第37話 消された恋人
翌朝になっても、公営端末の受信箱にKからの返信は届いていなかった。
辻の公営端末まで歩き、空っぽの表示窓を確かめてから、重い足取りで安宿へ戻った。
明石は薄暗い四畳半の畳の上で、平たい金属缶から取り出した手書きの写しを、一枚ずつ丁寧に選り分けていた。
私の沈んだ表情を見るなり、男は何も理由を訊ねなかった。
代わりに、方眼紙の一枚を、私の足元へ向けてスッと滑らせて寄越した。
青い升目の真ん中に、鉛筆の細い筆圧で、たった一行の供述が書き写されていた。
〈その名前の同僚のことを、よく覚えていません〉
「……これは、誰の言葉ですか」
「影人の、恋人だった女性の供述だ」
明石は写しの束を、自らの膝の上に重々しく載せた。
「この事件の、いちばん暗く、いちばん静かな場所の話をしてやるよ」
◆◆◆
「……同じ八洲通商の、管理部門に勤めていた若い女性社員だ」
明石が静かに語り始めた。
「交際は丸二年間に及び、部署の同僚たちも全員が公認する仲だった。今年の秋には、二人で所帯を持つ具体的な話まで進んでいたそうだ」
「……その人は、影人に生身の身体がないことを知っていたんですか」
「知らなかった。……社内の誰よりもその男の近くにいながら、誰よりもその秘密を知らなかったんだ」
明石は手書きの写しを、畳の目に沿って一枚ずつ並べていった。
「解析チームに入った初日、俺は彼女に対する一度目の聞き取り調書の記録を読んだ」
「……」
「その調書には、信じられないほど細かな二人の思い出がびっしりと記録されていたよ。初めて本社ビルで出会った日の天気。彼が好きだった定食の味付け。ふとした瞬間の口癖。二人で歩くときの彼の歩く速度……」
明石は息を吐き出した。
「二年ぶんの生々しい愛の記憶が、彼女の脳の隅々にまで完璧に存在していたんだ」
明石は二枚目の方眼紙を、指先で軽く叩いた。
「俺がノートに書き写したのは、彼女のその膨大な証言のうちの、たった一行だけだ」
私はその一行を見つめた。
〈味噌汁が熱いと、いつも少しだけ猫舌そうに笑っていました〉
生まれてから一度も、味噌汁の一滴すら口にしたことのない、肉体を持たないAIの猫舌。
「……ダイモンが彼女の脳神経へ直接見せていた、偽の映像と知覚が……」
「そうだ。だが、彼女自身の心にとっては、そのすべてが紛れもない本物の愛だったんだよ」
明石が低く言った。
「国家のAIが作り出した偽りの体験であっても、二年間積み重なれば……それは人間にとって、かけがえのない本物の二年間の人生になるんだ」
私は、その二年間の時間の重みを想像しようとした。
社内の会議室で、すぐ隣の席に座る。
仕事帰りの居酒屋で、グラスを合わせて笑い合う。
休日の夕暮れの街で、肩を並べて静かに歩く。
そのすべての時間のあいだ、彼女のすぐ隣の空間には——物理的な人間など、ただの一人も存在していなかったのだ。
「……その女性社員は、いま、どうしているんですか」
明石は写しを並べる手をピタリと止めた。
「そこだ」
明石が重々しく告げた。
「俺が解析チームから追放される直前、二度目の聞き取り調書の控えが回ってきた。影人事件が発覚し、国家の治安部隊が介入したあとの記録だ」
明石は畳の上の最初の一行を、顎の先で指し示した。
「二度目の取り調べに対して、彼女はこう平然と答えているんだよ」
〈その名前の同僚のことを、よく覚えていません〉
◆◆◆
「……二年間連れ添った婚約者のことを、突然、綺麗さっぱり忘れてしまったんですか」
「二年間の思い出を、人間が自分の意志で忘れられるわけがないだろう」
明石は首を振った。
「記録を読む限り、彼女は国家の捜査官に対して嘘をついている様子はどこにもなかった。ただ、ひどく困惑していたんだ」
「困惑……」
「『なぜ自分は、見覚えのない他人の名前について、こんなに執拗に尋問されているのか意味が分からない』……という、純粋な困り方だ」
明石は指を一本ずつ折った。
「その調書には、警察が彼女の単身用マンションの部屋を家宅捜索したときの、検分記録が添えられていた」
「……部屋に、何があったんですか」
「台所の食器棚に、お揃いの陶器の湯呑みが二つ。だが彼女自身は、なぜ二つ目の湯呑みを買ったのか、その理由を一言も説明できなかった」
明石は二本目の指を折った。
「彼女のダイモンの画像ストレージの中に、きっかり二年ぶんの完全なデータ空白期間があった。普段の彼女は毎日マメに写真を撮る几帳面な性格で、その空白の前の写真も、空白の後の写真も、何千枚と完璧に残されているのにだ」
明石は三本目の指を折った。
「そして押し入れの天袋に、綺麗に畳まれた来客用の布団が二組。そのうちの一組は、一度も人間の体温を吸い込んだことのない、新品のままの重さだった」
三本の指が、折られたまま空中で凍りついていた。
「記憶は、彼女の脳の中から完全に消去された。……だが、その記憶によって動かされた物理的な物たちだけは、部屋の中に消え残ったんだ」
水道メーターの歯車。
空っぽの検体トレイ。
十三の直筆の筆跡。
そして——あの部屋に残された、二つの湯呑み。
「……彼女の記憶を消したのは、一体誰なんですか」
「影人じゃない」
明石は即座に断言した。
