第34話 代行者
夜明け前の薄暗い部屋で、明石が一枚の紙を畳の上に広げた。
一晩じゅう一睡もしていない、血走った目をしていた。
平たい金属缶の錆びた蓋を開け、中から取り出されたのは、男が自らの手で書き写した詳細な一覧表だった。
市販の方眼紙。
青い升目の線に沿って、定規を使って黒インクで精密に引かれた罫線。
升目の中に、整然とした筆圧で、地名と、日付と、識別番号が並んでいる。
判読できなかった箇所には、細い横棒が一本だけ冷徹に引かれていた。
己の推測や憶測で空白を埋めようとしない、筋金入りの統計屋の几帳面な記録だった。
「……影人の手足となった、代行者たちの物理的な受け渡し記録だ」
明石が低く言った。
「国家の解析チームにいたとき、接触場所の地理的な座標データをすべて洗い直した。……自分の目で読んでみろ」
私は身を乗り出し、表に記された地名を一行ずつ指で辿っていった。
三行目を読んだところで、私の指先がピタリと止まった。
私自身が、日々の生活の中で知り尽くしている、見慣れた路地ばかりだった。
港の口入れ屋(日雇い斡旋所)が並ぶ、あの吹き溜まりの通り。
公営端末が設置されている、古い集合住宅の一階の薄暗い廊下。
そして、運河沿いの倉庫街の片隅にある、無人のコインロッカー。
——そのすべてが、私が毎日のように歩いて往復してきた、生活の通り道そのものだった。
「……これ、全部この港湾地区の現場じゃないですか」
「そうだ。肉体を持たない影人は、自らの物理的な手足を、この最底辺の吹き溜まりで調達していたんだ」
私は表から目を離すことができなかった。
肉体を持たない幻影のエリート社員の事件は、雲の上の遠い都市中枢の出来事だと思っていた。
だがその怪物の影は、何年も前から、私と同じ埃っぽい路地を確かに踏みしめて歩いていたのだ。
「……俺はこの安宿に残る」
明石が言った。
「俺のような目立つ風体の男が、早朝の日雇いの列に混ざってみろ。一瞬で怪しまれて通報される」
「……ええ、間違いなく浮きますね」
「だろうな」
明石は表を金属缶の底へと静かに戻した。
「相手への訊く順番を絶対に間違えるなよ。まずは現場の具体的な作業内容から入れ。……最初から雇い主の素性を探ろうとすれば、あいつらは一瞬で口を閉ざす」
◆◆◆
私は最も着古した作業着に着替えて宿を出た。
鞄の中の着替えの中で、一番擦り切れて油の染みた一着を選んだ。
この港の裏通りで最も怪しまれない服装は、一度も洗っていない、現場の泥と汗が染みついた布地なのだ。
出がけに、鞄の底から砂川さんの小包を取り出した。
古い新聞紙を開くと、内側に敷かれた油紙の中に、塩を吹いた自家製の梅干しが四つ、静かに並んでいた。
そのうちのひとつをつまみ、口の中に放り込んだ。
強烈な塩分と紫蘇の酸味が奥歯の裏側を鋭く刺激し、口の中にジュワリと生々しい唾液が湧き出してきた。
頭で思考するよりも先に、私の胃袋のほうが激しい空腹を訴えてキュルキュルと鳴った。
梅干しの硬い種は、ティッシュに大切に包んでポケットの底へ仕舞い込んだ。
港の過酷な現場では、梅干しの種を捨てずに取っておく労働者が大勢いる。
塩気の抜けきっていない種を、二杯目の熱い白湯の中にコトリと落とす。
そうすることで、味のない白湯が、ほんのりと塩味の効いた温かいスープの代わりになるからだ。
日の昇る前の運河沿いは、独特の重い匂いに満ちていた。
夜の冷気の中で淀んでいたヘドロと海水が、朝の潮風に揺り起こされて、底の腐敗した匂いを立ち上らせてくる。
古い鉄橋を渡りきると、空気の匂いは一瞬にして重油と排気ガスの匂いへと切り替わった。
