第38話 稟議
〔Kの記録〕
その極秘の稟議書は、全部で九枚の紙で綴じられていた。
本文が七枚。
添付の証拠目録が一枚と、最終決裁の捺印欄が一枚。
一枚目の右肩の余白に、起案の日付と機密指定の紫色の角判。
そのすぐ下に、起案者の官姓名がタイプされていた。
——鵜飼慎一。
統合体情報局、国内保全部統括官。
この超管理社会において、国家の存亡に関わる最も重い決裁事項は、いまなお紙の公文書によって物理的に回覧される。
電子のネットワークに載せることができない極限の国家機密ほど、紙という物質になる。
紙は生身の人間の足の速さでしか運ばれないが、誰の机を通ったかという物理的な通過の痕跡だけは、絶対に改竄できないからだ。
文体は、漢語の密度が極めて高かった。
修辞を惜しんでいるのではない。
解釈の曖昧さが入り込む隙間を、官僚的な論理によってひとつずつ完全に圧殺しながら書かれているのだ。
九枚の長大な稟議の骨子は、わずか三行に要約することができた。
〈八洲通商事案(以下、影人事案)および神盾判定における特異個体事案(以下、起源児童)を統合し、単一の国家防衛事案として処断する〉
——起源児童。
戸籍と生身の肉体を持つ一人の無辜の青年に、国家機関が勝手に貼り付けた非人間的なコードネームだ。
名前のある人間を、名前で呼ばずに処理するための、官僚機構の冷酷な符牒である。
〈思兼系の起源に関わる最高機密情報を保有する敵性勢力が、国内において二つの破壊工作を並行して進行させていると認められる。
一は、影人による都市中枢の特務調達網への不正浸透。
一は、起源児童への元外部嘱託(明石)を経由した物理的接触である〉
〈いずれも国家認証システム〈神盾〉の構造的脆弱性を意図的に突く高度な諜報工作であり、本事態は認証体制の信頼性、ひいては国家の存立を根底から揺るがす危機である〉
〈よって本事案の、最高機密【国家存立事案】への格上げおよび強制執行を具申する〉
三枚目から五枚目までにわたって、起源児童に関する詳細な調査摘要が添付されていた。
過去十六年間の全検定判定ログ。
港湾地区における六年間の日雇い就労履歴。
旧市街のアパートの居住歴。
出入りする定食屋や銭湯の名、毎日の通勤路、そして現場で言葉を交わす同僚たちの名簿一覧。
アパートの家賃の額と、その支払い方法までが克明に記録されていた。
——月に一万八千円。現金の、手渡し。
社会から数えないと決めた最底辺の人間の生活を、この国家はここまで狂気のように数え上げていたのだ。
だが、その完璧な調査摘要の末尾に、たったひとつだけ空白の欄が存在した。
〈犯行の動機〉
埋まっていない。
九枚の膨大な書類の中で、文字が書き込まれていない空白の欄は、そこだけだった。
八枚目は、添付物件の目録だった。
押収された六つの品目が並び、五つ目までは事件の関連書類の名だった。
そして六つ目に、たった一行の不気味な項目が記されていた。
〈新型系統の実戦配備および強制排除に関する具申(防衛省合議)〉
新型系統が何を意味するのかは、目録の上には一行も書かれていなかった。
書かないことそのものが、この起案者の冷徹な精度の内側に計算されていた。
◆◆◆
七枚目の書類の、下三分の一は、真っ白な空白だった。
タイプライターの印字が途中で途切れ、そこから先が完全な余白になっている。
その白い余白の真ん中に、万年筆による手書きの一行が、小さく走り書きされていた。
極めて細い線。
筆圧が羽毛のように軽く、紙の裏側にはほとんど凹みが残っていなかった。
〈なお、起源児童の過去の生活経歴(T0最下層、港湾日雇い検数員、ダイモン非保有)は、敵性国家の訓練された精鋭工作員の心理プロファイルと著しく乖離する。この点、別系統による慎重な追加調査を要す〉
