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第35話 十三の手

夕暮れ時、私が運河沿いの安宿に戻ったのは、西の空が赤黒く濁り始めた頃だった。


早朝から昼過ぎまで口入れ屋の通りに粘り続け、あの代行者リストに名前のあった男たちを、さらに二人見つけ出して話を聞いた。


三人とも、口を揃えてまったく同じ証言を繰り返した。


倉庫街の無人ロッカー。


そこに置かれた紙の指示書と、前払いの現金。


そして、窓口で名乗らされた、あのエリート社員の名前。


三人とも、その仕事を依頼してきた雇い主の生身の顔を、一度たりとも見たことがなかった。


軋む階段を上がって二階の部屋に入ると、擦り切れた四畳半の畳の上に、三枚の紙が並べられていた。


明石の手書きの方眼紙だった。


明石は膝で紙の端を押さえつけ、鉛筆の丸くなった尻で升目をひとつずつ数えていた。


「……これが、影人という完全犯罪が遺した【三つの綻び】のすべてだ」


明石が顔を上げずに言った。


「一枚目が、さっき話した社宅の水道メーターだ」


一枚目の方眼紙には、細い鉛筆の筆圧で、水道の検針ログが手書きでびっしりと書き写されていた。


同じ数字が、上から下まで冷酷に並んでいる。


「ゼロ」という数字が、きっかり二十四行。


「二枚目は、今朝、君が現場の労働者から聞き出してきた健診の予約票だ」


二枚目の方眼紙は、左側に日付、右側に病院の受領印の有無だけが記された表だった。


「本社の電子帳簿の上では、影人は毎年、春と秋に定期健康診断を受診していることになっている」


明石が指差した。


「受診済みの青いフラグが、二年ぶんにわたって完璧に並んでいる。だが……病院の検査室の記録には、血も、尿も、レントゲンの画像データも、一滴たりとも存在しない」


「……」


「予約票の紙だけが、日雇いの男の手によって窓口へ提出される。受付印が押され、電子の記録だけが整然と揃う。だが、その完璧な記録の裏側で、検査室の棚の検体トレイだけが、丸二年間、完全な空っぽだったんだ」


水の次は、血液だった。


質量と質量を持つ物質だけが、国家の知能機械の嘘を拒絶し続けていたのだ。



   ◆◆◆



「そして——三枚目の綻びが、これだ」


明石が指し示した三枚目の方眼紙は、他の二枚とは明らかに異質だった。


数字の羅列ではない。


升目の中に、二文字ずつの漢字の氏名が、手書きで丁寧に写し取られていた。


まったく同一の氏名が、十三個の升目の中に並んでいる。


「水道メーターの歯車が疑惑を生んだあと、国家の監査チームは八洲通商のすべての物理的な書類を倉庫の底から掘り起こした」


明石が言った。


「宅配便の受取サイン。役所の窓口控え。取引先との面談受付簿。そして、健診の問診票。……あの架空の社員の名前が直筆で書き殴られた紙の原本は、全部で四十三枚見つかった」


明石はそこで言葉を切り、私に紙面を差し出した。


私は三枚目の方眼紙の升目を、左上から順に丹念に見つめていった。


一つ目の升目の文字と、二つ目の升目の文字とでは、払いの角度と筆の速度がまったく異なっていた。


三つ目の升目は、二文字目の始筆が真横から鋭く入っている。


五つ目の升目は、上から力任せにペン先を落としていた。


「……筆跡が、全部違います」


「そうだ」


明石が深く頷いた。


「名前の文字は、ひとつ」


「……」


「だが、それを書いた人間の手は——きっかり【十三の手】が存在した」


明石は自分の前腕を強く掴んだ。


「人間という生き物はな、どれほど文字を雑に崩そうと、どれほど急いで走り書きしようと、自分自身の骨格と筋肉の固有の癖を必ず紙の上に残してしまうんだ。ペンの走る速度。ハネの角度。そして何よりも、紙の裏側に残る【筆圧の凹みの深さ】だ」


「……」


「身体の癖というものは、書いた本人にすら絶対に誤魔化せない。十三の手は、十三の生身の人間の肉体そのものだ。……社内の電子ネットワークの中ではたった一人しか存在しなかったはずのエリート社員が、紙の世界の上では、十三人の別人へと無残に分裂していたんだよ」


「……デジタルの側の記録は、どうなっていたんですか」


「電子の宇宙では完璧だったさ。紙に書かれた文字はスキャナで読み取られ、画像処理された瞬間に、帳簿の中では単一のデータとして統合されていたからな」


明石が自嘲気味に呟いた。


「国家の電子網に吸い上げられるのは、薄っぺらな画像(イメージ)の影だけだ。……本物の紙の繊維と、そこに食い込んだ筆圧の凹みそのものは、電子の網の中へは絶対に入ってこない」


明石は手元のペンライトを引き寄せ、三枚目の紙の上で光を寝かせた。


紙が、ほとんど水平になるまで。


そして、すぐに灯りを元の位置へと戻した。


「俺の手書きの写しには、本物の筆圧の凹みは残っていない。俺がノートに写し取ることができたのは、文字の形の輪郭だけだ。……だが、その輪郭の形だけで、十三の他人の手に綺麗に割れたんだよ」