対岸の口入れ屋の通りは、早朝のこの時間帯が、一日の中で最も人口密度の高い瞬間だった。
手配師や警察の巡回に顔を晒す危険性は百も承知していた。
だが、国家の監視の網の目が最も粗くなり、見知らぬ他人が紛れ込みやすいのもまた、この早朝の混沌とした労働者の列の中だった。
通りには、いつもの見慣れた朝の列ができていた。
コンクリートの壁に虚ろな目で背をもたれさせる者。
冷たいアスファルトの上に膝を抱えてしゃがみ込む者。
両手で紙コップを包み込み、微かな温もりに縋り付く者。
列の脇の電柱の陰に、大きなアルミの薬缶を提げた一人の老婆が立っていた。
朝の労働者たちに、熱い白湯を売っているのだ。
紙コップ一杯で、現金十円。
中に入れるお茶の葉は、客が自前で持ち込むルールだった。
この吹き溜まりの界隈では、茶葉を持たない人間よりも、自前で湯を沸かすコンロすら持たない人間のほうが、圧倒的に多いのだ。
私は薬缶のすぐ脇の薄暗がりに立った。
立ち上る白い湯気の向こう側に顔を置いておけば、遠くの監視カメラの顔認証の輪郭をぼかすことができる。
老婆は何も言わなかった。
十円の湯を買わずに、ただ暖を取るためだけに突っ立っている客も、この街では決して珍しくないからだ。
列の最後尾の近くに、目当ての男が並んでいた。
明石が書き写した代行者リストの中で、最も頻繁に名前が記録されていた古株の男。
名前といっても、本名などではない。現場で通用する符丁のような屋号だけだ。
この界隈の闇の労働では、その呼び名ひとつで十分に契約が成立する。
「……ちょっと、お訊きしたいことがあるんです」
私は男の背中に声をかけた。
「現場の仕事の邪魔は絶対にしませんから」
男はゆっくりと振り返り、私の作業着の汚れと靴の減り具合を、上から下まで値踏みするようにじっと見つめた。
同じ現場の泥水をすすってきた、同業者特有の冷徹な目つきだった。
「……検数の兄ちゃんか。この数日、帳場で見かけん顔になったな」
「……ええ。国家のシステムエラーで、枠を全部切られましたので」
「ああ、そうかい」
それだけで、すべてが完璧に通じ合った。
男はポケットから十円玉を取り出して老婆に渡し、紙コップに並々と熱湯を注いでもらった。
そして自分の胸ポケットから、粉末状にすり潰された安物の茶葉を指先でひとつまみ落とした。
ジュッと小さな音がして緑色の湯気が立ち上り、すぐに朝の寒風にかき消されて細くなっていった。
◆◆◆
影人から請け負っていた仕事の内容について尋ねると、男は何ひとつ隠そうとはしなかった。
他人にひた隠しにするほどの、大層な機密ですらないというような、投げやりな口ぶりだった。
「……ただの、書類の運び屋の仕事だよ。月に二、三回。日当の割は、港の荷担ぎなんかよりずっと良かった」
「指示は、一体どうやって届いていたんですか」
「紙だよ、紙」
男は顎の先で、運河の向こうの倉庫街をクイと指し示した。
「無人の貸しロッカーの中に、紙の指示書と、前払いの現金が封筒で入っとるのさ」
「……」
「『何月何日の何時何分に、中央官庁街の何番の窓口へ行って、この封筒を提出しろ。窓口の係員に名前を訊かれたら、こう答えろ』……とな。それだけが、綺麗な活字で印刷されとった」
「……『こう答えろ』というのは」
「他人の名前さ。毎回、同じエリート社員の名前を名乗らされたよ」
男はその名前を口には出さなかった。
私もあえて訊かなかった。
新聞記事にデカデカと載っていた、あの八洲通商の架空社員の名前であることは、火を見るより明らかだったからだ。