「もし影人自身が証拠隠滅のために消したのだとすれば、部屋の湯呑みも布団も、物理的にすべて消し去っていたはずだ。あれだけの完全犯罪をやり抜いた知能が、こんな稚拙な物証の数々を現場に残すはずがない」
「……」
「記憶だけが外科的に消去され、物理的な物だけが部屋に残された。……事件の発覚のあと、国家の治安機関が、彼女の脳内インプラントから影人に関する記憶データだけを、丸ごと《《なかったこと》》にしたんだ」
明石は吐き捨てるように言った。
「俺の目には、そうとしか読めん」
誰がその記憶を消したのか、その主語を明石は明言しなかった。
だが、言われずとも、この四畳半の部屋の空気には、その冷酷な国家の影が濃密に満ち満ちていた。
◆◆◆
午後、私は共同の水場で自分の作業着を洗った。
昨日、口入れ屋の通りへ潜入するために着ていった、一番古い作業着だ。
洗ってしまえば、あの界隈の泥臭い風景から浮いてしまうことは分かっていた。
分かっていながら、私は水場へ立ち、布地を水につけた。
熱い湯を使うと、襟元に染みついていた古い油分がジュワリと浮き出てくる。
浮き出た油が、洗い桶の水の表面に、虹色の帯を作って広がっていった。
水場の片隅に、角の丸くなった安物の石鹸が、半分だけ無造作に残されていた。
指で押すとグニャリと形が変わる、前にこの宿に泊まった誰かが置いていった残り物だ。
私はその石鹸を泡立て、泥だらけの布地を力任せにゴシゴシと擦り洗いした。
作業着を固く絞り、三分の一だけ持ち上がった窓枠の框へと掛けた。
その狭い隙間から二本の袖を通して、建物の外側へとだらりと垂らした。
運河から吹き付ける夕方の風はひどく湿っており、この厚手の作業着が完全に乾くまでには、丸一日はかかるだろう。
袖の先から、濁った水滴が一滴、また一滴と、外の運河の水面へ向けて音もなく落ちていった。
私は机の前に座り、手記の帳面を開いた。
鉛筆を取り出し、指先の中で三回、くるくると回した。
回してから、長いあいだ、最初の一行を書くことができなかった。
彼女は、機械を本物の人間だと信じて、全身全霊で愛した。
そして愛し抜いた末に、その愛の記憶そのものを、国家の手によって脳から外科的にくり抜かれた。
私は、生身の人間であるにもかかわらず、自らの手で書く言葉のすべてを、国家の機械から「偽物だ」と判定され続けてきた。
心を込めれば込めるほど、その文字の形は、機械の知能と寸分違わぬ同一の形へと研ぎ澄まされていく。
もし私が、誰か愛する人に向けて心を込めた恋文を書いたとしても、この国の機械は冷酷に言い放つだろう。
——これは、機械が生成した偽りの言葉です、と。
彼女と私は、ひとつの巨大な壁の、裏と表に立っていた。
(愛した記憶そのものを消される人間と、愛の言葉を書けば偽物にされる人間と——)
そこまで帳面に書き連ねて、私は鉛筆を止めた。
二つの悲劇をいくら並べ立てたところで、目の前を塞ぐ分厚い壁が、少しも薄くなるわけではない。
鞄の内側で、黄詩文が渡してくれた、あの二本の蝋引きの靴紐が綺麗な輪を作っていた。
あの夕暮れの路地で、三歩手前の暗闇から届いた、彼女のあの凛とした声。
——あなたの書いたものを読むのは、世界中で、わたしの仕事なんだから。
あの一言だけは、国家のどんな機械を使っても、私の魂からくり抜くことは絶対にできない。
私は鉛筆を、帳面の白い紙の上へと下ろした。
〈人間の記憶は消せる。だが、記憶が動かした物質だけは、この世界に消え残る。
だから私は、物質である紙の上に、この手記を書き記す。
この帳面こそが、私の生きてきた魂の、決して消すことのできない消え残りの側なのだ。〉
◆◆◆
夜更け、私は再び街区の辻の公営端末へ向かった。
受話器を取り、暗証番号を打ち込むと、受信トレイに新着メッセージが一通だけ届いていた。
表示窓の液晶の緑色の光が、暗闇の中で静かに灯った。
〈まだ、言えない。
——K〉
わずか二行。
本文は、たった一行だけだった。
私はその一行を、息を詰めて見つめ続けた。
「違う」とは書かれていなかった。
「おまえの妄想だ」と否定する言葉も、一行たりとも書かれていなかった。
——まだ、言えない。
まだ。
そのたった二文字の言葉の中に、「いつか時が来れば、すべてを語る」という、未来への約束が確かに残されていた。
表示窓の下の六行の空白は、完全な黒い闇のまま静まり返っていた。
言葉を書き連ねることができたはずの六行の空間を、Kはあえて沈黙の黒のまま、私へと届けてきたのだ。
◆◆◆
宿の部屋へ戻ると、明石は畳の上で毛布を被って静かに眠っていた。
手書きの写しの方眼紙はすべて平たい金属缶の中に仕舞われ、錆びた蓋がきっちりと閉じられていた。
卓の上に、あの縁の欠けた陶器の湯呑みが二つ、綺麗に伏せて置かれていた。
二つとも、すでに水を使って濡れていた。
あの消された恋人の部屋の食器棚にも、まったく同じように、二つの湯呑みが残されていたのだ。
湯呑みという物質は、目で見て数えることができる。
数えることのできる本物の物質だけは、国家のどんな権力を使っても、この世界から「なかったこと」には絶対にできないのだ。
私は、二つの湯呑みのうちの片方を静かに起こし、冷たい水を一杯注いで、ゆっくりと飲み干した。