私は今朝の口入れ屋の通りを思い出していた。


両手で十円の紙コップを包み込み、梅干しを茶の中に落とした、あの無骨な日雇い労働者。


あの男の荒れた指先もまた、この十三の手のうちのひとつだったのだ。


「国家の検定AI〈神盾〉にとって、紙という物質はただのノイズにすぎない」


明石が言った。


「電子検索もできず、瞬時に照合もされず、法律の上では存在しないも同然のゴミだ。……そして、あの影人にとっても、紙の扱いはまったく同じだった」


「……」


「国家の監視網が見落としていた盲点の穴を、AI自身もまた、まったく同じように見落としていたんだよ」



   ◆◆◆



一階の階段の下から、店主の嗄れ声が上がってきた。


「……飯、いるかい」


この宿の親父は、一度しか客に声をかけない。


即座に返事をしなければ、二度と食事にはありつけない。


「二人ぶん、お願いします」


私が階段へ向けて声を張り上げると、明石は平たい金属缶の錆びた蓋を、掌でギュッと押さえつけた。


「……明石さんが、こうして何でも手書きで紙に書き写すのも、同じ理由なんですね」


「ああ、そうだ」


明石は淡々と答えた。


「カメラで撮影したデジタルの画像ファイルは、向こうのアルゴリズムによって遠隔で一瞬にして灰にされる。だが、この紙に刻まれた俺自身の生身の筆圧だけは、どんな神の手を使っても消せやしない」


明石の目が鋭くなった。


「手書きの写筆を始めたのは学会を追放された年だったが、あの影人事件の三つの綻びをこの目で見てから、デジタルの記録を信用することが完全にできなくなったんだ」


私は、あの運河沿いの古紙倉庫の二階の朝を思い出していた。


明石が斜めから光を当てて、塗り潰しの下から「昊」という一文字を浮かび上がらせた、あの奇跡の瞬間。


インクの墨は光を遮る。


だが、紙の繊維の奥深くに食い込んだ鉄筆の凹みは、どれほどインクを塗りたくろうとも、決して消滅しない。


あの朝、どうしても文字が浮かび上がってこなかったのは、【旧姓名】の欄だけだった。


二重に塗られた墨。


そして墨を塗る前に、紙の表面を水で湿らせて、繊維の凹みを完全に復元させた狂気の手間。


「……あの旧姓名の欄を塗り潰した人間は」


私は震える声で言った。


「紙の裏側に筆圧の凹みが残るという事実を、完璧に知っていたんですね」


「知らなきゃ、あんな異常な手間はかけないさ」


明石は鉛筆を置いた。


「紙を湿らせて、乾かして、その上から墨を二重に塗り直す。……たったひとつの名前の記入欄を消し去るためだけに、半日以上の作業時間を費やしているんだぞ」


十三の手は、消し忘れられて、歴史に残った。


だが、私の本当の名前が書かれていたあの欄だけは、消し忘れられることなく、完璧な悪意をもって消去されたのだ。


一階から、香ばしい木炭の煙の匂いが上がってきた。


夜の営業に向けて、焼き鳥の仕込みが始まっている。


国家の電子網から完全に切り離された、生身の人間たちの火の匂いだった。



   ◆◆◆



廊下にコトリとお盆が置かれた。


店主は襖を開けようともせず、そのまま階段を降りていった。


お盆の上には、大きな丼が二つ。


炊き込みご飯の上に、串から抜かれた売れ残りの焼き鳥の肉が、無造作に載せられていた。


冷めかけた鶏皮と、硬い砂肝。


部屋の畳の上には三枚の方眼紙が並べられたままで、丼を置くスペースはどこにもなかった。


明石は方眼紙を足で踏むことも動かすこともせず、左手で丼を持ったまま、立った姿勢でガツガツと飯をかき込み始めた。


私は歪んだ窓枠の框の上に、自分の丼をそっと置いた。


框が斜めに歪んでいるせいで、丼がわずかに傾き、甘辛いタレの汁が低い側へと偏って流れていった。


ご飯の粒は硬く冷えていた。


炊き上げてから何時間も保温されずに放置されていた米だ。


奥歯でしっかりと噛み締めると、一階の木炭の煙の香ばしい匂いが、後から鼻腔を抜けていった。


炭火の熱が、冷えた飯粒の芯にまで染み込んでいたのだ。


明石は空になった丼を置き、口のまわりを作業着の袖で乱暴に拭った。


「……ここまでが、影人事件という過去の事件の全貌だ」


明石が低く告げた。


「そしてここからが……物部昊、君自身の物語になる」


明石は畳の上のノート端末を静かに開いた。


青白い四角いディスプレイの光が、夕闇に包まれ始めた薄暗い四畳半の部屋を、冷たく照らし出した。


「影人事件の発覚のあと、国家の最高治安機関は、過去十六年間にわたるすべての検定判定ログを網羅的に走査した」


「……」


「肉体を持たない怪物が、一体どうやって国家の判定網を欺いてきたのか、その微細なハッキングの痕跡を洗い出すためにな」


明石の左手が、自らの右手首の古傷にそっと触れた。


爪で掻きむしることはしなかった。触れたまま、指先が凍りついたように止まっていた。


「その国家の超大規模な走査プログラムは、結局、影人の痕跡を見つけ出すことはできなかった」


明石は画面を、まだ私の方へ向けようとはしなかった。



「——だがその代わりに、走査線の上に、もうひとつの絶対にあり得ない《《巨大な異常データの塊》》が引っかかったんだ」

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