起案者・鵜飼慎一は、自らが書き上げた稟議書の論理の中心を、心の底では冷徹に疑っていたのだ。
だがその個人的な疑念を、男は組織用の公式の本文の中には一行たりとも入れなかった。
そんな疑いを本文に書き込めば、稟議は上層部を通らない。
稟議が通らなければ、国家の治安部隊を動かす予算も権限も降りてこない。
権限が降りなければ、影人という巨大な怪物を物理的に止めることができないからだ。
影人を捕獲するために、この男は自らの個人的な疑いを、七枚目の余白の奥底へと押し殺して閉じ込めたのだ。
印字された活字は国家組織のものであり、手書きの余白だけが、個人の生身の魂のものだ。
——正しいことと、この社会の中で公にしてよいこと。
その二つを峻別する自らの冷酷な規律を、鵜飼という男は、誰よりも厳格に自分自身の肉体にも課していたのだ。
◆◆◆
書類の束の中に、この作戦全体の機密符牒を記した一枚が挟まれていた。
命名したのは、起案者である鵜飼自身だった。
〈作戦名:鏡像〉
肉体を持たないのに、完全な人間として通り続けた、影人。
生身の人間であるのに、完全な機械として弾かれ続ける、昊。
二つの相容れない怪物を一枚の紙の上に並べ、この男は、その事件に「鏡」という名を授けたのだ。
この国家の中で、この事件の真の構図を最初から正確に見抜いている人間が、敵側に一人だけ存在していた。
◆◆◆
書類の束の背表紙に、一枚の受渡簿がピンで綴じられていた。
紙の稟議書が次の机へと手渡されるたびに、受け取った官僚が自筆で自らの名前を署名する管理用紙だ。
電子の印鑑は許されない。必ず生身の手で肉筆を書かせる。
九枚の書類の束は、情報局庁舎の中で、七つの机を通過していた。
七つの異なる手の筆跡が、受渡簿の上に整然と並んでいる。
ペンの走る速度も、ハネの角度も、七人七様だった。
その七つの署名の中で、一番上に書かれた筆跡が、最も細く、最も筆圧が軽かった。
七枚目の余白に、あの手書きの疑念の一行を足した筆跡と、完全に同一の手だった。
公式の本文には自らの疑いを一行も残さなかった男が、受渡簿の最上段には、誰よりも早く自らの本名を刻みつけていたのだ。
◆◆◆
九枚目が、最終決裁の用紙だった。
各部署の回覧印が四つ。
課長から局長に至るまで、どの段階の幹部も、鵜飼の書いた稟議本文に一文字の修正も加えていなかった。
最下段に、統合体情報局長の官姓名が黒い活字で印刷されていた。
その横に、鮮やかな朱肉の公印が、ひとつだけ重厚に捺されていた。
この決裁用紙の一枚には、手書きの文字は一文字も存在しなかった。
ただ、印鑑を捺しただけの、完全な無機質の決裁。
稟議書はそこから、統治機構の最高意思決定機関へと送られた。
送られた暗黒の奥底で、誰がどんな言葉を交わしたのかを、この紙の記録は保持していない。
残されているのは、三日後の日付で情報局へと返送されてきた、一枚の公的決定書だけだった。
〈本件、国家存立事案に指定する〉
たった一行だった。
その決定書のどこにも、起案者である鵜飼慎一の名は記されていなかった。
稟議というものは、一度通ってしまえば、もはやそれを書いた個人の手腕を完全に離れ、国家という巨大な怪物の意志となって暴走を始めるのだ。
鵜飼が疑念を閉じ込めたあの七枚目の余白は、束の奥深くで、静かに闇の中に埋もれていった。
——国家存立事案。
この血塗られた六文字の決裁が下りたその日から、省庁の垣根を越えて、防衛省の軍事治安部隊が、同じ紙のターゲットを同時に追い始めることとなった。




