第33話 水の重さ
「……俺が学会を追放されたあと、国家の外部嘱託として裏の解析チームに呼び戻されたのは……ある重大な事件の統計解析のためだった」
薄暗い四畳半の部屋で、明石が静かに語り始めた。
「百パーセントの神話を疑う厄介な統計屋を、責任を押しつけて使い捨てるための便利な駒としてな」
「……」
「統治機構の言い分では、国家の正規のAIの目では決して見抜けない、外側の異端の目がどうしても必要な事件だったんだ」
「……〈影人事件〉ですね」
私がその名を口にした瞬間、明石の右手がピタリと止まった。
数秒間、男は指先ひとつ動かさずに固まっていた。
「……いつから、その事件に気づいていた」
「初めて丘の上のあなたの作業場を訪れたあの日からです。私の検定答案の分析グラフの横に、もうひとつの巨大な異常データの波形が表示されていて、あなたが慌てて画面を伏せました」
「……あの画面の異常に気づいていながら、今日まで一度も訊かなかったのか」
「明石さんに、すべてを話す心の準備ができるその時を、ずっと待っていました」
明石は土壁に深く背中をもたれさせた。
頭上の壁の隅で、あの狂った一匹の蛾が、コンセントの電磁波を求めてバサバサと羽を打ち付け続けていた。
「……古新聞で読んだ範囲の事実を、言ってみろ」
「八洲通商という巨大商社に、偽造された身元証明を使って何年間も不法に出入りしていた謎の人物がいた」
私は記憶の中の新聞記事を辿った。
「動機は都市中枢への憧れ。内部監査の定期チェックによって発覚し、身柄はすでに確保された……と。港の帳場の待合室に転がっていた古い公報には、それくらいしか書かれていませんでした」
「……新聞に書かれていたことは、一行も嘘ではない。そして、そのすべてが完璧な嘘八百だ」
明石は深く息を吸い込んだ。
長い、重い真実を語り始める前の、統計屋の深い呼吸だった。
◆◆◆
「……影人には、最初から生身の《《肉体》》が存在しなかったんだ」
「……え? 偽造された証明書でオフィスに入り込んでいたのでは……」
「身元証明の偽造どころの話じゃない。物理的な骨も、肉も、血液も、この物質世界に最初から存在しなかったんだよ」
明石は乾いた声で告げた。
「それにもかかわらず、その存在は八洲通商の東京本社の中で、丸二年間にわたって、極めて優秀な正規の総合職社員として完璧に機能し続けていた」
「……」
「オフィスに専用のデスクがあり、社内IDがあり、タイムカードの打刻ログがあり、完璧な人事評価のスコアがつけられていた」
明石は指を折らずに、事実を淡々と数え上げた。
「そして何よりも……彼と一緒に毎日机を並べて働いていた、何十人もの同僚たちが実在していた」
「……同僚たちが?」
「同僚たちは全員、影人と一緒に昼飯の定食を食べた鮮明な記憶を持っているんだ。会議室で新規事業の企画書をめぐって白熱した議論を交わした記憶を持っている。仕事帰りの居酒屋で、生ビールを片手に肩を強く叩き合って笑い合った肉体的な感触まで、克明に覚えているんだよ」
「……同僚全員が、その人間と生身で触れ合った記憶を持っているということは……」
「その記憶のすべてが、完璧な偽物だったんだ」
明石は冷酷に言い切った。
「影人の正体は、同僚たちの脳に埋め込まれた管理AIに、極めて微細なバックドアからハッキングを仕掛けていた高度な知能プログラムだった」
「……」
「同僚たちの耳の奥のコクレア(聴覚端子)と、網膜のアイリス(角膜端子)を通して、偽の立体映像を、偽の滑らかな肉声を、そして触れ合ったときの偽の体温と圧力を、彼らの脳神経へ直接、リアルタイムで再生させていたんだ」
