の人間の迷いと業を、兵器の最終段にひとつだけ残すことこそが、この国の軍隊が誇る狂気の作法なのだ。
迷いを残すのだとすれば、その引き金を引く肉体は、一体誰の肉なのか。
実施要領の第二項は、その問いに対する恐るべき答えを記していた。
〈試験実施部隊 現場指揮官 卜部到 防衛省技術廠 試験運用官〉
要領の第二項の補足。
〈試験機材の搬入は、対象(起源児童)の所在座標が確定した後、別命によって行う〉
〈それまでの間、現場指揮官は保安省特務部隊の検問統制に随伴し、実戦試験場の適否を現地にて検分する〉
重火器の機材よりも先に、引き金を引くための生身の肉体だけが、先行して現場へ送り込まれていたのだ。
第三項は、試験区域の限定。
〈試験区域は、都市の認証網が希薄な境界区域に限る〉
第四項は、データ計測の範囲。
〈計測は、発射の瞬間から弾頭の着弾に至る全区間を対象とする〉
そして、第五項。
〈着弾後の対象(起源児童)の状態にかかわらず、計測データの回収を最優先とする〉
五つの条項の中で、標的となる生身の人間の肉体に直接触れているのは、この第五項の一行だけだった。
触れていながら、「着弾後の状態」が一体何を意味するのか——肉体が四散するのか、黒焦げの灰になるのかは、一切書かれていない。
そんな凄惨な現実を書いてしまえば、役所の綺麗な公文書の言葉ではなくなってしまうからだ。
添付された人事書類は、卜部到に関する勤務評定と、軍監察部の極秘査問記録の抜粋だった。
書類の冒頭に、異例の配属経緯が一行だけ記されていた。
〈本人の強烈な志願による〉
技術廠から現場の実戦指揮官を出す場合、通常は年功序列の持ち回りで順番に回される。
自ら死地への指揮官を志願した例は、過去のどの記録にも存在しなかった。
勤務評定は、極めて短く一行に要約されていた。
〈射撃・兵器運用成績、技術廠内において歴代最上位。試験データの回収率、完全百パーセント〉
だが、監察部の査問記録のほうは、異様な長文で埋め尽くされていた。
〈深接続端末の無許可の私的使用について、軍規程違反が三件。いずれも訓告処分に留める〉
〈作戦行動中における宗教的・オカルト的言動について、複数の部下より申告あり。職務遂行に支障なしと判断し、不問とする〉
〈実弾射撃に先立ち、両手のひらを激しく打ち合わせる動作が反復して確認される。古代の神前儀礼における『柏手』に酷似。装備の保持・発射に支障なしと判断する〉
〈部隊の移動中および待機中における、詠唱様の不可解な小声の発声について、同乗の隊員より申告あり。古代祝詞に酷似。無線交信に支障なしと判断する〉
——支障なし。
——不問。
——訓告に留める。
まったく同じ寛大な結論が、四度にわたって機械的に繰り返されていた。
この特異な軍人が規律に違反するたびに、軍組織は天秤を取り出してきたのだ。
男の抱く狂信的な宗教儀礼の異様さと、男の叩き出す完璧無欠な射撃成績の高さを、天秤の左右に載せて。
そして四度とも、その恐るべき軍事的実力と殺傷能力のほうが、組織の常識よりも圧倒的に重かったのだ。
◆◆◆
公文書の束の中に、一枚だけ書式の異なる紙が挟まれていた。
作戦に随伴する保安省特務暗殺部隊の指揮官が、上層部へ提出した申し送りの控えだった。
保安省の特務部隊は、完全な隠密暗殺を専門とする。
消音器付きの火薬銃やワイヤーなど、電子ログを残さず、音も立てずに人を暗殺する政変前の古い道具を操るプロ集団だ。
その暗殺部隊の隊長が、上層部へ向けて自筆でこう具申していた。
〈技術廠側指揮官(卜部到)の宗教的言動は、部隊の秘匿行動と著しく相容れない。作戦編成の再考を強く具申する〉
だが、その具申は握り潰された。
具申が却下されたことは、最終編成表のメンバーが一人も変わっていないことで証明されていた。
最終編成表。
装甲車輌が三台。
隊員の名が、全部で十一名。
上から二番目に、技術廠の卜部到の名がひとつだけ独立して置かれていた。
残りの十名は、すべて保安省特務部隊の暗殺工作員だった。
音もなく静かに人を消す暗殺部隊と、神前の祝詞を歌いながら未知の兵器をぶち込む狂信的な狙撃手が、まったく同じ突入車列に詰め込まれたのだ。
深接続の私的使用によって、この男は一体何と交信しているのか。
柏手を打ち鳴らす神前の儀礼で、この男は一体誰を射殺しようとしているのか。
紙の公文書は、そこまでは書かない。
そんな人間の魂の深淵を書き記すための枠など、国家の台帳には最初から存在しないのだ。
〔Kの記録 ここまで〕
◆◆◆
街区の辻の公営端末へ通い詰める日々が、丸四日間続いた。
朝の夜明け前に一度。
夕暮れの引き潮の時刻に一度。
だが、公営端末の受信トレイは、八回連続で完全な空っぽのままだった。
安宿の部屋で、明石さんは昼間のあいだノート端末の解析に没頭し、日が沈むと端末を革鞄の底へ仕舞い込んだ。
潜伏して三日目の夜から、明石さんは部屋の中で一切の私物を解かなくなっていた。
「……一度解いた荷物は、逃げるときに部屋へ置いていく羽目になるからな」
一階の焼き鳥屋の店主は、二日おきに二人ぶんの宿賃を前払いで受け取り、それ以上は何ひとつ余計な言葉を発しなかった。
四日目の夜、私は机の前で帳面に一行だけを書き記した。
〈誰かからの返信を待つというのは、同じ埃っぽい道を二度ずつ往復することだ。〉
そして、五日目の夜が訪れた。
朝の通信も途絶えたまま、一階の焼き鳥屋の客たちの笑い声が最も高く響き渡る時刻を見計らって、私は宿を出た。
夕暮れ時の労働者たちの列は、すでに綺麗に掃けていた。
冷たい夜風の中、公営端末のガラス扉を力強く引いた。
テンキーを叩いて暗証番号を打ち込むと——液晶の受信トレイに、新着メッセージが一通だけ灯っていた。
表示窓の緑色の文字が、暗闇の中で鮮烈に浮かび上がった。
〈特務が動いた。
今夜、出て。
西へ。
——K〉
四行。
本文が三行と、送信者を示す署名が一行。
表示窓の下の四行の空間は、完全な黒い闇のまま静まり返っていた。
私は【返信】のキーを選び、テンキーの上に右手の指先をそっと置いた。
指先を置いたまま、数秒間、微動だにしなかった。
プラスチックのキーの丸い窪みが、私の指の腹を押し返してくる。
キーを押し込めば、私の側から一行の言葉を撃ち返すことができる。
だが、言葉を撃たずにこの手を離すと決めるのもまた、私自身の生身の指の意志だった。
いま打ち込むべき言葉よりも先に、全速力で動かすべき足が、私には残されていた。
私はテンキーから指を離した。
——硝子の扉を力任せに押し開け、私は夜の暗闇へと飛び出した。




