第36話 天井と床
明石はノート端末を、畳の上でくるりと百八十度回転させた。
初めて丘の上の作業場を訪れたあの日、男が私の目の前で慌てて伏せた、あの青白い液晶画面。
そのディスプレイが、いま、私の目の前を真っ直ぐに向いていた。
黒いグラフの座標平面の上に、二本の鋭い直線が引かれていた。
一本の線は、グラフの最上部の【天井】に、ミリの狂いもなくピッタリと張りついていた。
縦軸の百パーセントという限界線に沿って、まるで定規を当てて引いたかのように、どこまでも水平に伸びている。
十六年間、国家の検定AIから一方的に偽物と判定され続けてきた、私自身の人生の軌跡だ。
そして——もう一本の線は、グラフの最下部の【床】にあった。
縦軸のゼロパーセントという底辺の線の上を、一度たりとも浮き上がることなく、地を這うように水平に走っていた。
「……影人の、過去二年間の全判定履歴だ」
明石が画面を指差して言った。
「八洲通商への入社試験の論文。二年間に提出された何百本もの業務報告書。経営会議の議事録。そして、人事評価の自己申告シート」
「……」
「そのすべてが、百パーセントの確度で『完全なる人間(陰性)』として検定をパスし続けている。国家のどの機械からも、ただの一度たりともAIの生成物だと疑われていない」
天井の線と、床の線。
ひとつの狭い画面の中で、二本の線は、互いを鏡のように反転させた完全な鏡像となって走っていた。
「……天井と、床ですね」
私は息を呑んで呟いた。
「百パーセントの陽性と、百パーセントの陰性。……完全な、鏡です」
床の線には、始まりと終わりがあった。
二年前の春の入社日に突然立ち上がり、そして二週間前の内部監査の日の座標で、プツリと垂直に断ち切られている。
だが、天井の線には、終わりがなかった。
十六年前から一度も途切れることなく画面の右端まで疾走し、そのまま枠線の外側の無限の未来へと突き抜けている。
明日も、来週も、来年も、まったく同じ高さで孤独に続いていく線。
「統計屋として、冷徹な確率論を言わせてもらう」
明石は画面のプラスチックの縁を、親指で強く押さえた。
「この二本の線が、互いに何の関係もなく独立して偶然に発生したと見なす確率は……計算するだけ紙と時間の無駄だ」
◆◆◆
「……国家は、この二本の線を一体どう見ているんですか」
明石は画面に顔を近づけた。
「解析の途中で、俺は治安機関から一方的に首を切られた。あの三通の退去・査問通知が届いたのは、その直後のことだ。……だから、ここから先は俺の推論になる」
「聞かせてください」
「国家の公安警察と情報局の理屈でシナリオを組めば、こうなる」
明石は人差し指を立てた。
「〈思兼〉の最深部の構造を知り尽くした何者かの組織が、この国の盤上に、二つの極端な駒を意図的に配置した」
「二つの駒……」
「ひとつは、神盾の認証を完璧に出し抜いて、都市中枢の最高機密の調達網へと潜入する駒——影人だ」
「……」
「そしてもうひとつは、神盾の認証に十六年間徹底的に弾かれ続けることで、国家の判定アルゴリズムの盲点を外側から炙り出し続ける、正体不明の空白の駒——物部昊、君だ」
「……私は、誰かの駒なんかじゃありません!」
「ああ、君自身はそうだろう。だが、国家情報局のモニタには、この二本の異常な直線しか映っていないんだよ」
明石は天井の線をなぞった。
「完璧すぎる百パーセントの陰性と、完璧すぎる百パーセントの陽性。……どちらも、自然界の統計学では絶対に発生し得ない狂気の数字だ」
「……」
「作為を疑うのが、あの情報局の連中の職業病でな。作為である以上、これは目に見えないサイバー諜報戦であり、国家に対する静かな開戦の狼煙だと読む官僚が、必ず現れる」
情報局の鵜飼の、あの皺ひとつないダークスーツの姿が鮮烈に脳裏に蘇った。
明石の家の紙の山を一枚も踏まず、完璧な角度でお辞儀をした、あの冷酷な男。
「……じゃあ国家は、私と影人を、同一のテロ組織の二大工作員だと見なしているんですか」