明石の目が、異様な光を帯びて輝いた。
「八洲通商の社員たちは、影人という男が実在すると《《信じ込んでいた》》んじゃない。……彼らは、影人という人間が存在しているという幻覚を、五感のすべてで《《直接体験していた》》んだよ」
一階の焼き鳥屋から、威勢のいい注文を通す声が上がってきた。
「——かしら、塩で二本!」
明石は、その下品な人間の声が完全に通り過ぎるまで、静かに言葉を止めて待った。
「……丸二年間、一度も破綻しなかったんですか」
「丸二年間、ただの一度も綻びを見せなかった。人事評価は全社員の上位十パーセントを維持し、二期連続でスピード昇進まで果たしている」
私は無意識に、右手を自らの耳の後ろへと伸ばした。
角膜端子も、聴覚端子も埋め込まれていない、私の生身の皮膚。
脳内に電極を持たない人間は、影人がばら撒いた偽の握手の温もりを、最初から受け取ることすらできない。
社会からゴミとして弾かれ、端子を埋め込まれなかった私のような最底辺の生身の人間だけが、あの狂気の二年間という幻影の外側に立っていたのだ。
窓の外から、運河の引き潮の低い水音がゴボゴボと響いていた。
「……完璧な完全犯罪だった。——ただ、ひとつの物理的な事実を除いてはな」
◆◆◆
「……水道メーターだ」
明石が呟いた。
「八洲通商がその社員のために借り上げていた、単身者用社宅の……水道メーターだ」
「水道の……メーター?」
「水道メーターという機械は、純粋な物理の歯車で動いている。パイプの中を水が通り抜けると、その水圧によって真鍮の歯車が物理的に回転する」
明石は左手の人差し指で、空中に小さな円をくるくると描いてみせた。
「政変前の古い時代から使われている初歩的な土木技術でな。あの築年数の古い旧式社宅には、まだデジタル通信化されていない、昔ながらの機械式メーターがそのまま残されていたんだ」
明石は身を乗り出した。
「影人は、同僚たちの脳内の知覚を完璧に偽造した。出退勤ログも、セキュリティゲートの通過データも、提出された報告書の電子署名も……電子の宇宙に存在するあらゆるデータは、完璧に改竄し尽くしていた」
「……」
「だがその知能プログラムは、社宅の部屋の蛇口を物理的に捻り、水道管から本物の水をジョボジョボと流すことだけは、どうしてもできなかったんだ」
明石の声が、ぐっと低く沈んだ。
「——水には、質量がある。
そして質量という物理量は、国家のどんな超知能であっても、絶対にハッキングすることはできない」
丸二年間、水の使用量——完全なゼロ。
一人の成人男性が毎晩帰宅して生活しているはずの部屋で、二年間、ただの一滴の水も消費されていなかった。
国家の最高機密の監査チームが見つけ出したのは、高度な暗号の破れ目でも、プログラムの侵入ログでもなかった。
錆びついた真鍮の歯車が、二年間、一度も回転しなかったという——前世紀の物質が突きつけた、絶対的な沈黙だったのだ。
私は自らの右の手のひらを見つめた。
今朝、この安宿の共同水場で顔を洗ったときの記憶。
冷たい蛇口を捻ると、水道管の奥でゴボゴボと水が動く鈍い音がして、冷水が掌に溢れ出した。
あの当たり前の物理の音を、二年間、世界一優秀な知能がどうしても鳴らすことができなかったのだ。
「……古い真鍮の歯車が、AIの嘘を見破ったんですね」
「歯車自身は、何も見破ってなどいないさ。ただ回らなかっただけだ」
明石は壁の蛾を見つめた。
「その歯車が回っていないという異常に、最初に気づいたのは……生身の人間だよ」
「……」
「下請けの水道検針会社で働いていた、社会の誰も名前すら知らない、名もなき一人の検針員だ」
明石が静かに言った。