「……気味の悪い、妙な仕事だとは思いませんでしたか」
「そりゃあ思ったさ」
男は紙コップの熱い茶をズズッと一口すすった。
「だがな……わしらのような底辺の人間に回ってくる仕事なんてのは、最初から全部妙な仕事ばかりよ。真っ当で綺麗な仕事なら、わざわざこんな吹き溜まりの俺たちまで降りてきやしねえんだからな」
列が前のほうへ数歩進んだ。
男は紙コップを持ったまま足元を引きずって前へ進み、それから、ふと思い出したように言葉を付け足した。
「……そういえば一度だけ、妙に割増しの手当がついた特別な仕事があったな」
「割増しの仕事、ですか」
「定期健康診断の予約票を、本人の代わりに総合病院の受付窓口へ提出してくるだけの仕事だ」
男は言った。
「窓口に紙を出すだけだぞ。わし自身が診察や採血を受けるわけじゃねえ。指定された予約票を受付に出して、受領印をもらって、そのまま帰るだけだ」
「……健康診断を実際に受けたという、《《受診の記録》》だけが欲しかったんですね」
「知らんよ。わしは言われたとおりに紙を出して、日当を受け取っただけだからな」
◆◆◆
肉体を持たない架空の社員の、定期健康診断。
本物の人間が病院の窓口に現れて予約の紙を提出し、だが生身の検体(血液やレントゲン)は現れない。
病院の端末の受付ログには「受診受付済み」の記録が残り、本社の電子帳簿には「健診完了」の青いフラグが整然と並ぶ。
明石が言っていた、影人事件の【二つ目の決定的な綻び】の正体は、間違いなくこの不気味な代行の構造だったのだ。
実体のない知能プログラムは、自らを人間として偽装するために、この街の最底辺から「誰の目にも見えない透明な人間」を選んで雇い入れていたのだ。
——それは、この国が私たちのような不適格者を社会から数え上げず、ゴミとして見殺しにする論理と、寸分違わぬ同一の構造だった。
(人間としての形を偽装するために選ばれた道具が……人間に数えられていない、私たちのような生身の人間だったのだ)
私の手記の帳面に書き記すべき真実が、またひとつ重く積み上がった。
手記に書き連ねても、国家のどの公的な台帳にも一行たりとも載ることのない、闇の真実ばかりが増えていく。
私は上着のポケットから、砂川さんの油紙の包みを取り出した。
残っていた三つの梅干しのうち、一番大粒のものをひとつ取り出し、男の持っている紙コップの縁の上に、そっと載せた。
男はコップの縁に載せられた赤い梅干しを見つめ、それから私の顔を驚いたように見上げた。
「……今日の仕事の割り振りが出たら、ちゃんと金で返すぞ」
「いりませんよ。砂川さんからのもらい物ですから」
「そういう話じゃねえんだよ」
男は不器用そうに呟き、指先で梅干しを紙コップの熱いお茶の中へとポトンと落とした。
紙コップの中の緑色の茶水が、梅干しのエキスによって、わずかに赤黒く濁っていった。
「……最後にひとつだけ。その雇い主のことで、何か覚えている特徴はありませんか」
男はゆっくりと首を横に振った。
「何度もロッカーの指示書で雇われて、何十万もの金をもらったがな……」
男は吐き捨てるように言った。
「——わしは丸二年間、その雇い主の生身の顔を、ただの一度も見たことがねえんだよ」
列の先頭で、口入れ屋の鉄格子の窓口がガラガラと音を立てて開いた。
男は飲み干した紙コップを手の中でクシャリと力任せに押し潰し、列の波と一緒に前頭へと押し出されていった。
足元のアスファルトの上で、放り出された潰れた紙コップが一度だけ小さく跳ね、底に残っていた数滴の茶の雫が、路地の乾いた埃を丸く黒く染め上げていった。