「疑っている。少なくとも、その最悪の仮説に基づいて、君に対する包囲網を敷いている。——と、俺は読む」
私は床の線をじっと見つめ続けた。
生まれてから一度も会ったこともない、肉体を持たない何者かと、私は、国家の天秤の上で鏡合わせに並べられていたのだ。
「……明石さん。影人の正体は、一体何なんですか」
「分からん」
明石は首を横に振った。
「生身の肉体を持たず、何百人もの脳内インプラントを遠隔ハッキングで操り、神盾を完全な人間としてすり抜ける。……そんな神業を可能にする技術基盤に、俺の知識では心当たりがない。この国の思兼の系譜のどこを探してもな」
「思兼の技術じゃないのだとすれば……」
「思兼とはまったく別の、未知の何かがこの世界に存在しているということになる。……だがそれが何を意味しているのかは、俺の統計学の数字では弾き出せん」
明石はノート端末をパタンと閉じた。
画面が消えても、あの二本の冷酷な直線は、私の網膜の裏側に焼きついて離れなかった。
肉体を持たない、何者か。
顔も姿も見えない、誰か。
一方は二年間、エリート社員として大企業に通い詰めた。
そしてもう一方は、地下の遺産回線の向こう側から、私の零点の答案に法外な値をつけてきた。
どちらも、私の側からはその姿を捉えることができない。
そしてどちらも、この国の堅牢な監視網の目を、涼しい顔で通り抜けているのだ。
(——二つの存在が、同一のものだとは限らない)
(だが、二つがまったく別の存在であると断言できる証拠もまた、私は何ひとつ持っていなかった)
◆◆◆
夜更け、私は安宿の部屋を一人で抜け出した。
運河沿いの埃っぽい道を歩き、鉄橋を渡って、街区の辻の角へと出た。
冷たい夜風が吹き抜けていた。
作業着の袖口から入り込んだ冷気が、肘の内側の皮膚を冷たく撫でていった。
辻の角に、ガラス張りの公営端末がひっそりと佇んでいた。
夕暮れ時には日雇い労働者たちが列をなす場所だが、深夜のこの時間帯には、人影はひとりもなかった。
ガラス扉を引いて中に入ると、外の運河の波音がフッと遠のいた。
昼間の太陽の熱が、密閉されたブースの足元に、まだ微かに温もりとして残っていた。
機械油と、金属と、見知らぬ他人の汗の匂い。
冷え切っていた私の指先に、その微かな熱がゆっくりと染み込んできた。
端末の内側の壁面に、労働者たちが釘や爪で引っ掻いて刻んだ、無数の数字が残されていた。
公営端末の識別コードだ。
自分の受箱を持たない底辺の人間たちが、自らの番号をここに刻みつけていく。
いつか自分に用のある誰かが、この文字を読んでくれることを信じて。
読まれるあてのない孤独な数字の群れが、傷痕となってガラスの上に幾重にも重なり合っていた。
私はテンキーを叩き、自分の暗証番号を打ち込んだ。
黒い液晶画面の受信トレイは、完全な空のままだった。
あの狭い擁壁の夜、配送車を止めた直後に届いた、〈見ていた。止めたのは、こちらではない。記録には、何も残らない。——K〉という四行。
あのメッセージを最後に、送信者Kは一文字の言葉も寄越してこなかった。
私は黒い受話器をじっと見つめた。
そして、迷うことなく【新規送信】のボタンを押し、テンキーで文字を打ち始めた。
一文字ずつ、魂を込めるように。
〈あなたは、影人ですか〉
小さな表示窓の最上段の一行が、緑色の文字で埋まった。
その下にある七行の行は、真っ黒な闇のまま静まり返っている。
天井に、一行の問い。
床に、七行の完全な黒。
送信者の署名は、打たなかった。
いまの私には、名乗るべき自分の本当の名前を、何ひとつ持っていなかったからだ。
私の指先は、迷わなかった。
その迷いは、この公営端末のガラス扉を開ける前に、すべて捨て去っていたからだ。
私は【送信】のキーを、力強く押し込んだ。
緑色の一行が、表示窓のガラスからスッと消え去った。
液晶の窓の中には、もう天井も、床も、何ひとつ存在しなかった。
ただ、完全な漆黒の闇が、八行の空白となって広がっているだけだった。