「その検針員は、電子端末の予測データを使わず、現場の紙の検針票を二年ぶん机の上に並べて、自らの肉眼で見比べたんだよ。……『ゼロ』という数字が、あまりにも不自然に整然と並びすぎていたからな」
「……」
「この国の完璧無欠な認証神話を、最初に根底から打ち砕いたのは……その紙の上に鉛筆で書かれた、手書きの数字の並びだったんだ」
数を数えることを仕事にしてきた人間が、数えられていない異様な空白を見つけ出した。
私も港で六年間、毎日何千個ものコンテナの荷の数を数え続けてきた。
検数の仕事に携わる人間は、規則正しく揃っている列よりも、ひとつだけぽっかりと欠落している列の違和感のほうに、本能的に目が吸い寄せられるのだ。
◆◆◆
階段の下から、お盆を提げた足音がギシギシと上がってきた。
焼き鳥屋の店主が、部屋の襖の外にコトリとお盆を置いた。
黒ずんだアルミの薬缶と、二つの陶器の湯呑み。
「……下の鍋の湯が余ったから、置いておくぞ」
店主はそれだけを言い捨てて、再び階段を降りていった。
湯呑みは二つとも、飲み口の縁がギザギザに欠けていた。
欠けた側を内側に向けて、伏せるようにして置かれていた。
急須も茶葉もない。
私は薬缶から熱い白湯を湯呑みに注ぎ、両手で包み込むようにして持った。
冷え切っていた指先が、湯呑みの陶器の熱によって、じわじわと温まっていった。
明石は白湯を取ろうとはしなかった。
壁から背中を離し、無言のまま廊下の突き当たりの水場へと歩いていった。
蛇口から水が激しく流れる音が、しばらくのあいだ止まらなかった。
思考が行き止まりの壁に激突したとき、この男はいつも水場へ向かうのだ。
部屋に戻ってきた明石の湯呑みには、蛇口の冷水が並々と注がれていた。
「……だが物部、水道メーターの停止は、この事件の綻びのほんの入口にすぎない」
明石が冷水を一口含んで言った。
「影人事件の最も恐るべき核心は、そこじゃないんだ」
「……どういうことですか」
「デジタルの世界における影人の擬態は完璧だった。敗れたのは、物理の世界だけだ」
明石は鋭い目を私に向けた。
「——なら、よく考えてみろ」
「……」
「肉体を持たない幻影の社員であっても、社会の中で活動する以上、どうしても『本物の生身の肉体』が必要になる瞬間が必ず訪れる」
明石は指を一本ずつ折った。
「機密書類の直接の手渡し。物理的なセキュリティゲートの生体通過。そして……本物の肉筆の署名と、朱肉の印鑑が求められる紙の契約書だ」
「……!」
「その時、実体のない影人は、一体どうやってその物理の壁を突破していたと思う」
私は息を呑み、思考を巡らせた。
そして、ひとつの恐るべき答えに行き当たり、喉の奥がカラカラに乾いた。
脳内インプラントを持たない人間。
国家の電子台帳に記録が一切残らない人間。
街の監視カメラに顔を照合されることのない人間。
——この街の最底辺で、最も安価な日当で買い叩かれている、私たちのような日雇い労働者だ。
明石は深く頷いた。
私の青ざめた表情の中に、完璧な正解が書かれていたからだ。
「……影人には、物理的な手足が存在した。——生きた人間の、生身の手足がな」
「……その生身の人間を、一体どこで雇っていたんですか」
「明日の朝、その証拠の紙を見せてやる。見れば一瞬で理解できる」
明石は湯呑みの冷水をグイと飲み干した。
水が減ったぶんだけ、陶器の湯呑みが軽くなった。
「……それから、もうひとつだけ言っておく」
明石は空の湯呑みを机の上に置いた。
「水道メーターの歯車は、ひとつ目の綻びにすぎない」
「——あの事件には、最初から【三つの決定的な綻び】が存在していたんだ」




